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郷社 賀茂神社 [日本の歴史]

東伯郡倉吉町大字?町字二葉山 鎮座 

祭神 別雷神 

由緒 当社は往古山城国賀茂別雷神社より勧請
せるものにして、古来神階などのことも国史
に見 え (清和天皇貞観九年丁丑四月八日伯耆国
賀茂授従五位下と三代実録に記載せるは当社な
らんか) 地方に於ける古社なり、維新前までは
賀茂 皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し貞治以
後山名氏当国を領するや、当社を厚く崇敬し、
社殿 を造営し、社領若干を附す旧記によれば現
社地 一帯を神坂山と称し、山下をを纏る神坂邑
は往古 よりの神領地にして現に宮内宮川等の地
名の遺れば神域内らりしと云ふ、而して当社隆
盛の時代 には神坂の東方五十丁余りの地に神宮
寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、
四時の祭典殷賑を極めたりしか、当時の神宮寺
は七堂伽藍の構造にりしと云ふ、現に寺坊の跡
より巨大の礎石布目瓦等出づ、其の付近に駄経寺、
少林寺等の地名あり、何れも神宮寺の末寺のありし
所と云伝ふ、 然るに戦国の世となり屡々 兵せん
(戦争によって おこる火災)に罹り、当社の社殿並
に神宮寺も鳥有に帰し、多数の宝物古文書等悉く
焼失、社領も没 収せらるゝに至りしかば、此の頃
より神宮寺は自 然廃絶に至れり、天文年中尼子晴
久当社を尊宗社殿を造営す、其の後吉川氏倉吉城
を再興するに当たり、厚く当社を崇敬す、慶長年
中中村伯耆守神坂村の地七十二石を社領として寄
付せらるる、 此の時社頭再び隆盛を来たし神宮寺
も又当社の前方 打吹山の麓に再興するに至れり、
然るに中村氏断絶 するに及び社領又缺ぐ、元和三
年池田光政因伯二州 を領し長臣伊木長門守この地を
管するや、又厚く当 社を崇敬せられ祭祀料若干を寄
付す、寛永九年池田光仲因伯二州を領するに及び厚く
当社を崇敬し社三十石を寄付し此の地を守護せし家老
荒尾氏に命じ、 毎年?米を以て当社に交付せしめられ
明治維新に及ぶ、当社は国守より雷除其の他の祈祷を命
せられし こと屡々にして、祭日には国主の命に依り與力、
大目 付、寺社奉行等出張し諸事を取り締まり大に警固に
務 めたり、享保四年宗源宣旨により正一位を授けらる、
明治維新の際賀茂皇大神宮を賀茂神社と改称郷社に列す、
鳥居したなる御供用水は俗に夕顔の井と云ふ、陰暦徳
太平記は清先の井戸とあり、古へ此の井辺に大なる夕
顔ありて天女是に昇天すと云伝ふ、明治四十年二月三
日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、明治十三年十二
月其の筋の許可を得て当社に光挌天皇の御生母大江磐
代君の御霊代を合祀せしが、同四十五年五月新に大江
神社を創立の許可を受け大正二年四月十四日奉遷す、
当社々殿内に天拝石とて形状恰も鶏卵の如く長さ一尺
八寸許径九寸許の石なりと云ひ、又往昔天皇御遥拝の
神石なりしを以て天拝石と称すといへり。

例祭日  十月十一日

建造物  本殿、幣殿、拝殿、神輿庫、祭器庫、参籠所、
     随神門

境内坪数  千九百十九坪

  氏子戸数  千六百四十戸

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