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歴史各論 三角縁神獣鏡(117)魏志倭人伝(68) 邪馬壹国は、何所に(64)邪馬壹国(23) [三角縁神獣鏡]

鈴木琢磨著『テポドンを抱いた金正日』、前回書いた時より、少し読み進みました。
北朝鮮にとっては、2002年が、激動の時だったように思います。
 しかし、元に戻ってしまったようです。

 話は2002年どころか、2000年前の紀元前後の事です。この頃は、すでに、日本に稲作が入っていました。稲作は、朝鮮半島を介して日本に入って来たと思われていますが、間違いだろうと考えています。
 少し前に、ハニ族の事を書いていましたが、現在の中国の雲南省あたりの人が、大量に移動してきたために、徐々に、日本列島に拡がったのではなく、一気に、稲作が拡がったと考えています。
 
 簡単には書くことは出来ないのですが、三内丸山遺跡では、早くから、計画的に、食糧を生産していた証拠が、次々見つかっています。日本では、大きく分けますと、畑作と稲作になりますが、畑作は、焼畑農業の時代が長く続いたのではと推察しています。
 焼畑農業は、収穫が減ってくれば、移動することによって、収穫を増やすことが出来ますが、ハニ族の棚田に見られるように、4代ぐらいの人が、一緒に住むことによって、文字が無くても、稲作を伝えることができ、定住が可能になったと想像してきました。

 すべて、2000年前の事で、データーもありませんので、現在の北朝鮮がヒントになるのではと考えて見ました。


 前回、北朝鮮の事を少し、書きました。北朝鮮の事は詳しいという方でも、碌々無に等しいデーターを使って、北朝鮮の解明を試んでおられます。

 私は、それどころか、資料はゼロに近いのですが、北朝鮮の人は、食べるものも無く、多いときは、餓死者が、60万人もいたと書いておられる人もありました。この数字は正しいのでしょうか。
 
 仮に、餓死者が60万人あったとの数字が正しいとします。その次の年は、どうなったと思われますか。不作が二年続けて起ることは可能性としては、少ないと思われます。
 農民であれば、次の年に使う種籾は残すのが常識ですが、手を付けますと、次の年は、天候が良くても、収穫は悪くなります。
 餓死者がどんどん出る様な数字は、北朝鮮は発表するわけはありませんから、脱北者からのデーターとなります。
  現在、日本の人口は、13000万人ぐらい、北朝鮮は、2300万人ぐらいです。大雑把な計算で、日本は、100万人弱の人が生れます。同じくらいの人が死にますと、人口の増減はありません。少しずつ、人口が減っているらしいですが、100万人死んでいると考えます。

日本  人口 13000万人 死亡者 100万人
北朝鮮 人口 2300万人  死亡者 60万人
 としますと、人口割にしますと、北朝鮮は、100万人の6分の1の16万人となります。医療技術が送れているとして、幼児や老人の死亡者が、倍としても、32万人にしかなりません。
 私がインターネットで見た60万人の餓死者は多い様に思います。外の病気で死ぬ人が、16万人の倍として、32万人です。合計、60+32万人で、92万人が、死んだことになります。
 60万人の餓死者は、半分が、成人としますと、次の年は、労働者が、30まんにんだけ、減りますから、生産力は落ちることになります。

 大いに、いい加減な計算をしましたが、計算をしながら、確かに、10年前は、大変だったのでないかと、推理しています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(116)魏志倭人伝(67) 邪馬壹国は、何所に(63)邪馬壹国(22) [三角縁神獣鏡]

前回、北朝鮮のことを書いてみますと、書きましたが、北朝鮮のことは、なに一つ知りません。
 北朝鮮のことを書く以上、少しぐらい北朝鮮の事を知ろうと、近くの図書館へ行きました。 鈴木琢磨著『テポドンを抱いた金正日』を借りてきました。

 この本は平成18年10月20日の発行です。と云うことは、この時点で、鈴木氏が知っておられた知識を元に書かれたことになります。 今、66ページを読んでいるところですが、私が知りたいこと ---〔北朝鮮の人は、長寿である〕の根拠になるようなことは何も書いてありません。
 これまでの所は、「金日成」・「金正日」の名前が、主に出てきます。そして、66ページには、「その高英姫は1953年6月16日に大阪鶴橋で生まれた」との文章があります。
現在の最高責任者は、金正恩ですが、この金正恩氏は、金正日(父)と高英姫(母)の間に生まれた三男です。
 鈴木氏の書かれた『テポドンを抱いた金正日』には、金正恩の名前はありません。良く似た名前では、「正雲」の名前を見ることが出来ます。

 6年前に書かれた本に、金正恩の名前が無く、金正雲が書いてあります。読み方は、「キムジョンウン」ですから、金正雲の方が、正しいように思われますが、6年前には、分らなかったことになります。
 鈴木琢磨氏は、時々、TBSテレビの【みのもんたの朝ズバッ】で、コメンテーターとして出演しておられます。
毎日新聞の編集委員をしておられるそうですから、北朝鮮に関して、毎日新聞のトップの方だと思います。それでも、三男の名前すら分らなかったことになります。北朝鮮では、漢字を使わないからかもしれません。

 66ページまでは、「金日成」・「金正日」のことが、割合詳しく書いてありますが、本当かいなと考えながら、読んでいます。なにとダブるかと云いますと、中臣鎌足です。日本をつくった人です。
 しかし、本当の所は、どこの誰かはよく判りません。 

 北朝鮮の事は、何一つ知らないのに、〔抗日パルチザン〕という言葉だけは知っていました。インターネットで検索しましたら、
〔満州の抗日パルチザン〕
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E6%97%A5%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%B6%E3%83%B3
 がありました。ややこしいですね。この辺りの事を知りませんと、現在の北朝鮮を知ることができないように思われます。

 お手上げです。取り敢えず、『テポドンを抱いた金正日』は最後まで読むつもりになっています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(115)魏志倭人伝(66) 邪馬壹国は、何所に(62)邪馬壹国(21) [三角縁神獣鏡]

3回前に、 邪馬壹国は、7万戸あった話を書きました。4代の人が一緒に住んでいたと考えていますが、少なくて、5人家族としても、35万人です。10人家族ですと、70万人です。
 魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことばかりではないのに、なぜか、日本人は、100%正しいと受け入れる人ばかりです。素人の人であれば、それでもいいですが、プロの方で、 邪馬壹国は、7万戸あったことを話題にしておられる方はありません。

 〔4代の人が一緒に住んでいたと考え〕と書きましたが、どうして、この様に書いたかと云いますと、単なる思い付きだけです。

 しかし、4代の人が一緒に住んでいるだけで、漢字は無くても、農作業の行事は、何年でも、受けつぐことが出来るのではと考えています。そう思うようになった話を書いて見ます。

 ハニ族の人たちのことを書き出して、間もないときでした。放送局は忘れましたが、北限に住むニホンザルの生態を放映していました。偶々スイッチを入れましたら、雪の降る木の枝に座っているニホンザルが映っていました。居眠りしていました。寒いのに、どこか避難するころは無いのだろうかと思いながら、最後まで見ることになりました。
 雪を掘っている場面がありました。雪の下から、食べるものを見付けました。
 エサが無くなるとどこかへ移動しました。高い木の上に登りますと、枯れたような木の実でしょうか。ツルについていた実でしょうか。美味しくも無いと思うのですが、モリモリと食べていました。後からついて来た猿たちも同じ様にして食べていました。

 その内に、判って来たのですが、どうやら、リーダーのようです。まだ、食べきらないのに、その場を去ります。全部食べないで行く様です。次は、海岸に出たと思います。北限ですから、青森県の一番寒い所だと思います。
 海に足を付けながら、リーダーは、岩を裏返しました。そこには、貝が付いていました。すかさず、遅れて到着した若い猿たちも、岩を裏返しました。
 移動する間は、勿論、雪の中を歩いていました。

 全部食べつくさないで次の所へ移動と思いましたが、次々と場所を変えるところを見ると、雪中移動となりますと、危険が伴います。たらふく食べてから、次の所へ移動すればいい様なものです。
 三つの食べ物の例を挙げましたが、全部異なるとなりますと、リーダーは、自分が生きている間に、少なくても、行けば必ず、残っている場所を、群れ全員に教えるために移動していると考えた方が良いと思いました。寒さをしのぐのに、わざわざ、枝の上に居る必然はありません。風を避けて、雪の少ない所を選べばいいのに、親らしい猿に、子ザルでしょうか、寒さをしのぐようにしがみついていました。

 つい先日の事ですのに、どの様な順次で放映されたのか、精しいことは覚えていません。
 この北限に生きていくためには、普通の生活では、少し、厳しい冬に当たりますと、種族全滅です。
 この北限の地に住む猿たちは、どうして、わざわざ住むことになったのか、判りませんが、私が考えた推理では、親子4代がいますと、長老は、あらゆるトラブルに対応する能力を備えているのではないでしょうか。
 リーダーが、まだ、食べている猿をほうっておいて、次の所に移動する様は、感動的なものがありました。
 もう少し食べてからと、いつまでも、食べている猿は死ぬことになると思います。

 どうして、猿はこのようなことを知っていたのでしょう。

 ハニ族の人たちは、言葉は喋ることが出来ます。NHKで放映された【天空の棚田に生きる】を見て、私の耳に残っているのは、〔毎年、同じことをただ、するだけ〕との住民の発言です。
 どのようなことが、起ろうが、〔毎年、同じことをただ、するだけ〕しか知らないのだという言葉にも聞こえます。

自分は、ただ、ひたすら、米をつくるだけです。村全体が仲良くしようとなど、思わないのでしょう。それをしなかったら、村全体がなりゆかないと思います。
 
 猿の方は、何年経っても、自分でお米を作ることはしませんでしたが、人間は、米を作り、火を使うことを覚えました。

 ハニ族の人たちは、お米を蒸していました。わたし達、日本人は、蒸しもしますが、炊くことを覚えました。いつ頃の事でしょうか。
 このように考えますと、今後、遺跡から蒸し器が出土するか、どうかに注意をしますと、、どの様な人が住んでいたか推理することが出来ます。

本当は、NHKに、質問状を送付したのですが、一言、老人の方は居られないとか、子供は多かったと返事が頂ければいいのですが、頂けないので、いろいろ推理することになります。
 しかし、返事がなければ無いで、人間いろいろの考えることは可能です。

 2000年前のことを推理しようとしますと、無理がありますので、現代の国のことから推理しようかと思っています。

 対象は、北朝鮮です。

歴史各論 三角縁神獣鏡(114)魏志倭人伝(65) 邪馬壹国は、何所に(61)邪馬壹国(20) [三角縁神獣鏡]

前回には、棚田を潤す水はどの様に確保したかを書いて見ました。

 これは、検証しませんと分りませんが、20000枚の棚田を満たす水は、山に降った雨と、麓から噴き上がる上昇気流が棚田と山全体を包む水分で成り立つかどうかです。

 たぶん足りないと思います。それは、厳しい水の管理によって、辛うじてバランスを保っているのではないかと推理しています。
 1300年以降の歴史はある程度判っているということは、この頃に文字が使われる様になったと考えます。
 それ以前は、4代の家族が一緒に住むことによって、農作業の仕方を伝承していたのではないかと考えています。

 初代の人が、20歳の時に、子供を生むとしますと、4世代がいっしょに住むとなりますと、一番年配は、80歳になります。放映されていた家族は、奥さんが、14歳の時に嫁いできたと報道されていました。その主人は、59歳です。その上に年配の人がいたかどうか分りません。現在は、3世代で生活を営んでいるのかも知れません。

 全て推察ばかりのお話です。少し、学問的なことも書いて見ようと思います。
NHKで放映された【天空の棚田に生きる】から、古代のハニ族の寿命を探ってみようと思いました。
 しかし、余りにも年代がかけ離れています。

 紀元元年に、ハニ族の人が、此の地にやって来て、漢字は無い時代から、、漢字を使うようになるまでの事は、確かなことは分りません。その後、1300年間、どうして、棚田を築きながら生活できたかです。
 残念ながら、証明するすべはありません。

歴史各論 三角縁神獣鏡(113)魏志倭人伝(64) 邪馬壹国は、何所に(60)邪馬壹国(19) [三角縁神獣鏡]

棚田 20000枚を有するハニ族の人たちは、その棚田を満たす水をどのように確保したのかを書いて見ます。
 NHKで放映された【天空の棚田に生きる】に於いて解説していたのは、2つです。
①霧がかかる。
②山全体に、水分を多く含むことが出来る木が生えている。
 霧がかかると田に水分が回るという説明です。少し、信じ難いですね。確かに霧がかかると、霧は水分の塊ですから、その水分は、山全体水分に包まれます。
 私が経験したのは、但馬の竹田城に行ったときです。 歩いて登りますと、頂上は霧で1メートル先も見えませんでした。行くときは、夢中で気が付きませんでしたが、降りる時は、山は、雨の時と同様に、濡れていました。
 その水分は、下の土がたっぷり吸いこむことになります。その水分は、山の木々が取り込むことになります。 ブナではありませんが、ブナの仲間だと説明していました。
 木の種類で云いますと、腐植土になりやすい葉は落葉樹や、広葉樹です。日本の様に、日本全体が桧や杉で覆われていますと、腐植土の層が少なくて、少し雨が降っただけで、崖崩れが生じてしまうように思います。
 水分をたっぷり含んだ腐植土の水分は、ゆっくりと土に浸透していきます。その水は、村の辺りで、小規模の泉となって出てくるのだと思います。

 次に、竹田城の霧のかかった写真があります。
http://matome.naver.jp/odai/2132158077885611701/2132158159485631703
 竹田城に行った時に、この様な高い所に城を築いたのでは、飲み水に困っただろうと思いましたが、山全体が、水の貯蔵庫の役目をしていたと考えています。

昔は、日本の至る所で、ブナ林は見られたそうですが、現在では、東北の白山でしょうか。
ブナの北限の北海道の黒松内町 http://www.host.or.jp/user/bunacent/
に行った時に、ブナの木に耳を当てますと、なにか音が聞こえるような気がしました。水が流れる音でしょうか。??

 高天原は、宮崎県だと云われています。しかし、私はヒルゼン高原だと考えています。ここには、江戸時代までは、ブナ林が一杯あったそうです。標高は、〔天空の棚田〕ほど高くはありませんが、苗族の人たちが、襲われなくて、稲作が出来る所として選んだ所だと思います。低地は湿原が拡がりますから、毎日、ガスが発生して、5合目の所に、雲海が生じました。
 その様子を太安万侶は、古事記に 「天の浮橋」と書き残しました。そして、その浮橋の近くに、御所を設けました。
 ヒルゼン高原では、お米がとれなくて、撤退することになりましたが、田の付く地名は残っています。 地図で調べてください。
 
 この様な視点で、棚田をみますと、全国にある棚田は、ハニ族や苗族の人が、雲南省から日本へやって来たという田村氏の説は、検討するに値すると思います。

 紀元前、180~200年頃の事だと推理しています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(112)魏志倭人伝(63) 邪馬壹国は、何所に(59)邪馬壹国(18) [三角縁神獣鏡]

タイトルと内容が離れています。邪馬壹国は、九州にあったというのが、九州の方の考えです。これは確定的ですが、どこも狭いのが欠点です。

どうして、九州かと云いますと、根拠は、魏志倭人伝に書いてあるからだと思います。書いてある通りに、各国を比定していきますと、どう無理を通しても、上手くいきません。
 魏志倭人伝には、各国の戸数が書いてあります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(98) 魏志倭人伝(49) 邪馬壹国は、何所に(45)邪馬壹国(4)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-30
 邪馬壹国は、7万戸です。4代の人が一緒に住んでいたと考えていますが、もっと、少なくて、5人家族としても、35万人です。そのような大きな集落の跡は、見付かっていません。吉野ヶ里遺跡は、1万人も住んでいたでしょうか。

次に有力な候補地は、奈良盆地にあったという説です。遠すぎます。三角縁神獣鏡は、一杯出土したのに、何一つ解明されておらず、豪族が、朝廷から貰ったものと云うことになっています。
どこに書いたか忘れましたが、解明のヒントは、三角縁神獣鏡の同氾鏡が、離れたところから見つかっています。
 こした謎を解決するヒントは、すべて、魏志倭人伝に書いてあるような意見が多い様に思われます。
 魏志倭人伝には、卑弥呼が女王だったと書いてありますから、100%正しいことになっています。卑弥呼は、実在していましたが、女王ではありません。亡くなる前は、岡山と福知山を行き来していましたが、晩年は、魏の国の人に、囚われていて、248年に殺されたか、自殺をするように命じられたと推察しています。年齢は、100歳近かったと思います。

 卑弥呼が囚われていた福知山の事は、次回から、
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2686294/ に書くつもりです。福知山天座で亡くなられた天照大御神の死後、ここでお祀りをしていたのが、卑弥呼(ヒミコは巫女さんでした)です。魏志倭人伝を書いた人は、邪馬台国(岡山県西大寺)と伊都国(兵庫県・福知山あたり)の間を行き来していた高官のことを邪馬台国の女王と理解していたのでしょう。
 
 卑弥呼の年令は、100歳近かったと書きましたのは、100歳前後の人は、一杯いたことを立証しようと現在書いています。卑弥呼の兄である崇神天皇は、日本書紀に拠りますと、168歳になりますが、これでは、古事記が残している諸々の事とは、一致しません。168歳
から60歳をひきますと、108歳になります。この数字が、崇神天皇の亡くなられた年になります。卑弥呼が亡くなられて、近い頃に亡くなられたはずです。殆どの方は、4~5世紀とされていますが、3~4世紀の間です。この頃から、大型の前方後円墳が、全国に作られる様になったと考えています。

 話題は、前回の記事を読んで頂きますと、ハニ族の棚田の水は、どの様にして確保されていたのか、書くつもりになっていましたが、あまりにも、タイトルと離れましたので、、言い訳を書きました。

 ハニ族の村は、棚田より上にあります。村の上には、山が頂上まであるだけです。NHKで放映された【天空の棚田に生きる】では、村より上に、川や貯水池がある様には、放映されていませんでした。

 これは、重要なことですので、又もや、次回に書きますが、どうして、水を確保したのか、想像してください。

歴史各論 三角縁神獣鏡(111)魏志倭人伝(62) 邪馬壹国は、何所に(58)邪馬壹国(17) [三角縁神獣鏡]

NHKで放映された【天空の棚田に生きる】を見ていて、不思議に思うことは、田に張られた水です。
 日本ですと、私の知っている棚田は、池が造られています。普通に低い所に作られた水田には、近くの川から引き込んであります。ただ、大きな川から水を引き込みますと、大雨が降った時に、田が壊れますから、1キロほどの上流に堰を設けて、そこから、川に沿って水路を設け、その水路から、必要に応じて、自分の田に水を引き込むことになります。
水量が少ないときには、上流で水を多く使いますと、下流の農家は水が足りません。そこで、水争いが起ります。日本の古文書には、水争いと、山の木を切る争いが多いです。争いが多いということは、村人は、仲が悪いということになります。
小字は現在は無くなってしまいましたが、以前は随分大切であったと考えています。小字名を見ますと、その村の成り立ちが推理することが出来ます。

 随分以前に、同じ箕面市にある稲作をしておられる村の田の水源を調べたことがあります。
 日曜日の昼に、畑で農作業しておられる方に、「この辺りの小字はなんといいますか」とお聞きしたら、叱られました。85歳は過ぎておられたと思いますが、私はこの村に嫁いでから、日曜日も休んだことがありません。小字名など、どうでもいいことです。知りませんと。 どうでも、良い分けがありません。その畑の真ん中に、小字の境界線があったからです。
 それ以上お聞きしないで、その辺りの田を歩き回りました。田への水路が違うことを発見しました。隣りどうしの田ですが、一つは、どんどん山の上に登って行きました。その水は冷たかったです。もう一つの水は、横を流れる大きな川からの水でした。但し、川に沿って、相当上流から引き込んであることが判りました。
 どちらの水の方が、お米が沢山取れるのか知りません。どちらの水の方が、美味しいお米が出来るのか、知りません。その村では、この様に水路を違えることによって、水争いを避けてこられたのだと思います。
 80年の人生の間に、水の苦労をされたのだと思います。やはり、小字名など、口にしたくなかったのだと思いました。

 一方、ハニ族の棚田はと云いますと、日本の田と違って、水は流れていました。その水は、どこから来るのかと云えば、上の田から流れてきます。上の田はどこから流れてくるかと云いますと、その上の田からです。 どんどん上に上がっていきますと、山の頂上になるのですが、山から染み出てくる水を鍬一本を使って、溝を掘り、有る所にきますと、流れを二手に流れるように調整していました。大した量ではありませんが、水はチョロチョロと流れていました。流れるつれて、水量は増えていました。
 田から田への水の調節は、鍬一本で、畦を壊して、少し大きくしたり、畦を修理したりして調節をしていました。この作業をする人は、他の農作業はしないで、20000枚ある全てに水が、平等に行き渡るように、専門にする人が居られました。

 お分かりいただけたでしょうか。村人、全員が協力しませんと、ハニ族の棚田は成り立たないことになっています。

 従いまして、他の民族が、村人を皆殺しにして村を奪っても、この棚田で、米を作ることは出来ないことになります。

 この調子で書いていますと、切がありません。しかし、私が始めに書きました村の水争いのことを知らないと、どれほど、田に水が必要であることは理解出来ないと思います。

 もうお分かりと思いますが、【天空の棚田に生きる】のビデオは、見て頂きませんと、理解出来ないことになります。

見て頂きますと、判る様で分らないことがあります。すべての田には、稲苅の時以外は、田に水が満たされています。麓の村であれば、山全体に降った雨は、谷の部分に集まって、川となったり、泉となって、水は湧き出しますから、その水を利用すればいいことになります。しかし、ハニ族の村は、棚田の一番上にあります。その位置から、頂上までは、それ程も高さはありません。潅漑用の池はあったと思いますが、番組では放映されませんでした。
 次回は、この水のことを記します。

歴史各論 三角縁神獣鏡(110)魏志倭人伝(61) 邪馬壹国は、何所に(57)邪馬壹国(16) [三角縁神獣鏡]

タイトルと関係ないことを書いています。
 前回にも書きましたが、夜麻登登母母曽姫は、変な名前だと思われるでしょうが、変なことは有りません。夜麻登で生まれたか、住んでおられた登母母曽姫です。
 古事記では、夜麻登-登母母曾毘売命と記されています。
卑弥呼は、崇神天皇の妹です。崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命の関係は、
次の系図でご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD
(系図は拡大してみてください)
崇神天皇と夜麻登-登母母曾毘売命は、70年の差は有りそうです。この頃ら様子を次の所に書いていますから、興味がございましたら、読んでください。

【開化天皇と夜麻登登母母曾毘売命の死亡】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1022.html
 
夜麻登-登母母曾毘売命は、大和朝廷の仮の事務所の取締役だったと考えています。
 崇神天皇は、もっと、安全な所に住んでいました。
 
 この辺りに登場された天皇は、4代ほど、住んで居られたのではないかと推理していまするご自分で、計算してください。ヒントは、崇神紀5年は、多くの人が死んだときです。192年の出来事です。
 夜麻登登母母曽姫のほかにも、二人の天皇が、同じ時に亡くなられたと考えています。

 前回の続きです。
 NHKで放映された【天空の棚田に生きる】を見ていて教えられたことは、ハニ族の人は、文字を持たなかったこともありますが、只管、毎年同じことをして来たと云われました。「毎年、同じことを繰り返しすることが、我々の生活の全てだ」。これは、長生きをしていたことの証ではないかと思っています。
 現在の私たちの家族は、一時、3代が生活していましたが、父も母も93才でなくなりました。長生きですね。もう、8年前のことになります。その後、8年間は、親子3代で生活していましたが、先日、娘が結婚し、現在、夫婦二人です。
 今、私は、家内に一人になった時に、一人で生きていく知恵を、一年前から授けています。例えば、下痢をしたときは、どうするか。直ぐに、お医者さんに行かないで、食事はとらないで、寝る。熱が出て、しんどいときは、解熱剤を使わないで、お風呂に入って、温かくして、寝る。あまり、心配の時は、お医者さんに行ってもいいが、早く治る代わりに、完全に治るには、4日で治るのが、長引きます。
 家が古いですから、あちこちに隙間ができて、寒いです。殆どの戸は、、力を入れませんと動いてくれません。 敷居をローソクでこすりますと、フスマもガラス戸も、すらすら動いてくれます。
 新聞記事は、どの様に読むかです。新聞記者は、読者の心をどきりとするようなことばかり書きます。真面目に新聞を読んでいますと、心臓に負担が掛ります。
 
 親子3代ではなくて、親子4代が、常に一緒に住んでいますと、同じ生活を続けていくことは、難しくありません。

 私の馬鹿話は如何でしたか。4代が一緒に住んでいるだけで、家族は安心して生きていくことが出来ます。
 
では、どの様な、毎年、同じことを繰り返しするのかは、下手な文章では、お伝えできませんが、次回に書いて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(109)魏志倭人伝(60) 邪馬壹国は、何所に(56)邪馬壹国(15) [三角縁神獣鏡]

タイトルと関係ないことを書いています。
 どうしてかと云いますと、日本の歴史界は、

①卑弥呼一色です。三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏の国から貰った100枚の鏡だと書いている人が一杯です。

②卑弥呼は邪馬壹国の女王だった。
 この二つは確定です。 卑弥呼は、崇神天皇の妹で、福知山で、外国からやってくる人の接待をしていました。ここで、上陸した人は、許可が出れば、岡山県の西大寺の所にある朝廷の本部に行くことが出来ました。 ここを日本人は、「夜麻登」と読んでいて、ここの責任者は、夜麻登-登母母曽姫でした。後の世に、この地は、夜麻登から、「倭」か「大倭」に変ったと考えています。
 「倭」か「大倭」に天皇が居られましたから、その時に、生れた天皇の名前には、第7代 考霊天皇 は、大倭-根子日子賦斗邇命という名前が付けられたと思われます。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/no39-633b.html 

卑弥呼は、外交官であり、巫女さんでした。この地で亡くなった天照大御神の霊を祀っていました。 巫女であることを知っていた魏の人は、「卑」を頭に付けて、魏志倭人伝に、「卑弥呼」と記しました。

③箸墓古墳は、卑弥呼の墓である。これは最近、人気が出て来た説です。私もそう思います。卑弥呼の墓は、兄である崇神天皇が造ったと考えています。卑弥呼の後から亡くなられた崇神天皇の墓は、卑弥呼の墓の隣に作られたと考えています。

 ところが、崇神天皇は168才まで生きたとことになっています。これは、日本書紀を編集した人達が、干支がずれないように、干支をずらしたからと考えます。
 崇神天皇のほか、10代までには高齢の天皇が多いのと、古事記と日本書紀では、記述が僅かしかありません。これは、実在しなかったから、記事が少ないのと、各天皇は、高齢すぎるのが、実在しなかった天皇である証拠になっています。

 そこで、そうではなく、当時の人は、天皇に限らず、100才位生きる人が大勢いたということを説明するつもりになっています。

 そのようなことは、考古学上、壺がいくら発掘されても分りません。新しく記紀以前の本が見つかっても分りません。しかし、順序だてて考えれば判るような気がしています。

  NHKで放映された【天空の棚田に生きる】で紹介しましたハニ族の人たちは、それ程筋肉質の身体をしているようには見えませんでしたが、男女共に、40㎏のお米を背負って一日に、400メートルある高低差の所を二往復していました。
 家族構成が分りませんが、奥さんは14歳で嫁いできて、現在、54才、主人は、59才ですとある家族の夫婦の年令を報道していました。

 それがどうしたと云われそうですが、この過酷な労働で、40年は生きて来たということです。
 これは特別で、殆どの人は、35歳ぐらいで死んでしまうのではないかと思いたくなりますが、皆さん、明るくて、よく働いていました。
 
 別に、そのような生活が大変だという様子はありませんでした。
 「毎年、同じことを繰り返しすることが、我々の生活の全てだ」と云われた様に思います。文字も無かったですから、ひたすら同じことを繰り返して生きてこられたと思いました。

 田を耕す時に、牛を連れて行きました。あれっと、思ったのは、牛に荷物を背負わせていませんでした。坂が急なために、荷物を付けなかったのかと思っていました。しかし、そうではなくて、牛を大切にしていたのだということが判りました。
 どのように大切にしていたのかと云いますと、家族のどなたかが亡くなり、お葬式をする映像がありました。
 その時に、大切な牛を殺して、あの世に持って行かせるのだとありました。私は、やっと、過酷な労働から解放されることになるのに、あの世で、又、牛を使って働いて貰うのだと皆さん、考えられるのでしょう。
 牛一頭を失うことは、私たちが、車を壊してしまうより、大きな痛手だと思うのですが、
それだけ、その大切な牛をお供にして、精一杯のお葬式をされていると思いました。 

 家族が、30~35才で死にますと、そのたびに牛一頭も死ぬことになります。 それでは、経済的に負担が多いです。ハニ族の村では、長生きをする人が多いので、牛を道ずれにするという風習が残ったのでしょう。もっとも、牛の寿命は20年ぐらいまでですから、寿命の近い牛を供するのかもしれません。勿論、殺した牛は、周囲の皆さんで、食べることになるのでしょうが。
 
 NHKに、この村では、高齢者が多かったかどうか、教えて下さいとお願いしましたが、返事は頂けませんでした。









歴史各論 三角縁神獣鏡(108)魏志倭人伝(59) 邪馬壹国は、何所に(55)邪馬壹国(14) [三角縁神獣鏡]

ハニ族の人は、長生きされたのではないかと書くつもりになりながら、書かないで、そのことと長生きが分らなくなるのではないかと、前回の脱線になりました。
 
 NHKで放映された【天空の棚田に生きる】を見る限りでは、過酷な生活をしておられる様が分ります。そのような過酷な生活をすれば、逆に長生きは出来なかったのではと思えるほどの日常です。
 
 その様子を記します。
 彼らは、高いところは、標高1800mある所で生活し、標高差は、1500mの棚田と説明していたように記憶します。上300m樹林です。その下に、人の住む村があります。
 田は、そこから1500mの標高差の所につくられており、20000枚あり、1500世帯の人たちで、稲作をしています。
 主なる農作物は、稲です。標高差が大きいですから、稲刈りは高くなるほど、遅くなります。食べるものの大半は稲ですが、稲刈りの時を除いては、田には常に水が入れられています。
 そこでは、鯉やタニシがおり、唯一のタンパク源となっています。低い所の他までは、距離にして3キロ半ほど、時間にして50分を要して降りて行きます。降りる時で50分ですから、村に戻るときは、当然、もっとかかるはずです。

 農作業で大切なことは、毎年行われる畦直しです。畦に生えた草を土ごと削り取り、その土と草を交ぜ合わせて、残った畦に塗る作業は、鍬一本で行われます。 20000枚ある畦の修理です。完成しますと、牛を使って鋤起こしです。その他の稲刈り等は、全て人力です。収穫した稲は、そのまま、村迄もってあがると重いので、田で穂先を叩いて脱穀します。器械は使用しません。勿論農薬等は一切使いません。
 農薬を使いませんと、収穫は3割ぐらい減るのではと思いますが確かではありません。

 脱穀したお米は、一袋に40㎏を詰めて、牛は使わないで、一人一人が方に担いで、3キロ半の道のりを歩いて村に帰ります。
 私ですと、30㎏でも、持ちあがらないと思います。20㎏でも、歩けないと思います。

 どれほど、凄い労働であるか、【天空の棚田に生きる】をご覧ください。
食べている物は、米が主食です。村の周りに栽培している野菜はあります。タンパク源は、先ほど、書きました鯉とタニシがありますが、外に鶏と豚がありました。これは、タンパク質と云うよりは、人間が、食べ残したものや排せつ物の処理、こぼれた食物を浚えてくれる動物です。この動物の汚物は、田に還元されます。
 養豚とか養鶏という感じはありませんでした。
 一日に出来る稲刈りは、その日のうちに、お米を運ばないといけないので、一日に出来る稲刈りは、40㎏の袋で、10袋だそうです。一日に何往復するのかは、忘れました。

 こうした風景は、どこから眺めても、みることは出来ませんから、NHKでは、ハンググライダーで、滑空して貰って撮影をしていました。

 如何ですか、私の記憶違いがあるかも知れません。自分の目で確かめてください。

 映像見た限りでは、長生きをするどころか、短命であったのは、確かであると思いたいところです。

 次回、続きを書いて、やはり長生きされたのではという 強引な理屈を書いて見ようと思います。




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