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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(141) 壬申の乱(92) [古墳から探る歴史]

 「小さな発見・新しい発見」は、今回でお仕舞いにさせて頂きますと書きました。

申し訳ありませんが、今回の記事を書いたままで、中止にしましたので、今回、投稿させて頂きます。


 田辺昭三氏の仮説は如何でしたか。
 もう一度書きます。
天智朝に至って、にわかに西日本各地に築造された朝鮮式山城については、その築城の意義をいま一度整理してみよう。結論から先にいえば、この山城は日本防衛のために築造されたのではなく、唐がその配下にあった百済の傀儡勢力を利用して構築した軍事施設ではなかったかとする一つの仮説である。
 
 具体的に云いますと、
天智天皇の時に集中して日本書紀に見られる山城は、覚えておられますか。

長門城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
長門城    天智天皇9年(670年)2月条(築城)
屋嶋城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
大野城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
大野城    文武天皇2年 (698年)5月25日条(修造)
基肄城(椽城)天智天皇4年(665年)8月条(築城)
基肄城(椽城)文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
鞠智城    文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)

 これだけでは済みません。
白村江の戦いの後は、どうなったか、調べることにします。

白村江の戦い ウィキペディアによると
 防衛体制の整備の項目が有ります。
 白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門[要曖昧さ回避]、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

 上の見える様に、大宰府の水城(みずき)が有ります。これはどのようなものでしょうか。
この後、水城はどの様な城かを調べるつもりでした。

 おかしいと思ったことは、今は、水がないらしいですね。 深さはあるから防御には役立ちますが、幅は2.5kmでしたか。 この距離ですと、廻れば、幾らでも攻撃できます。

本当に、天智天皇が造らせたのでしょうか。
 何分、私は大阪住まいで遠いですから、確かめようがありません。

お近くの方で、興味ございましたら、教えて下さい。
 netmino@nifty.com で届くと思います。

 有難うございました。


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