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中国製武器の鉄剣、関東稲荷山で出土   97  -129- [真説 建国史]

東日本から出土した鉄剣は全て中国の鉄を鍛えて作っていた。これは新日鉄の研究所で研究した結果、鍛造方法まで分ってきた。又西日本から出土した鉄剣も日立金属の研究で日本の砂鉄は使われてなかった。鉄剣は武器である。大東亜戦争で日本軍が弾薬を現地で製造してもこれは日本製と考えることだ。漢の銅鏡を模倣した銅鏡が日本国内で作られても、倭人が使用する目的だとの証拠が現われない以上、漢の銅鏡分けて、別物と考えることはおかしい。これは漢族が副葬品として国内生産したに過ぎない。  さてこの中国製の武器である鉄剣が関東の稲荷山から出土した。これには百十五字の文字が刻まれていた。この銘から辛亥の年に作られたことが分り、471年と解読されている。これは雄略天皇の年代にあたっていた。  更に鉄剣の主は「シキ宮のワカタケル」に仕えたと書かれていた。倭人はもともと漢族に圧迫されて安住の地を求めて渡来したのである。この倭人の国に中国製の鉄剣が出土した以上、倭人の敵が関東まで占領していた。


---私のコメント---
今回のページの論法は、正しいですね。僅か、百十五字の文字ですが、それ以上のことを教えてくれます。


稲荷山古墳出土鉄剣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3#.E9.8A.98.E6.96.87.E3.81.AE.E5.86.85.E5.AE.B9

素性が分らない河内の祭神   96  -128- [真説 建国史]

伯耆では式内社は6社しか無かったが、残りの神社の祭神は殆んどが古事記の神代に登場した神でこの氏子が雲南系の倭人で、倭人に君臨したのが天皇で、河内と全く異なる。  式内社には国から幣帛料が渡される以上、所在が全く分らなくなった神社の氏子ゃね神社があっても素性が分らない神を崇拝する氏子に幣帛料が渡されることになる。  河内でも、特に八尾市や柏原市、藤井寺市に式内社は密集していた。これはこの地域に住んでいた氏子は稲をつくらないでも国から軍資金として幣帛料が渡されていた証拠である。  〝大阪府神社史資料〟は全ての神社の祭神と由緒が詳細に載せてあり氏子の氏族は祭神から見当がつけられる。異民族を祀った神社にお参りするだろうか。   ここで有名な平岡神社には天児屋根命が祀ってある。又春日さまと呼ばれる神社が多かったことは神社からもここが中臣の本拠地だったことが分る。許麻神社は祭神が高句麗王だった。問題の志紀県主神社には素性が分らない神が祀られていた。

---私のコメント---八尾市や柏原市、藤井寺市は、私も大阪に住んで居ますが、自分で行ったことは有りません。古墳などの遺蹟のある所は、連れて行ってもらったことは有りますが、直ぐに、地理的なことは忘れています。

平岡神社は、自分でいったことは有ります。駅を降りますと、目の前が神社ですから、記憶に残っていますが、勉強をしないで行きましたから、詳細は記憶に残っていません。

許麻神社はこれで、「コマ神社」と読みます。 高麗も「コマ」と読みます。

神社は、http://kamnavi.jp/en/kawati/koma.htm 
で見ることが出来ます。神殿には、千木も鰹木もありません。
   この辺りは、一度歩いて来ようと思います。

河内の遺跡は革命軍の証拠   95  -127- [真説 建国史]

  藤原が作成した〝新撰姓氏録〟では国別にどの様な氏族が住んでいたかが書かれている。これで河内に圧倒的に多かったのが中臣である。  これも藤原が制定した式内社が河内に113社もあった。この祭神や由緒を志賀 剛氏が〝式内社の研究〟に書いておられる。この神社には天皇からではなくて藤原(中臣)から軍資金が幣帛料の名目で授与される。河内でも八尾、柏原、藤井寺に式内社は密集している。旧大和川は河内を北に流れ淀川に合流していた。この流域を藤原は式内社の氏子で堅めて天皇勢力が大和に行くことを防止していた。河内の遺跡は稲作民族の遺跡ではない。 ここの遺跡は軍隊が分隊単位に分散して集落を作っている。  紀の川に大倉庫が出土したが、ここに讃岐で取れた米等を貯蔵していた。大和から攻められることのない後背地に倉庫は設けられていた。河内でも、南部は物部勢力で、太子町周辺が天皇勢力である。河内は総括的に取り扱うことは間違いのもとである。

---私のコメント---
①<河内に圧倒的に多かったのが中臣である> はまだ、調べていません。

②<藤原が制定した式内社が河内に113社もあった>
   式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html 
 まだ、未完成です。祭神を眺めてください。

③<この流域を藤原は式内社の氏子で堅めて天皇勢力が大和に行くことを防止していた>
 この考察は抜群です。 これと同じことが、出雲でも見られます。これで、出雲の謎が、少しは解けることになります。式内社から歴史を分析しますと、新しい発見が出来るのではと考えます。
出雲の式内社もご覧ください。
  式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html


④<河内は総括的に取り扱うことは間違いのもとである>
 この部分は、今日始めて、なるほどと思った部分です。

天皇の敵、河内の志紀宮のボスは中臣   94  -126- [真説 建国史]

 古事記では先づ神武天皇の記述について、しかも古事記だけにしか書かれていない記述で証拠が全て見付かった。この古事記で21代雄略天皇の敵が河内におったと書かれている。しかもこの記述は日本書紀にはなかった。  記によると雄略天皇の皇后がまだ河内の日下におられる頃、生駒山の直越の道(暗り峠)から行幸された。この時山上から見下ろし所、天皇と同じ屋根にカツオ木を乗せた家があったので焼かせた。  カツオ木を乗せた家は現在の伊勢神宮に見られ、天皇だけが使用されていた。この河内の人物が「志紀の大県主」である。志紀郡と大県郡があったから、ここを天皇の敵が本拠地にしていたのである。ここに国府跡があり、これが藤原の本拠である。鎌足が大化の改新のクーテタを行った時に国造が当然国府跡の地点を本拠にしたと考えてよい。  天皇の敵が藤原でしかも河内が本拠地で出雲も藤原の支配下だった証拠である。



---私のコメント---
こんな記事は、殆どの方は、納得できないのではないかと思います。 特に、河内の方は反対されるでしょう。 〔天皇と同じ屋根にカツオ木を乗せた家があったので焼かせた〕
この文章が、その証拠だと言われても、納得できないと思います。

カツオ木とは、何だと思われる方もおられると思います。

今日から、毎日、一年間、三つの神社を訪問されたら、自然と、神社の違いが解かってくると思います。その時は、神社だけではなくて、町全体を歩かれると違いが解かってくると思います。 特に、式内社を入れるようにされますと、違いが分ると思います。

〔出雲も藤原の支配下〕は、出雲の式内社を全部行かれますと、少しは理解できるのではないかと思います。






壬申の乱のアリバイ工作をした不比等   93  -125- [真説 建国史]

 古事記は実は推古天皇で終わっている。しかもこの天皇以前の記述も系図だけでしか書かれてなかった。これは詳細な記述があったか、全くかかれてなかったかは、今となっては知る由もない。わたしは聖徳太子等の記述がもともとから無かったとは考えたくない。  むしろ日本書紀の記述とは全く異なっていたので1263年に藤原朝臣を抹殺してしまったと考えたい。  歴史上の人物が死んだ年は衆人環視だから誤魔化しはきかない。しかし何時生まれたかは自由に誤魔化しできる。鎌足の次男が不比等で享年62才、658年生まれである。これでは、672年の壬申の乱には僅か14才である。 鎌足は享年56才、669年死亡である。これから鎌足は45才で次男の不比等を出生したことになる。次男を45才になるまで生れなかったと考えることは矛盾である。壬申の乱の首謀者でないための偽証と考えることだ。  日本書紀で不比等は全天皇の年令を誤魔化した前科があった。革命家はもぐって活動することが常識だと考えてよい。


---私のコメント---
 文章を読んでいても分り難いので、並べて表示します。

不比等(鎌足の次男)             鎌足
生れた年  658年(享年62才) 
                      死亡  669年 (享年 56才)

壬申の乱 672年   672―658=14   不比等 壬申の乱の時は、14才

以上の計算から、  <鎌足は45才で次男の不比等を出生し>は出てきましたか。

鮮卑族の王朝の隋に支援を求む   92  -124- [真説 建国史]

 わたし達は祭神が異民族を祀っていたと分れば、お参りするだろうか。出雲の187社有った式内社の祭神はスサノオ命の一族か素生が全く分らない神である。スサノオ命が高句麗人だったから氏子は当然この民族が主もで、隋書で秦王国と書かれてよい証拠があった。紀元前漢が北鮮に元莵、臨屯、真番、楽浪の4郡の植民地を置いたが、これらの国の中に高句麗系、秦族系等の細かい相違があったと考えたいのである。  隋の使者が渡来した時には九州は漢族のゲリラのボスが占領していたので、鮮卑族系の隋の使者が筑紫で上陸できる筈がなかった。  聖徳太子は隋の支援を頼むために小野妹子を使者に出したとすれば、矛盾は何一つ見付からなかった。  この聖徳太子がどのような運命をたどったかは梅原 猛氏の〝隠された十字架〟は極めてしさに富む書物である。藤原の言論統制下に書かれた文献は全て裏を読まないことには真実が解ける筈がない、はたしてこの様な裏を読んだ学者があっただろうか。

---私のコメント---

124ページは、123ページの続きです。
此処の所、私も意味が分るよで判りませんね。


隋書に書かれた秦王国は出雲   91  -123- [真説 建国史]

隋書の筑紫より東してを、九州に上陸とすることは矛盾している。更に仮に関門海峡をを越えて瀬戸内海沿岸の何所かに上陸してここからは陸行することも矛盾している。神武天皇が東征の時船出した日向浦が天皇勢力下の港である以上、ここを天皇の使者小野妹子が利用することが常識である。 つぎには瀬戸内海の明石海峡、、来島海峡、関門海峡を通過するのに適した船が外洋を航海する船と同一構造でよいだろうか。朝鮮沿岸から九州に渡れる船ならば日向浦まで航海はより容易である。 秦国が出雲だとすれば何一つ矛盾が起きない。出雲の支配権を握っていたのは鎌足の先祖の中臣と考えてよい。そしてここには大国主神が伯耆から追放したスサノオ命の一族の高句麗人が住んでいたから秦王国と書かれても当然だった。  雄略天皇の御世に天皇の敵が河内におってこのボスが漢族の王朝、宋の皇帝から倭王の肩書をもらっていた。この倭王とは後で述べるが中臣だった。




---私のコメント--
「雄略天皇の御世に天皇の敵が河内におってこのボスが漢族の王朝、宋の皇帝から倭王の肩書をもらっていた」
この文を読まれたら、この続きを読むのは嫌になられたのではないかと思います。「河内」は、これで「かわち」と読みます。わたしは、同じ大阪に住んで居ますが、どのような所かよく知らないのです。しかし、これからは、力を入れて勉強しなくてはいけないのではないかと考えています。

今、「新しい日本の歴史」というタイトルで書いていますが、大津京は無かったのだと書いています。この大津と河内が関係あるのではないかと思っていますが、その始めの頃は、「河内のボス」が一番上手く表現されたのではと思っています。

式内社と祭神
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
ここで、河内と近江と出雲をご覧ください。 2番目に、式内社の多かった地域に属します。 晩年、中臣氏の支配力が強くなった所です。 山城国は、平安京の時の式内社のあった所です。せめて、ここは、全部の神社を訪れてください。 歴史が自然と納得できると思います。 車ではなくて、歩いてください。

遣隋使、小野妹子 日向浦に帰来   90  -122- [真説 建国史]

古代史を解くのに中国の文献、隋書を先づ取上げたい。推古天皇の御世に聖徳太子が607年に小野妹子を使者として隋に派遣した。 この時「日出る所の天子、書を日没する所の天子に致す。つつがなきや」の聖徳太子大使の国書を、隋の皇帝に渡した。 この翌年この国書の申出に従って隋の使者が小野妹子と帰来した。この時の様子が隋書に書かれている。 「明年、上、文林郎裴清」を遣わして倭国に使せしむ。百済を度り行きて竹島に至り、南に [身冉]羅國を望み、都斯麻穀(対馬)を経、遥かに大海中にあり、又東して一支国(壱岐)に至り、又竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以って夷洲となすも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東皆倭に付庸す。」 この文章で筑紫より更に東に航海して、上陸した所から十余国を経て再び海に出ている。これこそ伯耆の日向浦で上陸して伯耆街道を十余国を経由して大阪湾に達したことだ。


---私のコメント---
『竹斯国(筑紫)に至り、又東して秦王国に至る』と云うことは、九州から、日本海を北上したことに成ります。
問題は「秦王国」です。日本の資料では秦王国は有りません。
「」
「明年、上、文林郎裴清」と書かれていますから、「秦王国」へ行ったのは、
文林郎裴清です。隋の人ですから、秦王国の人は、一目で、中国(華夏)の人であることが分ったと書いています。なのに、どうして「夷州」といのか分らないと文林郎裴清が書き残したことに成ります。
「夷州」とは、野蛮な国と、蔑視した云い方でしょう。

「夷州」に着いてから、

訳文 明年、上、文林郎裴清を遣し 國に使せしむ。百濟を度り、行きて竹 に至り、南に 羅國を望み、都斯麻國を經て、迥かに大海の中に在り。又、東に一支國に至り、又、竹斯國に至り、又、東に秦王國に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざる也。又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な に附庸す。

「又、十餘國を經て、海岸に達す。竹斯國より以東は、皆な に附庸す」の部分は、田村氏の云われる通り、上陸してから、陸路を歩み、海に出たと云いますから、すくなくとも瀬戸内海に出たことになりますが、是ですと、10ヶ国もありませんから、大阪となるでしょうか。

奴国漢族ゲリラに占領さる   89  -121- [真説 建国史]

後漢書に奴国が57年に大夫を遣わしたと書かれている。この時に「漢委奴国王」の金印が授けられている。金印を授けることは奴国が漢に服属することである。 奴国は伯耆の一部で西伯郡と日野郡で、ここは神武天皇が育った国である。しかし天皇が東征のためにこの地を離れたので、漢族のゲリラがここを占拠した。このゲリラのボスが漢の皇帝に使者を遣わした。漢の皇帝はこのボスに倭国占領目的の奴国王の肩書を与えた。 米子や会見町で漢の銅鏡が出土することが漢族のゲリラが進駐していた何よりの証拠である。 7代孝霊天皇は大吉備津彦命、若建吉備津彦命と日野郡の鬼林山、鬼住山の鬼を征伐した伝承が各地に残っていた。この鬼と派中国人の事で、漢族のゲリラは180年代まで150年間奴国の占領を続けていたことになる。




---私のコメント---
次の所に、田村誠一氏のページに銅鏡の話題が書かれています。
真説建国史のあらまし(10) その7  12page [真説 建国史]

意味お分かりでしたか。銅鏡は中国でつくられたものと日本で作られたものと二通りに分かれます。

 鏡の縁が三角形の三角縁神獣鏡神獣鏡と云うのが有りますね。いずれにしても、中国人の家来が身分証明書のように貰ったものという見方です。100%ではありませんが、古墳から見つかった場合は、だれから貰ったと云うことがある程度分るように思います。
例えば、奈良の黒塚古墳では、33枚の鏡が出土しました。
http://small-life.com/archives/08/03/0714.php

 この被葬者は、次々、部下に渡そうとして持っていたと思われます。

福岡の沖ノ島の宗像神社は偽証   88  -120- [真説 建国史]

古事記では大国主神は胸形の奥津宮の多紀理姫(紀—田心姫) を妃にされた。米子の宗像の宗形神社は旧社名が胸形であった。しかも伯耆には6社しかない式内社で、奥津宮にふさわしい奥谷の地名もあった。 ここも中臣勢力の伯耆における重要な挙点゛ったことになる。しかし福岡県に宗像郡の地名もあって絶海の孤島沖の島に宗像大社があった。この様な絶海の孤島まで大国主神が訪れて多紀理姫を妃に選ばれただろうか。この宗像大社も式内社だから偽証目的で後世に作られたと考えてよい。  大国主神は出雲に沼河日売の許にデートに出かけられた。この時に二人の間で歌のやりとりがあって、如何に古代人は文学的素養があったかに驚かされる。 この時に出雲より倭国に出発する時に、歌を読まれている。問題はここに倭国と書かれていたことだ。この時の倭国とは西伯郡の大国村倭を代表する国のことである。  大国村倭は大物主神が渡来した時にも登場する古い地名だった。

---私のコメント---
「宗像大社も式内社だから偽証目的で後世に作られたと考えてよい」
どうしてこの様なことが言えると思われますか。式内社は、3000弱、全国にあります。この神社をすべて、参拝しようと思っていましたが、体力的に無理なことが分りました。
若いお方は、せめて、500社でも参拝されたら、歴史の知識はゼロでも自然と解って来ると思います。
田村氏は勿論、一杯行かれたと思いますが、其の時に、

「古事記では大国主神は胸形の奥津宮の多紀理姫(紀—田心姫) を妃にされた。米子の宗像の宗形神社は旧社名が胸形であった。しかも伯耆には6社しかない式内社で、奥津宮にふさわしい奥谷の地名もあった」を見付けられたのだと思います。

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