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東の高天原(25) 西の高天原(18)磐田原台地(16) 国分寺(11) 歴史各論 [高天原]

東の高天原(23)において、和泉国の事を書きました。ついでに、和泉国の国分寺のことも書いておきます。
 再度、記します。
当初は、上記の部分より、南も河内国でしたが、『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 
 如何ですか。どうして、大きかった河内国が分割されたと思われますか。和泉国が設置されたのが、740年。諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出されたのが、天平13年(741年)です。
 一年違いですから、国分寺と国分尼寺の建設と、国の分割は関係あったと見なければなりません。
 
 よく読みますと、
霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 この部分は、書いてあることは正しいと考えていい様な気がします。

 716年3月27日に、河内国から和泉郡・日根郡を割き、和泉監が生れ、僅か、17日後の
716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れました のであれば、まとめて、
716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れましたと書けばいいのに、『続日本紀』の執筆者は、拘って、日付を分けて書きました。書いておかなければならなかったと想像します。その理由が分りません。
 『日本書紀』は、何度も読んでいますが、『続日本紀』は読んだことが有りません。『続日本紀』は、『日本書紀』の続きでしょうか。例えば、メンバーは入れ替えはありましたが、一番の大御所である藤原不比等は、『日本書紀』が完成した721年に同時に死亡しています。

 <716年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監が生れました> の決定は、藤原不比等は、関与できたのでしょうか。
 その後、『続日本紀』は、次の様に書いています。
天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
716年から740年までは、24年の歳月が有りますが、元の河内国になりました。
757年5月8日に再び、和泉国が生れました。
 
 記事は、本来の目的と離れていますが、次回、もう少し、書いて見ようと思います。


参考に
大鳥郡 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%A5%E9%83%A1

和泉監の構成要素
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/2006/data/pdf_zasshi04/01endo.pdf

東の高天原(24) 西の高天原(17)磐田原台地(15) 国分寺(10) 歴史各論 [高天原]

今回は、但馬です。生意気のようですが、歴史を勉強するには、その場所の位置と地形と地名が、頭の中に入っていませんと、歴史は見えてきません。
地図閲覧サービスが便利です。
http://watchizu.gsi.go.jp/index.aspx?mesh=0000

地域を選択―-〔宮津〕---左の三角をクリック---〔江原〕で、地図が表示されます。マウスの真ん中のボタンを回転させて、地図を縮小させますと、左下方向に、国分寺趾が見えます。右上の方に、府中新の地名が見えます。 確定はしていませんが、この辺りが、国府のあった所と思われます。もう少し、上に移動しますと、JR国府駅が見えます。
 移動するには、左ボタンを押して、そのまま地図を上に移動。

 この地図では、残念ながら、その土地の標高は、知ることは出来ませんが、JRの国府あたりは、標高8m、江原駅あたりは、20mです。これぐらいですと、住むことが出来そうですが、その近くの円山川の標高は、4m以下です。豊岡市街辺りは、0mです。
 4m以下の所は、紀元元年の頃は、全国どこでも、海だったところです。

 地盤が沈下したり、隆起したりしていますから、正確には、その土地で、縄文時代の遺跡があれば、人は住んでいたことになります。貝塚が有れば、そこは、海岸線になります。

 国府と国分寺は離れすぎているように思われます。国府の地名は残っていますが、遺跡は見付かっていません。という事は、国府はJRの国府駅より、西の方にあったのではないでしょうか。物の移動は、やはり、川が中心になりますから、府中市場の地名のところが、市場の中心だったのではと推理しています。
 ついでに、円山川に沿って、移動しますと、但馬は、〔市場〕がいっぱいです。但馬牛の市場だと云われる方が居られますが、私は、〔絹の市場〕だったと考えています。
〔府中新〕は、時代が新しくなってから、市場の位置が、ここへ移動したのではないでしょうか。市場自体が新しい言葉のように思われますから、江戸時代に付けられた地名に思われます。古い古文書に市場が残っているかどうかです。

国分寺が建設されたのは、700年前後の事ですから、一度は、国分寺は、国府の近くに建設されたでしょうが、流されたことは想像されます。そして、江原の地に、国分寺が移されたと推理しています。
 江原の東に、〔日置〕が有ります。江原から日置に行くには、円山川を渡りますが、土手が高くなっています。この辺りの標高は9mですが、何度も、円山川が決壊した証拠だと思います。
 国分寺の辺りは、標高が20mほどですから、浸水はなかったと思いますが、円山川の決壊は、常にあった所だと思います。

 歴史は、地形と地名だけでは、駄目であることが判ります。土手が高い、即ち、天井川になっています。現地に行けば、直ぐに分ります。
 私は、全国の日置地名が気になりますので、集落に向かいました。式内社が古くて役に立ちます。
 神社の入り口にありました倉庫の壁に、最近の浸水した時の水位が、マークされていました。2mはあったでしょうか。 日置神社は、勿論、高い位置に造られていました。

 日置は 天皇家の軍隊が駐留していた所ではないかと思っていますが、それにしても、日置は広大です。 地図で確認してください。

東の高天原(23) 西の高天原(16)磐田原台地(14) 国分寺(9) 歴史各論 [高天原]

前回の河内国分寺の続きです。 国分寺は大和川を見下ろせる山の中腹にあります。どうしてこのような所に造ったのだろうと思われますが、いくら、国分寺を観察しても解決しません。分かることは他の国分寺と同様に、七重の塔であったと思われる礎石がきれいに残っています。
 ただ、他の人もブログに書いておられましたが、分かりにくい所に在りました。車で行きましたが、20mほど手前にしか車は止めることが出来なかったとの道に停めておきましたが、自分の車を停めるのがやっとの狭い道でした。帰り、バックも出来ないので、前に進みましたが、しばらく進みますと、行止まりになっていました。バックが困難なので、前進しましたのに、その距離が長くなってしまいました。運転する左側は、急な斜面になっており、タイヤを外せば、下まで落ちてしまうようなところでした。 1mほど、バックしては、車の向きを修正しては、バックの繰り返しでした。二人で運転ですと、誘導してもらえますが、一人ですと車の大きさに拠れば、危険です。 ブログに書いておられた方は、登り口のところで、無断駐車をさせて貰ってと書いておられましたが、上まで車で行ってはいけない所だったと思います。
 
 という次第で、遺跡自体は見てもなにも収穫はありませんが、大和川を見下ろせるという事は、見張り台として造ったと推理しました。
 そのことを立証するために、このあたり一帯の遺跡を次々と周ることになりました。

大和川と石川に挟まれた丘陵地に、玉手山古墳群が峰に沿って、10個あります。
南は古市古墳群です。

①津堂城山古墳
 ②允恭陵(市野山古墳)
 ③中津山古墳(中津姫陵)
 ④応神天皇陵(誉田御廟山古墳)
 ⑤仲哀天皇陵(岡みさんざい古墳)
 ⑥墓山古墳
 ⑦日本武尊白鳥陵

 この辺りは、天皇陵がいっぱいですから、天皇家の勢力がつよかったところと考えていいかと云いますと、そう簡単には言えないと思えるようになり、古代には、大和川は、西へながれていましたから、西へ歩く範囲を広げていきますと、頭がムチャクチャになりました。全部で、10回以上は訪れたと思います。
例えば、玉手山古墳群では、陶棺が見付かっています。これは、岡山県に多いですが、摩訶不思議な陶棺は、誰のものかを云われた方はありません。
これは、ユダヤ人の棺桶であることは、ほぼ間違いないと思います。すなわち、天皇と関係が有ります。 写真 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page857.html
その他に、【倭の五王は柏原市に居た?】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page851.html に書きましたが、倭の五王は、五人の天皇という見方は、確定と思われています。特に、雄略天皇は五王の内の一人とされていますが、
 間違いでしょう。五王のうち、二人ぐらいは、この辺りに居たのではないかと疑うようになりました。

 国分寺の川向かいには、高井田横穴古墳群 http://inoues.net/ruins/takaida.html があり、200を超える古墳が有ります。全部歩きますと、圧倒されます。
 磐田市と同様に、戦があっただけではなく、紀元前からの中国人と天皇家に加えて、天皇家を脅かす、倭の五王が、天皇家を無視して、中国と取引をしていたことが浮かび上り、一層、頭は混乱です。

 そこへ加えるに、其の後の河内国は、一宮のある枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町7番)
の所へ、中心が移ったのではないでしょうか。しかし、その時の中心人物は、それまでの中国人ではなくて、藤原不比等一族だったと思われます。
 ここは、神武天皇が東征の際、ここから奈良へ侵入しようとしたところです。

 書いている私が、頭混乱ですから、読んで居られる方も、頭混乱かと思います。
 次の所に、この頃考えたことを書いています。
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page837.html 

参考リンク 河内国府 http://komatsu0513.heteml.jp/kawachi.html
      允恭天皇陵 http://inoues.net/tenno/ingyo.html

 いつも中途半端なことで申し訳ありません。
 次回、もう一度、小さなスケールの国分寺を紹介したいと思います。 但馬です。

 しばらく、休ませてもらいます。

東の高天原(22) 西の高天原(15)磐田原台地(13) 国分寺(8) 歴史各論 [高天原]

国分寺と東の高天原とは直接関係ありませんが、太安万侶が古事記を書いた712年頃の遠江國造は、天菩比命之子の建比良鳥命の子孫ですよ、書き残したという事は、磐田市は、中国人で一杯だったことを示していると思います。
 しかし、磐田市には、現在でも、三つの浅間神社が有りますから、
浅間神社 http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html

 戦争ばかりしていたのではないことが判ります。
 この様に考えますと、古代史から、歴史を考えるのは無理であることが判ります。近代史までの流れを、民族史・民俗史も含めて 調べ直す必要がありそうです。

 乗りかかった船ですから、小さい国分寺について書いて見ます。
 一つは、大阪府柏原市の国分寺です。ここは、河内国分寺です。
柏原市は、大阪の人でも、どのような町であるか知らない人が多いと思います。河内という言葉は比較的耳にされると思いますが、大阪のどの辺りだと聞かれると大阪の人でも、答えることが出来る人は、少ないと思います。北河内・中河内、南河内に住んでいる方は、知っておられます。
 では、先ず、河内国はどこだから説明します。昔使われていた北河内、中河内、南河内を現在の町に当てはめますと、次の様になります。 これで、大阪府のかたですと、ああ、そうかと大体わかります。
• 北河内 - 枚方市、交野市、寝屋川市、守口市、門真市、四條畷市、大東市
• 中河内 - 東大阪市、八尾市、柏原市
• 南河内 - 松原市、藤井寺市、羽曳野市、富田林市、河内長野市、大阪狭山市、
南河内郡太子町・河南町・千早赤阪村

 少し、上記に漏れている町もありますが、凡そ、上記のとおりです。
ところが、当初は、上記の部分より、南も河内国でしたが、『続日本紀』によれば、霊亀2年(716年)3月27日に河内国から和泉郡・日根郡を割き、さらに同年4月13日に河内国大鳥郡をあわせて和泉監(いずみげん)が生れました。その後、天平12年(740年)8月20日に和泉監は廃止されて河内国に合わさったが、天平宝字元年(757年)5月8日に再度分離して和泉国が設置されたことになっています。
 
 如何ですか。どうして、大きかった河内国が分割されたと思われますか。和泉国が設置されたのが、740年。諸国に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔が出されたのが、天平13年(741年)です。
 一年違いですから、国分寺と国分尼寺の建設と、国の分割は関係あったと見なければなりません。
 国分寺は、多くは、国府の近くに造られたと思われます。

上記の河内国を現在の地図で確かめてください。
河内の国府は、どこにあったか判っていません。和名抄によると河内国の国府は志紀郡にあったとあります。古代の志紀郡に属する藤井寺市の允恭天皇陵の東側に国府という地名があり、その北側に惣社という地名と、神社が有りますから、河内国府も、おそらくこの地に置かれたであろうと想像できますが、まだ国府に関係した遺構、遺跡は発掘されていません。

 この国府(こうふ)が、河内の国府としますと、国分寺は、4キロほど離れた所(柏原市)に在りますから、普通のパターンではありません。

 国分寺のことは、是だけしか判りません。 新しくできた和泉国は、全く調べていませんが、和泉国にある式内社をしますと、最新が、天皇家に関係ある祭神が祀られていますから、天皇の勢力が強いので、分離したのではと推理しています。
 http://www21.atpages.jp/skeikas/page006.html を開いて、和泉をクリックしてください。

東の高天原(21) 西の高天原(14)磐田原台地(12) 国分寺(7) 歴史各論 [高天原]

故此後所生五柱子之中。天菩比命之子。建比良鳥命【此出雲國造。无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直。遠江國造等之祖也】
 理解していただけたでしょうか。

 遠江國造は中国人でしたから、国分寺を造るときは、広々した所に、造ったのではないかと想像しました。遠江國の国分寺の礎石は残っていますから、どれほどの大きさの建物があったことは推理できます。
 私の納得できないのは、いくら国造が中国人であっても、天皇の命令より大きなものは造ることは出来なかったのではないかと思います。財力さえあれば、作ることが許されるのではあれば、東の高天原の人たちとの対抗上、つくったのではと推理しています。

 どうして、そのように思うのかと云いますと、遠江國の国分寺の廻りに、住民が住んでいた遺跡が、報告されていません。人間がいなくては、お寺は意味がないと思うのですが、磐田市だけで、900に達する古墳が発掘されています。その古墳は、一般の人の古墳ではないでしょう。住民がいないのに、古墳ばかりが有るというのは、おかしなものです。人は住んでいたのでしょう。 自分たちの勢力を誇示するには、実力以上のお墓も、国分寺も必要だったのではないでしょうか。

 このように国分寺を見てきますと、不思議なことに気が付きます。現在、国分寺で残っているのは、いくつあるのでしょうか。
 奈良の東大寺は知っていますが、他の国分寺は、調べたことが有りません。
 国分寺は、多すぎて、調べるには、私の寿命が足りません。

 国造が中国人だったから、スケールの大きい国分寺を造ったのではと考えました。逆に、小さい国分寺は、同であるかぐらいは、調べることが出来るのではと思います。

 次回は、小さい国分寺について考えて見ます。

東の高天原(20) 西の高天原(13)磐田原台地(11) 国分寺(6) 歴史各論 [高天原]

故此後所生五柱子之中。天菩比命之子。建比良鳥命【此出雲國造。无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直。遠江國造等之祖也】次天津日子根命者【凡川内國造、額田部湯坐連、<茨>木國造、倭田中直、山代國造、馬來田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稻寸、三技部造等之祖也】

 古事記の天の安の河の誓約 の部分は、お解かりになりましたか、私は未だに理解困難です。

 この部分に書かれた国造は、すべて中国人ですから、注意してくださいよと、太安万侶が知らせるために、書いたという発想は、私の物ではありません。田村誠一氏が考えられたことです。田村氏は、日本書紀を書いた人は、712年に完成した古事記を見て、自分たちの先祖の歴史を書こうとしたと考えられました。
 こんな話をする人は、今ではのけ者にされます。少なくとも、歴史の世界にはおれないと思います。

 速須佐之男命、天照大御神の左の御角髪に纏かせる八尺の勾聰(耳の部分が王)の五百箇の御統の珠を乞ひ度して、瓊音ももゆらに、天の真名井に振り滌(スス)ぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹のさ霧成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。

始めの部分も判りませんが、どうにか解らないでもないので、飛ばします。
<天の真名井に振り滌(スス)ぎて、さ噛みに噛みて、吹き棄つる気吹のさ霧成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命>  この部分は、どの様に、想像を膨らませても、意味が解りません。八尺の勾玉の五百箇の御統の珠とは、どのような物でしょう。私の知っている勾玉では、重くて頭に付けて居れないと思うのですが、「纏」とありますから、びっしりと付けて飾っているのでしょう。「振り滌(スス)ぎて」とは、何度も、振りながら、洗ったようです。そして、口に入れ、「さ噛みに噛みて」とありますから、何度も噛んだのでしょう。粉々になった勾玉を勢いよく噴き出したところ、霧の様に散った。その霧から、神が誕生しました。

 このようなストーリは、日本人に発想出来ないでしょう。ヨーロッパには、是に似た神話があるとか、東南アジアにあるから、速須佐之男命も天照大御神も、東南アジアからやってきたのだろう。そんな論文が有るかもしれません。が、調べていません。

 これは、世界中にいくらでもある神話ではないと思います。太安万侶が真剣に考えた、天皇家の歴史を無きものにしようとする者への警告だと思います。回りくどい言い方になりましたが、天皇家の歴史として、是非とも残し伝えたいと考えたのだと思います。

 スサノオとアマテラスの掛け合いの話は、紀元前150年ころの話です。その後に続く国造の事は、645年以前の事です。
 日本書紀を作った藤原不比等は、当時者ですから、直ぐにピンときた筈でしたが、意味は解らないし、、そのまま、書き残しても、害はないと考えたのでしょうか。自分たちの国造の歴史でもありますから、わざわざ残したのかも知れません。

このことに関しては、意味が解らないままに、何回か書きました。
 
 読み返していませんが、今と違うことを書いているかもしれませんが、どのように、理解しようとしていたかを見て頂ければと思います。

遠近国造に関して
古事記原文--天の安の河の誓約
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page285.html
天の安の河の誓約
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page284.html

古事記が書いて置きたかった事
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page308.html

出雲の国造は漢人
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1191.html

東の高天原(19) 西の高天原(12)磐田原台地(10) 国分寺(5) 歴史各論 [高天原]

前回、
太安万侶が、古事記を書いた時は、710年頃の事です。このとき、朝廷は、全国の国々に、国造を派遣し、全国を掌握するシステムを完成させていました。とは云うものの、国造の多くは、中国の人達でした。
 と書きました。そのようなことを聞いたことは無いと思われる方が殆どだと思います。
それは、古事記に書いてあるからです。
 歴史家であれば、日本書紀に書いてあることは、全部正しいが、古事記には、神話(作り話)が書いてあるとされていますから、古事記に書いてあれば、尚更、全国の国造が中国人と云うのは、認められないと思います。

 初めての方は、一度読んでください。なにを読むかと云いますと、「古事記」をです。

古事記には、タイトルはありませんが、倉野憲司校注 『古事記』には、切れのいいところで、タイトルが付けてあります。「天の安の河の誓約」のところを読んでください。
 できれば、古事記の原文を読んでください。つぎに記して置きます。

古事記原文  の 天の安の河の誓約 に在ります。

故爾各中置天安河而。宇氣布時。天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劍。打折三段而。奴那登母母由良迩【此八字以音。下效此】振滌天之眞名井而。佐賀美迩迦美而【自佐下六字以音。下效此】於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。多紀理毘賣命【此神名以音】亦御名謂奧津嶋比賣命。
次市寸嶋(上)比賣命。亦御名謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命【三柱。此神名以音】速須佐之男命。
乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾聰(耳の部分が王)之五百津之美須麻流珠而。奴那登母母由良爾。振滌天之眞名井而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纏右御美豆良
之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。天之菩卑能命【自菩下三字以音】亦乞度所纏御鬘之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。天津日子根命。又乞度所纏左御手之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。活津日子根命。亦乞度所纏右御手之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。熊野久須毘命【并五柱。自久下三字以音】於是天照大御神。告速須佐之男命。是後所生五柱男子者。物實。因我物所成。故自吾子也。先所生之三柱女子者。物實因汝物所成。故乃汝子也。如此詔別也。故其先所生之神。多紀理毘賣命者坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者坐胸形之邊津宮。此三柱神者。胸形君等之
以伊都久三前大神者也。故此後所生五柱子之中。天菩比命之子。建比良鳥命【此出雲國造。无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直。遠江國造等之祖也】次天津日子根命者【凡川内國造、額田部湯坐連、<茨>木國造、倭田中直、山代國造、馬來田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稻寸、三技部造等之祖也】

 少しでもいいですから、自分で読むことに挑戦してください。 この文章の中に、国造の字がいっぱい出てきますから、この辺りを特に丁寧に読んでください。

どうしても、無理の時は、 古事記の新しい読み方---天の安の河の制約

ここに、読み下し文と、私の独断で、解説を書いています。



*****
【歴史の不思議】浅間神社
http://www21.atpages.jp/skeikas/page260.html

 毎日、資料を更新しています。毎日、眺めて、コノハナサクヤヒメの人たちが、磐田市に陣取った人達と競争して、絹の獲得に精出していた様子を想像してください。
 戦いばかりをしていたとは限りません。 
 現在の企業が戦っていたようなことが多かったと思っています。確かに、戦いで、死んだ人も多かったでしょうが、それほど、戦争にはならなかったと考えています。なぜそのように考えるかといいますと、お墓には、、案外武器が少ないように思います。盗掘されて少ないのかも知れません。このように考えるとなりますと、発掘された時には、どれぐらいの割で、盗掘されていたか、報告もほしいものです。

 現在の世の中で、眺めますと、数年前は、三菱電機、富士通、日本電気、最近は、あっという間に、シャープ、ソニー、パナソニックが、従業員を減らしています。
 大阪は、どこもかしこも、韓国と中国の人で一杯です。 戦争にはなっていませんが、尖閣諸島は、中国のものですから、日本が侵略するのであれば、中国の人は、90%の国民が、日本と戦争をしても良いと返事をしています。

東の高天原(18) 西の高天原(11)磐田原台地(9) 国分寺(4) 歴史各論 [高天原]

高天原は、ヒルゼン高原に在りました。大陸から日本へ移動してきたイザナギやイザナミ。其の他、多くの人たちが、新しい国の建設を夢見て、ヒルゼン高原に国の建設を始めました。彼らは、大陸を追われてやって来た人たちだったために、責められないことを主眼において、国の建設を始めたと考えています。
 一番に豊富な水があること。
次に襲われることのないように、山が周りを囲んでいること。
三番目は、海抜があまり高くないこと。
 であったのではと想像しています。その後に都が置かれた奈良、京都が、それを示しているのではと。
 ところが、ヒルゼン高原は、稲作に適さなかったようです。

 高天原とは、天族の人たちが、自分たちの拠点にした所を、700年ほど後に、太安万侶が名づけた所だと思われます。自分達天族が、敵から守るために構築した高原に付けた名前です。
 鳥取県の高千穂に政治の中心を写したときは、すでに、大陸の人たちに囲まれていました。その範囲は、すでに、全国的に広がっていましたので、瓊瓊芸命は九州征伐、木花咲耶姫命は、静岡へ軍事基地を作ります。

 すべて、紀元前の話です。
 太安万侶が、古事記を書いて時は、710年頃の事です。このとき、朝廷は、全国の国々に、国造を派遣し、全国を掌握するシステムを完成させていました。とは云うものの、国造の多くは、中国の人達でした。

 そこで、磐田市に造られた国分寺に、少し拘って、4回書くことになりました。そして、
遠近国、美濃国、丹波国は、スケールが大きいことを書きました。
 スケールの小さいところなど、全国のすべての国分寺を調べますと、中国人が建てた国分寺、天孫族が建てた国分寺などと、別けることが出来るのではないかと推理しています。

東の高天原(17) 西の高天原(10)磐田原台地(8) 国分寺(3) 歴史各論 [高天原]

前回、遠近国の国分寺の資料があまりないと書きましたが、次の所に、写真や記事が有りましたので、ご覧ください。
http://komatsu0513.heteml.jp/totomi.html

さて、美濃国分寺趾の事は、自分が、行ったことが有るので、資料は一杯あると思っていたのですが、遠近国と同様に、WEBにはありませんでした。

次のブログを書かれた方は、美濃国分寺跡~円興寺~円興寺峠~涼雲寺~霞間ヶ渓~大津谷公園~蘇生の泉 と順番に回られたのですが、がっかりされた様子を、次のように書いておられます。
 PM2:02、美濃国分寺跡。
だだっぴろい広場。見ると、中央に低い石の台がある。
台に上ってみる。そこには柱の礎石が並んでいる――それだけ。
寺社の遺構なんて、たいていこのようなものだ。考古学的関心というものに乏しい自分にとっては、面白みの無い場所。ということで、現代の国分寺に向かう。
ブログは、http://homepage3.nifty.com/kkoon/road/n_tokai/12ikeda/record2.html
です。掲載してある国分寺趾の写真には、桜が咲いているのですが、文章を読んでいますと、一週間遅かったらしいです。

 次の所に、国分寺の事が書いてあります。
美濃国 http://komatsu0513.heteml.jp/mino.html
 ここには、「東西231m、南北203m。全国の国分寺の中でも最大級だ。
築地塀から金堂、塔などの礎石が、ほぼ完全に近い形で保存されている」と記しておられます。上に紹介しましたブログの方は、考古学の興味は無いのですが、
「だだっぴろい広場。見ると、中央に低い石の台がある。
台に上ってみる。そこには柱の礎石が並んでいる――それだけ。」
 広さだけに不満を残して国分寺趾を去っておられます。

 私も行ったときは、広さに圧倒されました。訪れたのが、夏でしたので、礎石の所まで歩いただけで、ぐったりしました。私の場合は、それまでに、あちこち車で走り回りましたので、疲れて傘をさして寝てしまいました。よう熱中症で死ななかったなと思いだしています。
 私は、このスケールの大きいだけで満足でした。 これと似た感じを持ったのは、京都府の亀岡市にある
丹波国分寺趾です。http://komatsu0513.heteml.jp/index.html
伯耆国分寺趾 http://komatsu0513.heteml.jp/hoki.html
 スケールの大きさは、造った人のスケールの大きさだと思いました。
 
 同じ京都府でも、丹後国分寺趾は、http://komatsu0513.heteml.jp/index.html
 前が海ですから、敷地が狭かったこともあるかもしれませんが、スケールが小さいです。

聖武天皇が国分寺建立の詔を出したのであれば、もっと、スケールの小さいものとなったと思います。
 ここには、国分寺だけが有って、民家は無かったのでしょうか。もし、無かったとしますと、国民のための施設でなかったことになります。

 資料館は美濃国分寺趾の傍にあるにしては、満足を与えてくれませんでした。

東の高天原(16) 西の高天原(9)磐田原台地(7) 国分寺(2) 歴史各論 [高天原]

このような調子で書いていますと、切がないのですが・・・・・、 磐田市では、紀元前から、中国人と天皇家の人たちが、凌ぎを削っていたのではと想像しています。 

 その影響は、壬申の乱の時にもあったのではないか。

 簡単に記しますと 大海人皇子と 大友皇子を取り巻く中国人の争いだと考えています。
 追手の危険を感じた大海人皇子は、吉野を出立する時は、女子と家来を含めて、わずか20人ほどの人数でした。それが、伊賀を通り桑名まで逃げて来た時には、3000人ほどの援軍が有りました。この人数では、大津朝廷の正規軍に勝つことは不可能ですが、結果は、大海人皇子の勝利に終りました。
 戦争とは、戦う軍隊だけが大切なのではなく、相手の援軍を釘付けにすることも大切です。
 この頃、飛騨は天皇勢力の強かった国だったと考えています。
 この考えの元になるものは、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.htmlにある式内社の少なさです。一国において式内社が少ないところは、天皇の勢力がつよかったところと考えています。

 磐田市という場所は、中国人と天皇家は、お互いに譲ることが出来ない場所でしたから、戦で死者が増え、古墳がたくさん残ることになりました。従いまして、磐田市の中国人は、壬申の乱のとき、援軍を出動できませんでした。後ろに天皇家の人が控えているだけではなく、浜松市あたりは、銅鐸の出土が多く、この地は、イザナギの子孫の勢力が強い所だと考えています。 磐田市の中国人は、前も後ろも天皇家の人に挟まれていました。 本当は、逆で、瓊々杵命が、苗族の人を天竜川の東側に入植させたのだと考えています。
 
 中国人は、天武天皇には、負けてしまいましたが、持統天皇の頃には、朝廷の力が無くなります。
 国分寺の建設は、聖武天皇の詔によって、始められたと云われていますが、何かの間違いではないでしょうか。
 全国に国分寺を造るという事は、国力が無ければできません。
聖武天皇は、都を恭仁宮遷そうとされます。
天平14年(742)8/27 には、聖武天皇は、近江国信楽(紫香楽)宮に行幸。
 紫香楽に遷都しようとされています。ほかにも、奇怪な行動がいっぱいです。

 恭仁宮跡も 紫香楽趾も行ってきました。どちらも狭くて、こんな所に、都を本当に造くろうとされたかどうか、疑問に思っています。

 聖武天皇が居られる宮城は、まわりは、中国人ばかりで、不安が一杯だったのではないでしょうか。そのようなときに、全国の中国人の拠点に、国分寺を建てるような詔を出されたのでしょうか。
 では、遠近国の国分寺はどのようなものであったかを知りたいのですが、
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/midokoro/bunkazai/tayori/0511.php しか資料が有りません。
 次回は、遠近国分寺の代りにはなりませんが、美濃国分寺を見て頂こうと思っています。

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