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郷社 倭文神社 [日本の歴史]

東伯郡北谷村大字志津字宮ノ前鎮座

祭神  経津主神、武葉槌神、下照媛紙、伊弉諾命
    伊弉冉命 誉田別命、国狭槌尊

由緒  創立年代不詳、文徳天皇斉衡三年八月従五位
    上を授けられ、延喜の制小社に列す、朱雀天
    皇天慶三年九月従三位倭文神に正三位を授け
    ららる(本郡には同神ありて神階のこと何れの
    神社をを指せるにや詳らかならず) 鎮座地志
    津は社号の倭文と同一なり、随って祭神倭文
    神武葉槌命を祀れるより起因せること明かなり
    後世に至り志津大明神とも三ノ宮志津大明神と
    も三ノ宮志津大明神とも称したり、往古より
    武門武将の崇敬厚く多くの社領を有したり 八
    町四方の御免地 (神楽田、御供田、籠田王殿、
    カワケ田、行田、使者田、神田、神主屋敷、灯
    明田、山田、橘、王代、祭所) 今尚字に残れ
    り、嘉慶二年国主山名時氏社殿を建立し、社領
    十八町歩寄進あり、其の後吉川駿河守元春社領
    を再興す、天正二年南條豊後守宗勝の祈願所と
    して社号を建立、社領を寄進す、慶長中中村伯
    耆守社領を没収す、寛永五年松平勝五郎内高木
    斎宮建立天和三年松平相模守光仲金百疋直納、
    御公儀より玄米十五石竹百束人夫五十人被遺本
    殿建立、正徳五年地頭高木長兵衛社殿建立爾後
    歴世太守の祈願所として毎年神札を直納せり、
    寛永元年には官許を得て豪族の拝殿建立あり、
    享保十六年伯耆一國の?化を以て各大庄屋宗旨
    庄屋は普く郡中の信仰に訴へ社殿造営さる、宝
    暦二年三月にも同じく伯耆一国の勧化に依りて
    社殿を造営す、明治四年郷社に列す、明治四十
    年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せられる、
    大正二年十二月北谷村大字福本字峯鎮座村社福
    本神社(祭神誉田別命)同村大字尾田字中峯鎮座
    村社尾田神社(祭神伊弉諾命)同村大字福本字峯
    鎮座村社新宮神社(祭神伊弉冉命)同村大字福富
    字クラヤ鎮座村社福富神社(祭神國狭槌尊)を合
    併す。

例祭日  四月十九日

建造物  本殿、幣殿、拝殿、中門、廊下、神饌所、
     社務所、随神門、神輿庫、参籠所

境内坪数 一千百二十坪

氏子戸数 百六十一


私からの感想 
①田の字の付く地名が多いですね。
② 境坪数内と氏子戸数の数字が大きいです。合併する
 時は、大揉めに揉めたでしょうね。
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