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大国村の国主になった葦原色許男   87  -119- [真説 建国史]

国土地理院の米子の地図を眺めていただきたい。米子の南の西伯町に倭の地名がある。ここが神武天皇が皇后を選ばれた時の歌に出て来た倭である。宇迦の山本とはこのすぐ東の山が宇迦と考えてよい。大国主神が謀殺されかけた手間山の南隣りである。 西伯町は最近まで大国村と天津村に分れていた。従って、葦原色許男が大国村のボスになって大国主神と呼ばれることになった。ここの倭の賀茂神社に大国主神と神武天皇が祀られている。 西伯郡がもとの根の国でこれは日野川が木の根の様に下流が拡がっていたことに由来していた。日野郡が夜見国でこれは三平山から夜間に見渡せる範囲だった。イザナギ命がイザナミ命を見舞いに行かれたのは夜見国の御墓原でよかった。  西伯郡と日野郡を合わせて奴国で、天津村がこの付近の地名から明らかな様に内港で、日向浦(境港)が外港である。 倭国や倭人は奴国の都、倭から由来していたことになり何の矛盾も見出せない。




---私のコメント---
「ここの倭の賀茂神社に大国主神と神武天皇」との記事は、殆どの方は、読んで、数時間後に、忘れられると思います。
神社の資料で大切なことは、祭神と所在地の地名だと思います。 次は、残っているのであれば、建て物から得ることの出来る資料だと思います。

日本の歴史を学ぶ時は、多くの方は、日本書紀を重要視されると思います。100%採用したらいけないのは、他の一書という部分と思います。

日本書紀に書かれてあることは、採用しても良い記事と、採用してはいけない記事に分れると思います。
 
今、次の記事を投稿しました。
 日本書紀における天智天皇紀の記述 その13----大蔵省の第三倉より
http://blog.goo.ne.jp/skeikas 

ここに掲載しています記事は、全部で、16あります。『大津京』というタイトルの本に、大津に大津京が存在していた証拠に成るものを、日本書紀から抜粋して、説明してありました。

 そこで、証拠にしてもいいものと、証拠にならないものに分ける作業をしています。

日本書紀に書かれている記事は、天智天皇が、大津市の錦織に居られた証拠にはなりますが、大津京があった証拠にはなりませんと、私の見解を書いています。

日本書紀に書かれてあることは、すべて、正しいと考えることは間違っていますが、古事記に書いてあることは、全て正しいと考えています。

ただ、正しいことを書きますと、古事記が燃やされて処分されますので、太安万侶は、いろいろ苦心して古事記を書いたと推理しています。

奴国から大山咋命、別雷神追放   86  -118- [真説 建国史]

 唐王神社の由緒によると大国主とスセリ姫は夜見国の板井原にしばらくおったのである。この間にスサノオ命の命令通り大国主神の庶兄弟を全て日野郡と西伯郡から追い出した。 坂の御尾に追い伏せよと云われた神は西伯郡でこの地形の所は岸本町坂長の賀茂神社に祀られていた別雷神で、古事記で味鉏高彦根命が名前を変えていると教えてくれた。 同じく地形で河の瀬になっているのは日野川の東岸の日吉津村のことである。 この地名から明らかな様に、ここにおったのが大山祇命である。 スサノオ命は別雷神と大山咋命は追いはらえと命令した。これが京の賀茂大社と日吉神社、松尾神社の祭神だった。 この時以後大国主神の庶兄弟を天皇の敵に回したことになる。この反対勢力の中臣の先祖の天児屋根命が収まった。 この時伯耆から追放された多くの庶兄弟は隣りの出雲に移って行った。この時から最近に至るまで出雲は天皇反対勢力の挙点になったのである。


---私のコメント---
スサノオ命に命じられた通り、大国主神は、庶兄弟を全て日野郡と西伯郡から追い出したと古事記には書いてあります。追い出された人達はどうしたのかと云いますと、遠い、京都に移動して、賀茂大社と日吉神社、松尾神社の祭神になって、今では、大きな立派な神社に祭神として祀られています。
当然、その子孫の方が、この神社の氏子になっておられる筈です。

もう一つ大きな謎が解決しました。
島根県の出雲大社の周りには、一杯の式内社が有ります。

式内社と祭神 
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

 上の一覧表より、出雲は、三番目に式内社が多い国です。四番目は、近江国です。式内社が多い所は、天皇にとって重要な所ですので、力を弱めるために、藤原氏が、その周りを自分たちの人で、固めた所だと理解しています。927年以降に、式内社を多く配置し、天皇家の活動を封じ込めました。



スサノオ命が命名した奴国   85  -117- [真説 建国史]

スサノオ命が大国主神とスセリ姫に怒鳴った文句はスサノオ命から二人に「奴国」を国譲りした宣言文である。これが日本の二千年間の運命を支配することになった重要な決定であり、同時に「奴国」の所在を明かにした。 「汝がもてる生大刀、生弓矢を以ちて、汝が庶兄弟をば坂の御尾に追い伏せ、又河の瀬に追ひはらひておれ。 大国主神となり、又宇都志国玉神となりて、わが女スセリ姫を嫡妻となし、宇迦の山本に底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木高しりておれ。これ奴なり」 高天原ヒルゼンと日野郡の境の海抜1010米もある、しかも三方から平らに見えるので三平山(みひら)と名付けられた山の麓が日野町である。ここにスセリ姫と大国主神二人を祀った板井原神社があった。 スセリ姫を祀った今一つの神社は既に述べた西伯郡高麗村唐王の唐王神社であった。 この唐王神社に二人が夜見国で国土経営をしたと書かれていた。従って板井原神社で国土経営をしたと考えてよいから夜見国は伯耆の日野郡で、根国が西伯郡、合わせて奴国だ。

---私のコメント---
このコーナーは、二つの事が別々に書いてあります。
①スサノオ命は、どうして、大国主神に兄弟をやっつけて大国主神に成りなさいと云ったと思われますか。
やっつける方法が書いてあります。
「「汝がもてる生大刀、生弓矢を以ちて、汝が庶兄弟をば坂の御尾に追い伏せ、又河の瀬に追ひはらいなさい」

②その奴国を、大国主神とスセリ姫は治めることになりましたから、その証拠として、板井原神社と唐王神社に祀られているのですと、古事記の中で、物語を交えてこの辺りの歴史を伝えようとしました。

このような作り話をつくることは どうして、太安万侶は思いついたと思われますか。
稗田阿礼は、この辺りの神社やお寺を訪れて、古老から、いろいろ話を聞いたのだと思います。
多くの話を聞かされた太安万侶から、西伯郡と天皇との関係を結び付けながら古事記を書いたのだと推理します。
さて、「、宇迦の山本に底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木高しりておれ」
と書いてあります。
 礎石の上に大きな柱がたっていた遺蹟が、大国村倭から発見されれば、スサノオ命が、大声で、「奴国」を建国しろと怒なったのは、本当になります。

「しかも三方から平らに見えるので三平山(みひら)と名付けられた山の麓が日野町である」
この文章は、ずっと、気になっていました。地名は、必ず、理由があって付けられています。 この文章を読んだ時に、私はヒルゼンと日野郡に行って、三平山を眺めて平らに見えるかを確かめようと思いました。しかし、とうとう、行けなくなりました。もう、年です。気力がありません。どなたか、眺めて、平らでしたら、写真に収めて、送ってください。 o-mino@nifty.com 大橋です。 もう一ヶ所は何処でしょう。そこから見ても、平らでしょうか。 これが正しければ、田村氏の研究は、100%正しいと考えて良いと思います。

大国主神とスセリ姫のかけおち   84  -116- [真説 建国史]

葦原色許男大国主神の別名で葦原すなはち日野川の葦が繁ったデルタ地帯の刺国の子の意味であった。母君の刺国若比売がほとぼりが覚めるとスサノオ命に相談に行く様アドバイスしていたので根の国堅州に訪ねて行った。ここでスサノオ命の女スセリ姫と恋仲になった。  スサノオ命は二人の結婚を認めないで大国主神に、色々の試練を加えた。これに耐えかねてスサノオ命が居眠りしているすきに、大国主神がスセリ姫を背負ってかけおちした。 この時スサノオ命の弓矢と天の詔琴を持って逃げたので、スサノオ命ははだかにされたも同然である。この天の詔琴の詔は南越にあった詔国のことで、これが正倉院の五弦の楽器と考えたいのである。 この天の詔琴が木に触れて音を出したのでスサノオ命は目を覚ました。あわてて二人を追いかけた。しかし黄泉の比良坂すなはち夜見国(日野郡)の三平山(みひらやま)の麓まで追いかけたが、遂に追いつけなかった。ここでスサノオ命は大声で怒鳴ったのである。



---私のコメント---
正倉院展にいかれたことはありますか。私は一度だけ行きました。どれほど長い列ができたか、いまでも覚えています。いざ、展示されている前まで行きつきましたら、私の前は背の高い人ばかりで、背伸びをしても見えません。押されている内に、展示物から離れてしまったという悔しい思い出も残っています。 古事記から天の詔琴が、正倉院の五弦の楽器であると考えるのは、少し無理のような気もしますが、田村誠一氏は、丁度、五弦の楽器をみられたのかも知れません。
五弦の楽器は、次の所に、掲載されています。
奏 楽駱駝螺鈿五絃琵琶
http://www.arch.ce.nihon-u.ac.jp/~yumoto/artcul/database/japan/jpn008.html
ラクダの絵が見えます。 

「大国主神の別名で葦原すなはち日野川の葦が繁ったデルタ地帯の刺国の子の意味であった。母君の刺国若比売・・・・」と有ります。

田村氏は、刺国は、どこの国だとは書いて居られませんが、
詔を南越と書いて居られます。
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://wenwen.soso.com/p/20110618/20110618174924-74941452.jpg&imgrefurl=http://defence.pk/threads/history-of-vietnam-or-what-do-you-want-to-know-about-vietnam.272273/&h=508&w=500&tbnid=7t2X3H30YQpk_M:&tbnh=153&tbnw=151&docid=H39abcjyULbcVM&itg=1&usg=__bybdl93SHoCd9OT42-oWSiulBMI=

地図でお分かりかと思いますが、台湾に近い中国とベトナムにかけて存在した国です。紀元前200年ころにあった国です。 こんな国のことがどこから出て来たのでしょうか。もともとベトナムの国土だったのでしょうね。

こうなりますと、刺国若比売の母君は、何処からやってきたのでしょうね。

木の国に避難した葦原色許男   83  -115- [真説 建国史]

大国主神が人事不省になったので、母君の刺国若比売が心配して高天原の神産巣日命に相談に行った。この神が螱貝比売と蛤貝比売を看護に遣わして、きさげを集め母乳と練って塗った所生き還った。  ここに登場した三人の神も極めて特定で、もちろん古事記にしか登場しない神である。この神が西伯郡日野町の根雨神社に祀られている。手間山、日野町、ヒルゼン高天原の間には何の地理的矛盾も見られない。神話でなくて実話としか考えられない証拠である。 このあと大国主神は再び80人の兄弟神に殺されそうになったので母君はこれでは殺されてしまうからと、木の国の大屋毘古の御所にいかせた。木の国とは現在の播磨の三木市のことで、ここは加古川の中流で伯耆街道上で丹波にも分れて行ける要衝である。 ここの御坂社に大国主神の旧名葦原色許男が祭神として見付かった。又播磨風土記には美嚢郡の志深里に三坂社があり葦原色許男が祀られたと書かれ、古事記が偽書でない証拠が現われた。解説の木の国が紀伊は間違いだ。


---私のコメント---
この文章のコメントは難しいです。
「この神が西伯郡日野町の根雨神社に祀られている。手間山、日野町、ヒルゼン高天原の間には何の地理的矛盾も見られない」の意味はお解りですか。

①手間山と日野町は、何所にあるか調べてください。
 伯耆の国の手間山に登ってみませんか?
http://kagura.kaiz.asia/2015/06/09/temayama/
 鳥取県西伯郡南部町天萬

日野町根雨
http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.23812153&lon=133.44153291&ac=31402&az=19&z=16&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E6%97%A5%E9%87%8E%E9%83%A1%E6%97%A5%E9%87%8E%E7%94%BA%E6%A0%B9%E9%9B%A8

②蒜山高原は、日野町根雨の直ぐ北に在ります。
③手間山は根雨と同じ、西伯郡にあります。 お互いに歩いて行ける距離に位置します。
お分かりですか。 神話ではなくて、歩いて行きますと、この辺りに、大国主神が、うろうろしていたのだ、螱貝比売と蛤貝比売という人も、実際におられたことが実感できます。
手間山も登って下さい。根雨神社も立ち寄ってください。 少し足を延ばして、蒜山高原にも行ってください。 ただし、一泊は必要だと思います。

私は、最後に書いてある三木市の御坂社にも行ってきました。

全部巡りますと、大国主神には、いくつも名前があったことは、抵抗なく受け止めることができます。

なぜ神話が必要なのだろうか   82  -114- [真説 建国史]

因幡の白兎の原文では莵の人が和邇の人を欺したのである。この時衣服を脱がされて裸にされたとまで書いてある。之を白兎は皮をはがされれば死ぬ外ない。 イザナギ命が近江八幡市の多賀に移って行かれここに御所を設けた。そして白狄人を中部以西全域に導入した。これは三木文雄氏の〝銅鐸〟の中の分布図で明らかになった。 多賀はこの中心に位置していないし、西隣りの野洲町から銅鐸が14ケ組で出土した。ここの ビワ湖の対岸が和邇村で、従って白狄人が住んでいて当然である。 八上比売を大国主神が妃にしたので80人の兄弟神は手間山で大国主神を謀殺しようとした。この村も西伯郡の大国村の隣りにある。 ここで猪に似た赤い岩を焼いて、山の上から転がせ大国主神につかまえよと命令した。この時大国主神は人事不省になった。しかしこの話も日本書紀には載せてなかった。古事記にしか書かれてない記述に限って、ふさわしい箇所に地名や神社が残っていた。



---私のコメント---
どうしてこの様な話を太安万侶は、創作したのでしょう。この文章を読んで、日本書紀の編集者は、意味が分らなかったと思います。他の一書に見られるような手法や、、漢字を100パーセント書き変える手法では書くことが出来なかったのだと思います。よって、古事記だけに残ったことになります。

古事記にしか書かれてない記述に限って、ふさわしい箇所に地名や神社が残っていた
と云うことは、稗田阿禮は、西伯郡の大国村にある倭という所に行って、手間山に登ったと思います。そして、其の辺りにある神社にも行ったと思います。
私も、訪れて、全ての神社に行きました。

[南部町 倭]をキーワードに検索しますと、[倭]が表示されます。 地図を大きくして、東へ移動しますと、日野川が見えます。 JR岸本の近くに「大殿」へ行きました。少し、東に「久古」が有ります。ここには、久古神社があります。ここにも行きました。 どうして、行ったと思われますか。

久古神社 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-271.html
これは、私が作っているブロクです。

神武天皇、神武天皇の皇后、皇后の母の神社と小野小町の遺跡に行ってきました
http://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201405310000/

久古神社の裏にある狭井(山百合)河 の写真をご覧ください。
このブログを書かれた方も、大殿の三島神社に行かれました。
この神社には、私も行きましたが、行きつくのに、難儀しました。 

それだけに、印象は強く、大阪府茨木市にある溝咋神社や奈良の大神神社と関係あるのではと、いろいろ悩まされました。

三輪神社 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-234.html
この神社は、大国主が、八上村の比売沼神社まで、旅行した所と同じコースを歩いた時に、立ち寄った神社です。奈良の大神神社は、元は、この神社が発祥の地では無いかと思いました。


私は、この神社(久古神社)の境内で、コンビニで買ったお弁当を食べて、1時間程、昼寝をしました。そして、この集落の周りを走り回りました。

普通の集落でした。

上手く書く事は出来ませんでした。 同じ、コースを歩いて頂きますと、古事記に登場する地名が、一杯出て来るのです。

因幡の白兎は神話ではなかった   81  -113- [真説 建国史]

大国主神は大きな袋を肩にかけ、80人の兄弟神と因幡の八上比売の許に求婚コンクールに出かけた。八上村の比売沼神社に八比売は祀られていた。しかしこの神社名が式内社を定める時売沼神社と改めさされたと神社の由緒に書かれていた。 八上比売はこの時に大国主神が慈悲深い方だと知って、夫に選んだのである。大国主神は不比等に取って好ましくない人物だから、この話も古事記だけである。そして比売沼神社では八上比売を連想するので、売沼神社に改めさせた。  因幡の白兎は原文を見れば何所にも白兎が登場して来ない。八岐の大蛇の神話と云われているが大蛇の字が全くなくて遠呂智と書かれていたのと同じ現象である。 莵の人が隠岐の島ではなくて現在の鳥取市の白兎海岸のすぐ近くにある岩場に取り残されていた。この時たまたまここに恐らく潮干狩に来ていた淡海の和邇邨の人を騙したのである。莵の人とは当時北鮮にあった元莵国の人で和邇村には白狄人が住んでいた。



---私のコメント---
白兎海岸は、なつかしい所です。
大国主神が住んでいた鳥取県南部町倭を出発点にして、鳥取市川原町まで、一泊二日の旅をしました。宿泊地の倉吉に到着したのは、10時廻っていたと思います。大阪を出発して、大阪に帰宅したのは、真っ暗だったと思います。 

[鳥取県南部町倭]で、地図を検索しますと、180号線の近くにあります。古事記に登場する地名は一杯現われます。


伯耆・因幡の国----立ち寄った所の写真掲載
http://homepage2.nifty.com/mino-sqaigaku/page511.html

賣沼神社 
 http://www.genbu.net/data/inaba/menuma_title.htm

新羅と伯耆が最短コース   80  -112- [真説 建国史]

新羅と伯耆が最も渡り易いコースである。 三国史記の新羅の193年に倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たと書かれている。これは倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たと書かれている。これは倭人と新羅とが交友関係にあったし、倭人は伯耆が本拠地だったから、ここから新羅を往復した証拠である。 海上保安庁の海流図によれば春から夏にかけての日本海はおだやかで山陰沖は海流がなくて湖と同じことだった。現在でも韓国からの密航者が小舟でこの海岸にやってくる。 対馬海流は流れが速くて仲々渡り難い。かって朝日新聞社は魏志倭人伝と同じ様な船を野生号と命名して京城から九州に実際にこいで渡る実験をした。この時野生号は対馬海峡が早くてボート部の選手でもだめで一部モーターボートで引張ってもらった。 九州からは黒潮の上流の松浦半島からは渡り易いのである。九州と朝鮮が地理的に最短だけの理由で、主観だけで古代史を論じないことだ。朝鮮南岸から山陰が最も渡り易いことを古代史に反映させることである。


--- 私のコメント ---
おわかりになられましたか。文章を読めばなるほどと思われるでしょうが、実際に、海上保安庁の海流図を取り寄せて、見られれば解ります。海図を見ても解かりません。 それよりも、ヨットを持って、日本海を走って居られる方に、お話を聞いた方が、判ると思います。

田村氏は、関係ない3つの事から、一つの推論をして居られます。
①三国史記の新羅の193年に倭人が食に飢えて千人以上の人がやって来たことが書かれている。
②海上保安庁の海流図によれば春から夏にかけての日本海はおだやかで山陰沖は海流がなくて湖と同じことだった。
③野生号は対馬海峡が早くてボート部の選手でもだめで一部モーターボートで引張ってもらった。

 以上の事から、
倭人と新羅とが交友関係にあったし、倭人は伯耆が本拠地だったから、ここから新羅を往復した証拠である。----の結論を、この短い文章で書いて居られます。
 
韓国の人と日本人は、193年の頃から、行き来をしていたと書いて居られます。
そんなことは、当たり前と思われるでしょうが、新羅より、少し、北の方の北朝鮮の人らしいですが、それも、船は小さな漁船ですが、日本に辿りついています。どうやら、軍人のようにも思われますが、不思議だと 次の様に、NHKは報道しています。

漂着相次ぐ 北朝鮮の漁船か
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/11/1125.html

不思議なことではありません。春ですと、湖のような日本海は、中国から出発すれば、漕がなくても、4日で、隠岐~福井県あたりまで、漂着することを、田村氏は著書に書いて居られます。

なのに、冬は危険な海であることをNHKの記者はご存じ無いだけです。

所が、新羅の人も日本人も、これらのことを知っていたと云うのは、驚きと言うほかありません。

新羅の大神の女が大国主神の母君   79  -111- [真説 建国史]

大国主神が80名もの兄弟神から迫害を受け二度までも謀殺された話も古事記だけ書かれていた。古事記では、スサノオ命の一族の系図は特に配偶者までも詳細である。  大国主神の兄弟が如何に多かったことか。 この配偶者の兄妹も大国主神の義兄弟である以上80名は矛盾しない人数だった。  大国主神の母君は刺国大神の女だった。刺国とは当時の新羅の前身の辰国と考えては如何だろうか。朝鮮の三国史記の新羅の例えば脱解王は但馬出身と書かれている。但馬の出石神社に祀られた天の日矛や中島神社の多遅摩毛理(但馬守)も新羅系統の人物だった。  スサノオ命一族は母系相続だから大国主神の母君が新羅からの渡来者でしかも大神の女であれば大国主神だけは新羅系でよい。大国主神の子でも味祖高彦根神は母君が高句麗人であれば、天皇の敵である。古事記では、  天皇家は父系相続でこの点スサノオ一族とは反対である。後世この天皇の后 に何度か高句麗人をおくって天皇家乗取りを企てた。 



---私のコメント--
田村氏の[矛盾しない]のお得意の言葉が、続いて書いてあります。
[この配偶者の兄妹も大国主神の義兄弟である以上80名は矛盾しない人数だった]

現代風に考えれば、兄弟80名と聞いただけで、作り話と思ってしまいます。

私は検事物語は、面白いと思わないのです。頭がおかしいのでしょうか。
世界で最高の文学書と言われいてるようです。
①源氏物語はなぜ人気なのですか。 源氏物語はなぜ・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12112432847
②源氏物語が長い間読まれつづけているのはなぜか
http://www.kokken-jp.com/kage/
③【海外の反応】日本古典『源氏物語』に圧倒される外国人が続出 ...
https://www.youtube.com/watch?v=95svrmz_Nz4

万葉集も理解困難です。 例えば、次の作品です。

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る  額田王

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも  
この歌の解説者は、「宴会の席で額田王は、大海人皇子との昔の関係をネタにして1句詠んだのです」と云っておられますが、此の頃の性風習は、笑って済ませる程のことだったのでしょうか。

これが本当ですと、とっくに、人類は滅びていたことになります。この歌の通り、宴会の魚にする程の事であれば、実際にあった話となります。
これでは、子供が生まれた時には、どちらの男性が、子供の親か判りません。

このことを理解するためには、あらゆる動物のセックスを知る必要があります。

動物の世界では、オスは戦いに勝ったり、クジャクの様に美しい羽根を持っていたものが、子孫を残す権利を獲得しました。

人類全体から考えますと、男は誰でもいいことになります。子供が生まれる最適な時期は、何年前でも分っていますから、男性が入れ替わっても、生まれた赤ちゃんの母親は、必ず誰か分ります。昔は、母系家族であったことになります。

太安万侶は、この話を大国主神とスサノオ命に限って精しく書いただけになると思います。そして、田村氏が指摘する様に、誰が、天皇家と関係が有るかを記しました。

古事記を読むと云うことは、書いた太安万侶のことも考えに入れることになります。

筑波にあった紀元前の製鉄所   78  -110- [真説 建国史]

東京工業大学の製鉄史研究会が〝古代日本の鉄と社会〟の題名の技術書をだしている。この中に関東の筑波山の西の尾崎で見付かった製鉄遺構のことが書かれている。  この製鉄遺構からは木炭までも見付かって、この木炭をカーボン14で年代測定した所、紀元前170年と分った。驚いたことにこの様な古い時代に製鉄が行われている筈がないと技術者集団すらこの科学的データーをボツにしてしまった。  そしてここにあった土器からこの遺構は8世紀から9世紀としたのである。ここでも主観による土器の編年が優先している。  丹後半島では最近ここの鉄の鉱さいが日本の砂鉄だったことが判明した。しかも年代は紀元前1世紀だったことが判明した。鉄剣は武器でこれは全て中国製の鉄が使われていたが、日本の砂鉄を紀元前1世紀には製錬していたのである。  八俣の遠呂に最新式製鉄所があってよかった。中山王国では鉄器も銅鐸も作られていた以上、製鉄が行われてない説は矛盾している。


---私のコメント---
今回の田村氏の考え方は、今までにない手法です。
此の時に出て来る言葉が、「製鉄が行われてない説は矛盾している」です。
 いくら、昔のことでも、どのような事柄を扱つかっても、「矛盾」は駄目だと云うことです。「矛と盾」のお話はご存じですね。

田村氏は、東京工業大学の製鉄史研究会が〝古代日本の鉄と社会〟の題名の技術書を全部読まれて、書かれていることは正しいと判断されました。

 カーボン14で年代測定した所、紀元前170年と分った。----田村氏は、カーボン14で年代測定した結果は、正しいと判断して居られることになります。

 田村氏は、技術屋です
 それゆえに、
[驚いたことにこの様な古い時代に製鉄が行われている筈がないと技術者集団すらこの科学的データーをボツにしてしまった]と技術者集団を批難して居られます。

 話題は逸れますが、最近の政治家は学門を重要視しません。 その政治家をクソミソにいうメデイアの人も、技術者を重要視しません。 なんの為の学門か解りません。

田村氏は、次のことを書かれています。
 ①丹後半島では最近ここの鉄の鉱さいが日本の砂鉄だったことが判明した。しかも年代は紀元前1世紀だったことが判明した。
 ②鉄剣は武器でこれは全て中国製の鉄が使われていたが、鉄剣は武器でこれは全て中国製の鉄が使われていたが、日本の砂鉄を紀元前1世紀には製錬していたのである。

この①と②は、別の事実です。
鉄剣は武器でこれは全て中国製の鉄が使われていたが、日本の砂鉄を紀元前1世紀には製錬していたのである。 これは、どこに書いてあったかは書いて居られません。

日本の砂鉄を紀元前1世紀には製錬していたのである
この部分も根拠を書いて居られません。

2回前にかきました108ページの[大呂にあった最新製鉄所   76 ]や[丹後半島の砂鉄]が関係してきます。この砂鉄は、天皇家の人が作っていたのか、中国人が作っていたのかを調べると歴史が解ります。そのためには、丹後や他の地域の神社の祭神を見ますと解ります。

 このような事は紙面の都合で、書くわけにはいきません。 このページは、110ページだけですから、中国王国のことを書いている場合ではありません。

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