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東の高天原(35) 西の高天原(28)磐田原台地(26) 国分寺(21) 歴史各論 [高天原]

如何でしたか。 3つの島は、小さいのに神社が多いことと、多いだけではなく、面積に比べて、式内社も多いことが判りました。
 もう一度書きますと、対馬 29、壱岐24 隠岐16の式内社です。
【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ でご自分の目で確かめてください。

 ①対馬や壱岐よりもどうして、隠岐の方が式内社が少ないと思われますか。
  長いこと、このブログを読んで頂いている方には、簡単に解ると思います。式内社は、藤原氏が元々在った、神社を式内社に制定した神社です。藤原氏の正体は、判らないことになっていますが、千葉県辺りにいた人たちと考えています。彼らの先祖は、但馬に移動したのではないかと推理しています。
 その根拠は一言では言えませんが、
 日本史 但馬の歴史 茶すり山古墳をはじめとして、以後78回、但馬のことを調べました。但馬を探る http://blogs.yahoo.co.jp/k91293329k/16487925.html
こちらには、51回書きました。 両方とも、中途半端なものになりましたが、あらゆる所に、藤原氏の匂いがいっぱいです。その後、藤原氏は、南下します。

 文章にはしませんでしたが、彼らの足跡は、次の所に保存しています。
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/blog-entry-35.html 
大阪府茨木市に「新屋坐天照御魂神社 」という名前で残っています。天照という名前が、有りますから、天皇と関係があると思われますが、ニギハヤヒと関係が有ります。
 茨木のこの人たちは、河内に降臨したとされている人と同じ人たちではないかと考えています。この人達は、一度、歴史からいなくなったのではないでしょうか。
 それを復活させたのが、藤原氏ではないでしょうか。日本書紀には、大いに登場させたように思います。
 その時には、天皇家よりも血筋が、正統であることになっています。天皇家よりも、早く奈良を制圧したことが、日本書紀に書かれています。そのニギハヤヒを征伐に出かけたのが、伯耆国に居た神武天皇です。
 この歴史が、正しいのだと、藤原氏は、あちこちの歴史を書換えました。主に、古事記に書いてある歴史を書き換え、正しい歴史は、これですと、日本書紀を完成させました。
 どちらの言い分が正しいか判りません。隠岐国の方が、天皇家の勢力が強かったから、式内社は少ないと理解します。その制定された式内社の中には、古事記に出てくる神さんは、ゼロです。
 藤原氏は、大阪の枚岡神社と奈良の春日神社に、自分たちの先祖である神を祀りましたから、千葉---但馬----大阪---奈良へ移動したと推理しています。藤原氏は、どうやら、中国からやって来た人たちと思われます。

② 対馬と壱岐は、どうして式内社が多いと思われますか
 次回にします。

東の高天原(34) 西の高天原(27)磐田原台地(25) 国分寺(20) 歴史各論 [高天原]

前回の続きです。邪馬台国は 岡山県の西大寺に在りました。この説明をしていますと、一年ぐらいかかりますから、左の欄の検索の所で、「邪馬台国」と入れて検索してください。
 例えば 歴史各論 三角縁神獣鏡(112)魏志倭人伝(63) 邪馬壹国は、何所に(59)邪馬壹国(18)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15
 ここから、17回戻って頂きますと、書いてあると思います。

 今日は別のことを書きます。
  はじめて、このページを開かれた方は、おかしいなと思われるでしょう。タイトルにある文字に関係の有るものはなにも出てきません。今日は、隠岐、対馬、壱岐に祀られている神さんのことを書くつもりになっています。
 前回は、対馬、壱岐には、古事記に出てくる神が多いと書きました。隠岐は15ある式内社には、古事記に書かれている神は有りません。(?)  有ると思っていたのですが・・・・。

 ところが、次の資料をご覧ください。
【隠岐島の神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
 ここに、通説として、次の文章が有ります。

 神名帳と神社  隠岐島民は、敬愛愛国の思想に富み、神社を崇敬するの風あり。古来、有名な神社多く、延喜式神名帳に掲載せられたるもの、十六座に及び、就中、「名神大」と註せられしもの、知夫郡由良比女神社(ユラヒメ)、海士郡宇受加命神社(ウズカノノミコト)、同郡伊勢命神社の四座を有し、出雲国百八十七座中、大社二座、因幡国の五十座中、大社一座、伯耆家石見の大社無きに比し、隠岐の孤島にして、十六座中、大社四座を有するは、実に畏敬と謂わざるべからず。殊に、上古は、朝鮮半島交通の要路に当り、平安朝以来は、新羅来寇の衝に当たれるを以て、屡、勅を下して、異国調伏の祈願あり。神階授与の事、亦屡、国史に見えたり。朝廷に於いては、当国の辺要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし。

 これを書かれた方は、隠岐島の方でしょうか。周りの大国と比べても、一番「名神大」が多いと書いておられます。
 対馬、壱岐の資料は有りませんので、私の資料をご覧ください。
【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ の全国別式内社一覧を探してください。<神社のはなし>の中に在ります。壱岐では、やはり、4つの「名神大」が見つかります。
 
 今度は、先ほど、見て頂きました
【隠岐島の神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.htmlをすこし、下へスクロールしてください。そして、次のページに行きますと、
隠州視聴合祀に見えたる神社 と記して、神社の資料を掲載しました。
延喜式神名帳とは、別の資料になります。

同書云、下西惣社に、「隠州神名帳」と号くる一巻あり。何人の記す所になるか知らず。
されど、見るに随い之を記して、以、博覧に備ふ云々と附記せり。

とありますから、誰かが、なにかの意図が有って書き残しとも考えられますが、すべての神社に神階が書いてあるのが、驚きです。
 
 神さんの名前を 丁寧に確認してください。ここに掲げられた神社は、式外社になりますが、107社あります。

 現在の神社の一覧表もありますから、そちらもご覧ください。こちらには、古事記に出てくる神さんの名前がちらほら見えます。
 
  ここにある神社と、その前に見て頂きました式外社とは、ダブらないのでしょうか。調べていませんが、107の社に、神階を授けたのは、誰だったのでしょうか。
 「名神大」の名前まで与えたのは誰だったのでしょうか。

 誰だったにせよ、隠岐、対馬、壱岐は、日本国にとっては、一番重要だったことになります。

 これほど、凄い話は、どうして、日本の歴史界では取り上げられないのでしょうか。

東の高天原(33) 西の高天原(26)磐田原台地(24) 国分寺(19) 歴史各論 [高天原]

最近は、歴史は、頭の中で考えただけでは解決できない様に思えるようになっています。特に、考古学だけでは、駄目だなと。
 和泉国は、一度行ってください。全部歩いてもしれている広さの国です。その国に、式内社が54社もあります。
 それよりも多い所が有ります。山城、大和、河内です。伊勢、出雲、越前。どうして多いのか、お分かりですか。次のところで、ご自分の目で確かめてください。
 【全国別式内社一覧表】http://www21.atpages.jp/skeikas/page006.html 

 眺めて頂きましたか。この表には、国の広さが書いてありません。広ければ、式内社は多いに決まっています。広くても、山ばかりであれば、少ない筈です。

 もう一度、眺めてください。
 いくら広くても、都から離れていたのでは、人が住んでいなかったでしょう。

 陸奥 は目に入りましたか。 どうして、陸奥国に、100もの式内社が定められたのでしょう。 青森、岩手県のかたですと、お近くですから解るでしょうか。 大阪の私に比べれば分ると思います。100の式内社をすべて、歩かれたら解ると思います。私には、無理です。

もう一度 眺めてください。眺めるたびに、どの国に式内社が多いのか、少ないのか判らなくなると思います。

今度は、式内社が多いではなく、面積が狭いと思われる処に目をやります。

行ったことはありませんし、地図でも眺めたことは有りませんが、隠岐、対馬、壱岐が狭いのではないでしょうか。
 と考えますと、式内社の数は多いようにも思われます。
 
納得と思われたら、早速、隠岐、対馬、壱岐 をクリックして、どの様な神社があり、祀られている神さんを眺めてください。

隠岐は神名帳に掲載されているのは、16社ですが、現在は15社が分っています。祭神は、余り馴染みのない神の名が書かれています。

対馬、壱岐の方の、神さんは 古事記に登場する神さんが目につきます。ということは、対馬、壱岐は、天皇家の人が、大陸からやって来た時に、やって来たところではないでしょうか。
 紀元前から、200年間の間にやって来たと考えています。

魏志倭人伝に、大陸からやって来たコースと国の名前が書いてあります。邪馬台国は、九州にあったとか、大和にあったとか、云われていますが、両方とも、間違っています。

次回は、続きを書きます。

東の高天原(32) 西の高天原(25)磐田原台地(23) 国分寺(18) 歴史各論 [高天原]

本論からどんどん離れるのですが、ついでに、今回も一ノ宮のことを書きます。
一ノ宮とは、だれからも文句をつけられないように説明しますと、前回に書きましたように「一宮の起源は「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とするのが通説になっている」となります。新任の国司が赴任したときに、一ノ宮から順番に挨拶に行くのだと思っていました。

 しかし、今は、そうとは限らないなと思っています。
ウィキペディアの執筆者は、全国の一宮をすべては、行かれなかったのだと思います。

1. 原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。
備前には、次の三社が有ります。
安仁神社 http://www.genbu.net/data/bizen/ani_title.htm

吉備津彦神社 http://kamnavi.jp/en/kibi/kibihiko.htm

石上布都之魂神社
http://mononobe.digiweb.jp/tabi/isonokamihutu/index.html

2. 祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。

  例えば、石上布都之魂神社は、訪れましたが、何故か、カーナビが誘導できなくなり、とんでもない所を走っていました。気付いて後、地図を頼りに走りましたが、この様な辺鄙な所にあるのかと心配しながら、走りました。人家はありましたが、「地元民衆の篤い崇敬対象の神社」とは思えませんでした。それだけではなく、ここは、奈良天理市にある石上神宮の元の神社ではないかと思いましたが、一ノ宮所で亡くなりました。益々、石上神宮は謎に包まれて神社だなと思っています。

 倭文神社 鳥取 http://www.genbu.net/data/bizen/ani_title.htm も山の中で、人家がなかった様に思います。

3. 全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。(異説あり。後述の「変遷と争い」を参照。)
吉備津彦神社は、式内社ではありません。 ここらも複雑です。

4. 必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。
 これは、正しいでしょう。ただ、神位の高さが良く判りませんので、今、調べている最中です。
神社の社格と位階 http://www21.atpages.jp/skeikas/page273.html

   社格と位階が記録されている神社をすべて、調べますと、なにか判って来るのではないかと期待しています。


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【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/   更新した日を入れています。新しいものをご覧ください。
 面白いもの---壱岐の式内社

東の高天原(31) 西の高天原(24)磐田原台地(22) 国分寺(17) 歴史各論 [高天原]

和泉国の神社と祭神名
http://www21.atpages.jp/skeikas/page265.html
 見て頂きましたか。大鳥郡 23、和泉 21 日根 10 合計、54社の式内社が有ります。
和泉国を造る時に、始めは、和泉と日根を分離したのですが、1ヶ月もしない内に、大鳥郡を追加しました。
 その理由を見つけるには、資料がないのですから、考えれることは、すべて、動員する必要があります。
 他国の式内社は、天皇と関係ある神が祭られていません。とくに、アマテラスは祀られていません。しかし、和泉国では、天皇と関係ある神が多いです。
 資料では、天皇に関係がありそうな祭神を赤色にしておきました。丁寧にながめますと、まだまだ、赤色は増えます。
 
 その他の神も、どのような神であるか知りませんと、神社の性格を知ることは出来ません。 この点は、複雑ですから、後にしまして、先ずは、大鳥神社です。
 ウィキペディアに拠りますと、
大鳥大社(おおとりたいしゃ、正式名:大鳥神社)は、大阪府堺市西区鳳北町にある神社。式内社(名神大社)、和泉五社の一つで和泉国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は別表神社。
とあります。名神大社 和泉国一宮 とは、どの様な意味が有るか判りますか。これが分らないのです。
 どこの国にも、一ノ宮があります。続いて二ノ宮、三ノ宮とあります。これまで、近くに居ったときは、出来るだけ一ノ宮に立ち寄るようにしています。
 驚いたのは、尾張國一之宮 真清田神社でした。所在地は、愛知県一宮市真清田1丁目です。このように、町の名前に、一宮市とか一宮町と残っています。どうして、このような大きな規模の神社がつくられたのだろうと思いました。
 一ノ宮の周りに、人が集るようになり、町も神社も発展するようになったと思われます。中には、山の中に、神社だけが有る所もありました。

 そこで、一ノ宮とは、どのような神社かを説明しますと、ウィキペディアの力が必要になります。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AE%AE ここから一部抜粋しますと、
『「一宮」の選定とその背景』[1]では、選定基準を規定した文献資料は無いが、一宮には次のような一定の形式があるとしている。
1. 原則的に令制国1国あたり1社を建前にした。
2. 祭神には国津神系統の神が多く、開拓神として土地と深いつながりを持っており、地元民衆の篤い崇敬対象の神社から選定されたことを予測できる。
3. 全て『延喜式神名帳』の式内社の中から選定された1社であるが、必ずしも名神大社に限られていない。(異説あり。後述の「変遷と争い」を参照。)
4. 必ずしも神位の高きによらないで、小社もこれに預かっている。
 上のようなことでは、結局、一ノ宮は、次のようなことなります。

一宮の起源は「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とするのが通説になっている。

東の高天原(30) 西の高天原(23)磐田原台地(21) 国分寺(16) 歴史各論 [高天原]

前回も書きましたが、タイトルに「歴史各論」と書いていますが、論文でもなんでもありません。日本の歴史を探るために、歴史の部分に目を向けて、試行錯誤しています。

 最終的には、全国の国分寺の歴史を探ることになりますが、今回は、和泉国の国分寺が、どうして、完成しなかったを考えて見ます。

当時の大和朝廷は、河内国の一部を分割して716年に和泉国を作りました。1ヶ月もしない内に、河内国大鳥郡を追加しました。しかし、740年には、和泉国の和泉監を廃止して、河内国に戻しました。24年で、計画は破綻したことになります。

 ポイントは、どうして、1ヶ月もしない内に、河内国大鳥郡を追加したかです。大鳥郡とは、どのような郡かと云いますと、資料は持合わせていません。本当ですと、一杯資料を集めるべきですが、体力と知力の欠乏で、困難ですから、持ち合わせの資料だけで、考えて見たいと思います。

 資料とは、【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ にです。他の所を見ていますと、時間が勿体ないので、式内社について書いてある所を見つけてください。

神社のおはなしから、「全国の神社と祭神名」のタイトルが見付かるまで、探してください。
 なぜ、このようなことを書くかと云いますと、一覧表をすぐに、見えるようにしますと、どなたも、チラッと見てすぐに、消されると思うからです。
 複雑な一覧表は、随分かかって、完成させたものです。これと同じものは、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html にあるのですが、毎月、沢山支払っているのですが、新しい記事を書き込むことが出来ません。空き容量はあることになっているのですが、コンピューターの知識がないために、解決できません。
 お金もありませんので、消える運命にあります。こちらには、「全国の神社と祭神名」以外に、いっぱい書き残しました。プロからみますと、およそ、つまらないものですが、つまらないものでも、眺めているだけで、新しい発想が生まれることが有るのです。

 一例を挙げますと、
①蒜山高原の神々  http://homepage1.nifty.com/o-mino/page686.html
②隠岐島の神社   http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
 眺めているだけで、新しい発想が生まれましたか。

 生まれなかったと思います。蒜山高原に行ったことのある方ですと、「あれ、どうしてだろう」と思われたと思います。行っても、車に乗って通過されただけではなに一つ記憶に残りません。
中蒜山と茅部神社の裏山に登りますと、蒜山高原が眼下に見えます。 山を下りますと、もう一度、ゆっくり、大きな鳥居を見たくなりますから、不思議です。
http://cms.top-page.jp/p/maniwa/3/1/31/
 鳥居は、近年に造られたものですが、これを造ろうと思われた氏子のエネルギーを感じます。そうする、茅部神社の祭神の多さを説明したくなります。

隠岐島は、行きたいところの候補地ですが、金力と体力がありませんので行くことは無いでしょう。
 隠岐島は、地図を眺めるだけですが、小さな島なのに、現在でも、100を越える神社が有ります。どうして、こんなに多いのでしょう。人がいなかったのに、神社だけが多かったことは無いでしょう。
 昔から、住む人が多かったと考えるしかありません。 では、理由を探るしかありません。
 
 隠岐島の神社   http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html、このページは、殆ど、アクセスが有りません。しかし、利用する気になれば、いっぱいあるのですが、利用する方法をご存じないのだと思っています。

話題・脱線でした。国分寺から、どんどん離れていました。

さて、和泉国の誕生には、大鳥郡 が関係した可能性が考えられます。
【歴史の不思議】を開いて、和泉国の式内社の一覧が出ましたら、最初の行に大鳥神社を掲載しておきました。 大鳥郡と大鳥神社は、大鳥が一緒です。どちらが先か判りませんが、大鳥郡の名前と大鳥神社とは、関係が有るのだと思います。大鳥郡のことは、ウィキペディアで確認してください。

東の高天原(29) 西の高天原(22)磐田原台地(20) 国分寺(15) 歴史各論 [高天原]

最近、書いているタイトルに「歴史各論」の名前を付けています。プロの方は、こんなものが各論と云えるかと、一笑に付されると思います。論文にもなっていないと。
 論文など書いたことのない私ですが、物の考え方として、古代の歴史を探るとき、歴史は全体の流れのなかで掴もうと模索してきましたが、2000年前の事など書いたものは、何処を探してもありません。
 そのようなことは無い、中国にはあると思っておられる方はいっぱい居られます。
特に、日本人は、中国の文献は好きなようです。
 その中でも、「魏志倭人伝」はお好きで、その中でも、「卑弥呼」の事は、100%好きのようです。
 そこには、卑弥呼のことは書いてあって、(詳しくない)卑弥呼は邪馬台国の女王で、卑弥呼は城壁(?) で囲まれた邪馬台国に住んでいたと書いてあります。

 これを信じて、考古学という部分から、歴史解明をしておられるのが、纒向学(まきむくがく)研究センター(奈良県)の寺沢薫所長です。寺沢氏は、奈良県桜井市の纏向で、卑弥呼の舘跡を見つけられました。屋敷だけですから、まだ、楼閣などは見付かっていませんが、近い将来に見付かるのでしょう。
 
 前回、私は歴史を解明するヒントを記しました。その一番に、①古事記と日本書紀と書きました。この書物は、読まない日は無い位に、ちらっとでも、目を通してきましたが、何時まで経っても、わけの判らないところが一杯です。
 そのようなものに書いてあることを元にして、いくら考えても、解決しないなと最近は、考えています。
 その試みとして、タイトルに「東の高天原」の言葉を付け加えて、誰も耳にしたことのない「東の高天原」があったのだと言うつもりになっています。
 古墳時代には、大和政権があったことになっていますが、大和政権はどのような政治を行っていたと明確に書いた論文はありません。
 大和政権の事は判らないが、、磐田市あたりを中心にして、喧嘩をしながら、群馬県や長野県から、絹を運んでいた人たちがいて、その人たちの結果は、膨大な古墳でしか残っていないという様子を見て頂いています。

 混乱の連続の時代に、ここ東の高天原でも、国分寺という名の巨大建築が出現したことは判ってきましたが、考古学者の方は、その様子を、普通の人に、見せることは、出来ていません。
 磐田市にあった国分寺という歴史の中の部分だけに目を向けて、東の高天原を浮かびあがらせようと思っていますが、磐田市の国分寺の事は、なにも判っていません。
 これから書こうと思っている本文より、前置きが長くなりましたが、タイトルの
歴史各論を使っている言分けをかいてきました。

 国分寺は、741年に聖武天皇が、造るように云われてできたことになっていますが、本当は、違うのではないかと考えながら、模索しています。
 仏教の力をかりて、世の中を立て直おそうと試みられたのは、天武天皇ではないかと・・・・。
その志は、毒殺と思われる手法によって、絶たれました。受け継がられた持統天皇の苦悩は、その後の奇怪な行動から読み取れるのではないかと思っています。
 
 どこから読み取るかと云いますと、①古事記と日本書紀 になります。
 そのまま、読んだのでは、間違った情報が邪魔をして、正しい歴史を知ることはできないと思います。
 
 古事記は、混乱した世の中を立て直したい天武天皇によって、発案され、天皇崩御の後に、完成しています。
 この頃、略、完成していた中国系の人たちの日本征服は、日本書紀完成をもって、終結したと考えています。720年の事です。
 この同じ、年に藤原不比等は、亡くなっています。

古事記が完成した712年から720年の間に、どれほどの事が行われたかという歴史の流れを考えた方は居られません。
 これからは、こうした各論の部分を少しずつ、明らかにすることによって、歴史を解明するしかない様に思います。

 問題の和泉国の国分寺が、どうして、完成しなかったかです。

 国分寺どころか、造った和泉国すら、危うくなりました。

和泉国を河内国から分離しようとしたのは、藤原氏ではなかったかと考えますと、理由らしきものが見えてくるのではないかと思っています。

長くなりましたので、ヒントだけ掲げます。

【歴史の不思議】http://www21.atpages.jp/skeikas/ にいろいろの資料を保管していますが、ここに、全国の式内社を未完成ですが、掲載しています。
 どの国にでも、良いですから、ご覧ください。伯耆と丹波でも。そして、和泉国をご覧ください。
 式内社は、当時の朝廷から信頼されて作られた神社だと思っておられますと、何も見えてきません。
 メニューから、「神社の話」を選んでいただきますと、式内社の事は、3つあります。
式内社から判ること には、まだ、一つしかありませんが、全部で3000を超える式内社を、今後、一つずつ、調べることによって、式内社に隠されている不思議を 解き明かそうと始めたばかりです。

東の高天原(28) 西の高天原(21)磐田原台地(19) 国分寺(14) 歴史各論 [高天原]

歴史に対しては、全くの素人である私の話など、誰も相手にされないのは、当然です。以前に、ブログを書いていましたら、私の様な理屈は、許せないような批判を頂きました。
 ここ200年間の研究者の成果を否定するようなことは許せないとのことでした。
前回、歴史を解明するヒントを記しました。

①古事記と日本書紀
②式内社
③銅鏡
④そして、今回加わりました国分寺ではないかと思っています。
⑤地名  (地名を忘れていました)

 一番に書きました「古事記と日本書紀」の研究は、本居宣長によって、古事記に関しては、35年の歳月を費やして完成されました。それまではと云いますと、720年に完成した日本書紀が、歴史の教科書として使われ、日本書紀に書かれてあることが正しいとされてきました。
 では、古事記は、どうして教科書として採用されなかったのかと云いますと、古事記の原本は存在しなかったからと思われます。何冊かの写本は存在したでしょうが、現存する最古の写本は、真福寺本古事記三帖であって、これは応安四・五年(1371~2)に、同寺の僧賢瑜が写したことが判っています。
賢瑜は、どのようなものを写したかは、判りませんが、現在の所、39本の巻物が残っているらしいです。本居宣長は、真福寺本古事記三帖に書いてあることを、そのまま、研究対象にしたのではなく、幾冊かの本を照合する作業をおこなって、原本に近い形にして、研究をし、『古事記伝』を著したとされています。
 
 さて、ここに書きました事は、私が確認したわけでもなんでもありません。WEBのウィキペディアの力をお借りしたり、『古事記』倉野憲司校注から拝借しました。

倉野憲司氏は、最後に、[附記]として、5行の文章を書いておられます。
古事記の研究を志したのは、大正十二年に東大に入学した時からであって、以来今日まで四十年の間、古事記一筋に歩いて来た。・・・・・・

 と書いておられます。
その前のページに、岩波書店は、参考文献として、三頁にわたって、他の方が研究されたものを掲載しておられます。
 
 この膨大な研究を無視するようないい加減なことを言うなとは、プロの方からすれば、当然のお叱りですが、『古事記』には、理解困難な部分が、一杯です。そのためか、最近は、古事記は、偽書とされ、日本書紀にこそ、日本の正しい歴史が書かれているのだという流れになっていると思います。  わたしは、古事記にこそ、本当の事が書いてあると考えています。
 そのことを説明するために、役立つのが、②式内社 です。
 
 これまでに式内社のことは一杯書いてきましたが、次の文章で、済まそうと思っています。
藤原氏と式内社
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page878.html
 では、具体的には、和泉国の式内社を眺めることによって、どうして、和泉国の国分寺は、造られることは無く、古寺で代用したのか、次回に書いて見ます。

東の高天原(27) 西の高天原(20)磐田原台地(18) 国分寺(13) 歴史各論 [高天原]

和泉国のことが気になりだしたのは、最近です。今年の8月1日に、奈良県香芝市の隣りの上牧町で、画文帯環状乳神獣鏡という銅鏡が見付かりました。一斉に、報道関係者は、ニュースとして流しましたが、記事の内容は、私がこれまで、調べてきたことと合わないのです。
 画文帯環状乳神獣鏡の事が分りますと、奈良県の古墳の実態がある程度解るのではないかと、思ったことをそのまま、文章にして他のブログに掲載しています。
 
卑弥呼の神獣鏡?
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-980.html このブログの検索に、「上牧町」を入力して頂きますと、今日29日で5回目になります。
 
画文帯環状乳神獣鏡は初めて、耳にした名前でしたから、どれほど、出土しているのか知るために、毎日、見付かれば倉庫に収めています。
 【画文帯神獣鏡】http://www21.atpages.jp/skeikas/page025.html にごっちゃにして収めています。
 一番上に上牧町の久渡古墳を掲載しました。町が公開した資料は、
http://www.town.kanmaki.nara.jp/pdf/kudokohun1.pdf です。

 私が気になった言葉は、赤や青 付けました。これらの古墳は、今までに、何度もお目にかかった古墳ばかりです。
 ゆっくりご覧ください。すべて、漢鏡が出土しています。漢鏡ではありませんが、三角縁神獣鏡が、多数出土しています。
 それも、全国に散らばっています。
 
 報道関係は、久渡古墳の被葬者は、この町の豪族だったとか、大和朝廷から、信頼を得ていたように、書いておられますが、間違いだろうと思いました。
 
 それを確かめる為に、上牧町へ行ってきました。1700年前は、上牧の辺りは、賑わったでしょうが、その賑わいを支えるものがあったようには思えませんでした。例えば、鉄や金が出たわけでもないし、お米が一杯取れた様子もないし、・・・・。
 
 18番目に黄金塚古墳があります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page525.html
 ここで見つかった画文帯環状乳神獣鏡と久渡古墳の銅鏡は、同氾鏡と書いてありました。

 そこで、8月26日、和泉市に行ってきました。
和泉市は、かっての和泉国であること。和泉国は、河内国の一部を割いて作られた国であることなど、知ってはいましたが、精しく知ることになりました。

 今書いていますブログは、静岡県の磐田市周辺は、タイトルに書きましたように、「東の高天原」であったのではないかを知るために書いています。
 あまりにも、長すぎて、ピントがぼけていますが、このようなことは、これまでに、どなたもされなかったことですので、こんなものかと自分で、慰めながら書いています。

 全国に在る国分寺を丁寧に調べますと、741年頃の全国の様子が、解るのではないかと思っています。
 歴史を解明するヒントは、これまで述べてきました順に書きますと、
①古事記と日本書紀
②式内社
③銅鏡
④そして、今回加わりました国分寺ではないかと思っています。

②式内社は、何度も見て頂きましたが、
全国別式内社一覧表
http://www21.atpages.jp/skeikas/page006.htmlです。
 畿内では、和泉国が一番式内社が少ないです。

和泉国の神社と祭神名
http://www21.atpages.jp/skeikas/page265.html

 もう説明は要らないと思いますが、これらの資料をゆっくりと眺めて頂ければと思います。


東の高天原(26) 西の高天原(19)磐田原台地(17) 国分寺(12) 歴史各論 [高天原]

ウィキペディアの資料を拝借しますと、
 国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)は、741年(天平13年)、聖武天皇が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院。壱岐や対馬には「島分寺」(とうぶんじ)が建てられた。

 この文章は、あちこちで見ていますから、記憶力の悪い私でも、741年は覚えてしまいました。変な譬ですが、この事業は当時としては、国家プロジェクトであったと思われますから、一札の命令書で、全国、何所でも、完成したと考えるのは、間違いでしょう。現在の新幹線でも、初めて東京---大阪間に完成して以来、まだ、全国に完成していません。

 [国情不安を鎮撫する] とは、どのような事だったのでしょうか。
 
 私は、その内に、聖武天皇という方は、どの様な人生を送られたのか、調べて見たいと思っています。調べもしない内に、結論を先に書くのは、変ですが、聖武天皇には、政治を行う力は殆ど無かったのではないかと考えています。無能という意味ではなく、藤原氏の勢力が強すぎて、殆ど、しようと思うことは、出来なかったのではないかと思っています。
 
 そのことが、前回、書きました和泉国の誕生と国分寺の建立は、同時に、行うことは、無理であったことを表しています。
 河内国の一部を分割して716年に和泉国を作りました。1ヶ月もしない内に、河内国大鳥郡を追加しました。しかし、740年には、和泉国の和泉監を廃止して、河内国に戻しました。24年で、計画は破綻したことになります。
 なにか、不都合があったはずですが、調べていません。そして、17年後の757年に再び、和泉国が誕生したことになっています。
 740年には、和泉国の和泉監は廃止していますから、ゴタゴタ続きであった、次の年の741年に、国分寺と国分尼寺を建てよという命令が行われる筈はありません。
 
 和泉市が発行された『考古学の世界』常設展示解説書 P14に
 和泉国の国分寺は国の設置が他国より遅れたため、平安時代の839 (承和6) 年になって、以前から存在した安楽寺(国分町)を国分寺に昇格させたと記録されています。
と書くと共に、和泉市では、坂本臣の坂本寺、池田首の池田寺、信太首の信太寺、茅渟の県主の和泉寺が密集していたと記しています。
 そうであれば、国分寺ぐらい建てることは出来たと思われますが、現実には、建てることは出来なかったことになります。
 それでも、安楽寺(国分町)を国分寺とした事は、記録に残したことになります。
 これは、どの様に考えれば良いのでしょう。

 私は、全国に国分寺を建てようとしたのは、聖武天皇ではなくて、藤原氏の一族の人たちが、試みたのではないかと推理しています。

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