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歴史番外編 No40 黒塚古墳は誰の古墳 [歴史番外編]

No39からの続きです。残りの特徴を記します。
⑤ 木棺中央部に大量の水銀朱が塗られていた。
⑥ 出土した土器は「壺型」、桜井茶臼山古墳と同種のものと思われる。画文帯神獣鏡も桜井茶臼山古墳に同種のもの有。
  ⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた、甲冑の小札が出土。
  ⑧ 「U字形鉄製品」と呼ばれる、用途不明の鉄製用具。

⑤から得ることのできることはいっぱいです。得るためには、まず、水銀朱はどのようなものかを知る必要があります。
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。

竪穴式石室に敷き詰められていた赤色の顔料のうち、被葬者が安置された木棺中央部だけに貴重な「水銀朱」を大量に使われ(厚さ4.5cm)、石室内のほかの部分の顔料はベンガラ(酸化鉄)を用い、使い分けをしてあった。
このような使い分けは、弥生中期末の北部九州地方が国内最大の出土例とされています。次いで、吉備地方(岡山県南部)の弥生末期の墳丘墓でも水銀朱を木棺内に厚く敷き詰めた例があります。
これらのことは何を意味しているかと言いますと、黒塚古墳を作った人は、少なくとも北部九州地方と吉備地方から知識を得たか、ここに住んでいた人が奈良の柳本に住んでいたことになります。
 ⑥の画文帯神獣鏡は、調べていませんが、私の頭の中には、気になって仕方がない鏡です。北部九州地方の古墳には、画文帯神獣鏡が出土していたと思っています。この鏡は、比較的新しく、やはり、高級将校用の鏡であったように捉えています。この鏡は漢人のものであり、ほとんどが中国製ではなかったかと思っています。調べがつけば、また、書いてみるつもりです。
⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた
 この部分が私にとっては、一番重要視するところです。漢人で中国から持ってきたと言えば、それまでですが、吉野ヶ里遺跡では、普通の住民の甕棺からも出土しています。群馬県から送られてきた絹の集積地というか中継地だったと思っています。絹は動物性ですから、ほとんど消滅します。この棺桶では、たっぷり使われていたので、少し残ったのではないかと想像しています。

これまでのことから、黒塚古墳の被葬者は、漢人であり、奈良盆地の総司令官だったと考えています。
黒塚古墳と三角縁神獣鏡http://homepage1.nifty.com/o-mino/page777.html
椿井大塚山古墳の周辺の古墳 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page779.html

大分以前に書きましたので、最近の考え方と少し違うかもしれません。


歴史番外編 No39 遺跡ウォッチング [歴史番外編]

私のブログを読んで頂いておられるかたですと、「遺跡ウォッチング」と聞くと、直ぐに、ピンと来るのではないかと思います。NHKのシリーズで、考古学者である金関 恕氏の目と写真家そして、画家の目から見た遺跡の紹介です。きれいな映像で、なによりも気に入っているのは、私が見ることが出来ない空からの映像を入れてくれることです。
先週は、黒塚古墳のことを紹介しておられました。日本史に対する見方がNHKのディレクターと私の見方が違うのは仕方がないのですが、私の意見は賛成される方は数名です。NHKのこの番組を見られた方はどれほどおられるのでしょうか? 金関 恕氏は大阪府の弥生文化博物館の館長をしておられ、しかも、60年も考古学に携わり研究された方ですから、視聴者の方は報道された内容は正しいと思われたでしょう。
 きっと、それで正しいのだと思いますが、私は、一部疑問に思ったことがありますので、書いてみます。黒塚古墳がどのような古墳かは、次のホームぺージに詳しく載っています。
http://inoues.net/club/kuroduka_museum.html (私のものではありません)
次は黒塚古墳発掘調査現地説明会資料 (http://www.begin.or.jp/sakura/kurotuka2.htm 
)
この古墳の特徴を書いておられますので、お借りします。(但し、写真の地図は崇神天皇と景行天皇が逆です)
① 盗難をまぬがれ、石室、鏡などの副葬品もほぼ完全な状態で残っていた。
  ② 国内最多の三角縁神獣鏡33枚が出土。鏡に「師出洛陽」銘がある。椿井大塚古墳と同笵と思える鏡がある。
  ③「三角縁神人竜虎鏡」2形式をあわせ持つ新式の鏡があり、画文帯神獣鏡も特殊なタイプ。
④ 吉備地方と石室工法が類似する。
⑤ 木棺中央部に大量の水銀朱が塗られていた。
⑥ 出土した土器は「壺型」、桜井茶臼山古墳と同種のものと思われる。画文帯神獣鏡も桜井茶臼山古墳に同種のもの有。
  ⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた、甲冑の小札が出土。
  ⑧ 「U字形鉄製品」と呼ばれる、用途不明の鉄製用具。

NHKのアナウンサーは、鏡のことが気になられたようで質問されました。テレビは便利ですね。三角縁神獣鏡の拡大の写真を写しだし、周囲の縁の部分の断面が、三角形になっているところを図で表してよく理解できるようになっていました。私の聞き違いかも知れませんが、先生は、この鏡は卑弥呼が魏の国から、貰った100枚の鏡だと言われました。確かに、一般にはそう言われていますが、この種の鏡は、すでに、100枚を超えて500枚になろうとしているそうです。可能性はありますが、この鏡と同じものは、中国にはないそうですから、違う可能性の方が大きいと考えるのが普通です。正味、僅か25分ぐらいのことですから、こんなややこしいことは言わなくても良いのかも知れません。
 最後に締めくくられた言葉が気になりました。どうして、このような鏡が入れられているのか良く判りません。しかし、大変な宝物であったことは確かですと言われました。
専門家が言われたのに、素人の私が訂正するのはおかしいですが、現在の私たちにとっては、宝物であることは確かですが、当時の人にとっては宝物ではなかったと思っています。
宝物であれば、お墓に入れないで、代々受け継がれて残っているはずです。
 このような疑問は、学問的ではありませんが、大切だと思います。おかしいとなれば、なぜ、三角縁神獣鏡が、無傷でしかも、33枚も沢山出土したのか、判らないでなく、考えませんと、歴史はいつまでたっても解明されません。

そこで、素人の私が挑戦です。
この古墳は、後円部中央に、墳丘主軸に直行して南北方向に竪穴式石室が造られていました。従いまして、古い形になります。出土した三角縁神獣鏡は魏の国から貰ったかどうかは別にして魏の国と関係があるとされています。238年に卑弥呼が魏に使いを送り、鏡を貰ったことが魏志倭人伝に書かれていますので、238年以後ということになります。
 
ヒントとしては、次に考えることは、枚数の多さと盗掘されていなかったということです。お墓が発掘されたときに再度開いた形跡があり、出土物が少ないときは、殆ど、盗掘されたと書いておられます。勿論、あったはずの埋葬物がないのですから、盗掘されたのでしょう。しかし、多くの場合は、割れた鏡が出土することがよくあります。私は盗むつもりなら、割れていても盗んだと思います。金関先生が言われるように、本当に当時も宝物であったのなら、なおさら、割れていても宝であったと思います。割れた鏡が残っている場合は、割るためにお墓を暴いたと考えます。誰が割ったかといいますと、葬られている人を憎んでいた人でしょう。西洋では個人の墓でもあると聞いたことがあります。この場合は、反対勢力の者でしょう。
黒塚古墳は割れていない鏡が出土したということは、割られなかったことになります。これは、被葬者を葬った人が、盗掘されないように墓守をしていたことになります。(ただ、現地説明会資料には、竪穴式石室の北側4分の3に重複するように、大規模な盗掘坑があったこと。埋土中に含まれる瓦器・土師皿等から、盗掘の時期は鎌倉時代頃のことらしい。盗掘坑内からは丹塗りの底部穿孔壷形土器も出土しています。盗掘時期が城郭 <城郭として利用された> によって改変される以前であったため、墳頂に置かれていた土器が混在したと理解していますと書かれています) 黒塚古墳より少し東へ行きますと、国道169号線に出ます。道を渡りますと、崇神天皇陵です。道を渡らないで右折しますと、直ぐに、伊射奈岐神社の鳥居が見えます。その向こう側の森が、天神山古墳です。木櫃の内部に、20面の銅鏡が置かれていました。 両方の古墳は、直線距離で300mほどです。 近くにあることと、鏡の数が多いのが共通ですので、取り上げました。鏡は、普通は1枚とか数枚です。このように多いのは、漢人のなかでも、高級将校ではないかと考えています。勿論、自分の部下に与えるために準備をしていたと考えています。 次に気になるのが、「椿井大塚古墳と同笵と思える鏡がある」ことです。同笵というのは、同じ鋳型を使ったと思えるということです。これはどのように考えたら良いかです。一つは、この頃、すでに、製造する者がいて、製品を売り歩く者がいた。別の考え方は、同じ製作所でつくり、そこは、もう一段上に立つ親玉で、そちらから貰った。後者のほうは、同じ仲間と考えることができます。 椿井大塚古墳とは、奈良の北にある現在でいう京都府山城町にある古墳です。この古墳からも三角縁神獣鏡が三十数面を含む四十面近い銅鏡が出土しています。 ④番の「吉備地方と石室工法が類似する」はどのような点で類似するのか調べていま せんが、もし、本当であれば、吉備の仲間が、奈良へきて築いたのだと思われます。吉備は、神武天皇が東征の時に、難儀をして8年留まったところです。神武東征は、日本中を支配した漢人を討伐するために行われました。 そこで元締めである吉野ヶ里を攻めました。次の漢人の拠点は吉備の国でした。その他、あちこちに基地の役目をするところがありましたが、すべて、何重にも環濠を構築して外敵から守っていました。  その内の一つに、鍵・唐古遺跡があります。 http://www.town.tawaramoto.nara.jp/8.karako_kagi/part/03.woching.html  これは、黒塚古墳を西にいきますと横たわっています。鍵・唐古遺跡のことを書いていますと、切りがありませんので、私の独断を記しますと、鍵・唐古遺跡も漢人の拠点だと考えています。ここのトップクラスのお墓が、黒塚古墳であり、天神山古墳であると考えています。 もう少し、西へ行きますと、馬見古墳群http://inoues.net/club2/umami_kofungun.html があります。勉強していませんので、確かなことは言えませんが、ここも、漢人の古墳ではないかと頭で描いています。  ということは、奈良盆地は鍵・唐古遺跡を中心にして、漢人が支配していましたが、神武天皇からしばらくは、南の方でばん回し、次第に、西の方も支配するようになります。 先日来、歴史番外編に書きましたように、孝霊天皇陵が造られ、武烈天皇、顕宗天皇の御陵が造られています。東の方は、箸墓古墳(卑弥呼?)、崇神天皇、景行天皇の御陵が、これでもかと漢人のお墓を威圧するように造られています。そして、北の方には、平城京の北に、佐紀古墳群が造られました。  と書いてきましたが、調べたわけではありません。今後、この線で調べようかと考えています。 次回へ続く 


歴史番外編 No38 太子道から感じたこと [歴史番外編]

【歴史番外編 No26 太子道を歩く】 から、No37まで、退屈なのにお付き合いありがとうございました。退屈でしょうから、最後はデーターだけを記し、省略しました。一日かけて、ゆっくり歩きましたが、出発の王寺駅から志都美駅までは、僅か6kmぐらいだと思います。
この間に、大きな遺跡が三つありました。御陵は三つです。古墳は、他の地域に比較して少ないようです。ということは、あまり古い時代には、住んでいなかったのでしょうか?
面白いと思ったのは、伊勢参りが盛んになったとき、河内国分から明神山を越えて畠田へ出る道があり、その道が「送迎道ひるめみち」と呼ばれ、往来が激しかったことです。今では通行量は少ないですが、その街道筋に、永福寺が建てられており、行基の開基と伝えられていることです。(行基は天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月27日))は日本の奈良時代の僧侶)。
 
 皆さんに一緒に考えて頂こうと思ったことがあります。達磨寺ができたのは、13世紀初めとなっていますが、達磨寺の境内にある3号古墳は、聖徳太子が13世紀初め、達磨大師に出会って、助けたが飢人は亡くなり、埋葬したものであるという伝承があります。
 聖徳太子は、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代に活躍した政治家とされています。この間は48年間です。聖徳太子が創建したと伝えられる寺院は、46院とされています(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/syotokutaisi46.htm )。この46院と呼ばれるもののほかに、一覧表では、達磨寺があげられていますが、この中には、達磨寺の開基は聖徳太子であるとされています。
達磨寺の向かいにある放光寺も聖徳太子、または、百済王から帰化した大原博士の建立との説もあります。
 この辺りの事実関係を私が述べることはできませんが、達磨寺のことを調べているうちに、聖徳太子は50近くの寺院を建てたということを知りました。誰だれの開基というのは、どのようなことをいうのでしょうか? 建築に本当に携わったのであれば、48年間で50寺院というのは、無理だと思います。仮に、寺院は完成したとしましても、その寺を守っていく僧侶はいたのでしょうか?  僧侶はいたとしても、信者というか、一般住民が住んでいたのでしょうか?
聖徳太子より少し時代は下りますが、行基という人も、随分、寺をつくったり、治水の事業を行ったりしています。三重塔で有名な薬師寺は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されました。(718)
一段と時代が下りますと、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分寺と国分尼寺の建立を命じています。
 達磨寺を出発して、それほど知っている訳ではありませんが、思いつくままに寺院あげて、調べてみますと、奈良時代に集中しているように思われます。
 気に入らないのは、古墳時代がありました。その古墳からは、どうしてこんなに、幼稚なつくりだろうと思える埴輪が出土しています。この古墳は、ほとんど、5~7世紀のものであると書かれています。この古墳自体は、大土木建造物ですが、その中から出土したものと、寺院に残されている仏像などとは、連続していないと思えてなりません。
 仏教の経典なしの仏教だったのでしょうか? 経典もあって、初めて仏教でしょう。また、仏像があって、それを安置する建物が寺院です。どんどん、寺院だけが造られたのではないはずです。あれだけの素晴らしい仏像を造ることのできる人が造った古墳にしては、出土するものが、お粗末です。古墳の時代が正しいのであれば、奈良時代に造られたものは、殆ど、渡来の人が造ったと考えませんと不自然です。奈良時代に造られたものは、すべて、日本人が造ったとなりますと、古墳時代は、100年ほど遡らさないと歴史は連続しません。

 尼寺廃寺は、だれが建てたのかも分っていません。片岡王寺の詳細もこれからの研究によるでしょう。なにが不思議かと言いますと、碌に貨幣すらない時代に、どうして、このように大きな建造物を建てることができたのか?
 このような疑問を解決するためにも、どの寺や神社が、いつ、どれぐらいの期間とお金?
を使ってつくられたのか、調べる必要があります。

なかなかうまく書くことができません。思いつくままに、もう少し書きます。
弥生時代の日本人が、どうして、奈良時代になって急激に、気が狂ったように寺院を建て出したのか? その理由をなぜ、歴史家は、一般の人に、教えていないのでしょうか?
私が、主張しています、「日本は、中国人によって、運営される国になり、現在でもその状態が続いています」を使いますと、説明がつきますが、それでは、今度は、中国からもたらされた仏教がなぜ、日本で花開き、中国では成長しなかったのかの説明がつかないことになります。

私が歩いた太子道は、歴史がいっぱい、埋まっていました。歴史の謎を抱えながら。


歴史番外編 No37 太子道 その他 [歴史番外編]

(1) 尼寺廃寺南遺跡--尼寺廃寺北遺跡の南200mにある薬師堂の側に、古寺の礎石がいくつか残存し、その西の般若院の境内から古瓦が多く出土していて、部分の発掘調査で堂の基壇跡も検出されたので、北遺跡の古寺院とは別に、この付近にも古寺の伽藍があったと推定されている。現在まで部分調査は行われたが、北遺跡ほどのの本格調査はできていないので、不明である。地名の「尼寺」から北が僧寺で南が尼寺とみる考えもある。

(2) 武烈天皇陵(傍丘磐坏丘北陵)—応神王朝最後の天皇で『日本書紀』に悪行の暴君として記されている。泊瀬列城宮に即位して治世8年で没したという。幕末まで平野3号墳が充てられていたが、明治22年にこの地に治定。

(3) 志都美神社—式内社。祭神=天児屋根命・誉田別命・中筒男命。弘仁四年(813)創祀
と伝えるも沿革不明。古くは鹿葦津姫命を祀ったという。この地に清水の湧く井戸が多いので清水社と呼ばれたという。社殿背後に命じ12年のコレラ大流行の際、氏子の中から一人の患者も出なかった神徳を感謝する碑が残る。

(4) 顕宗天皇陵(傍丘磐坏丘南陵)—雄略天皇に射殺された磐坂市辺押磐皇子の二人の王子の兄・億計王(おけ)が弟の弘計王(をけ)に皇位を譲り、弟が顕宗天皇となった。在位2年余りで没。そのあと、兄の億計が即位して仁賢天皇となり、武烈天皇は、その子。なお、位を譲り合っている約10ヶ月は余飯豊青皇女が政治を見たという。幕末まで平野塚穴山古墳があてられていた。

参考ホームページ
http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=(2)%B8%B2%BD%A1%A1%A6%C9%F0%CE%F5%CE%BE%CE%CD%A4%CE%A4%B3%A4%C8


歴史番外編 No36 平野古墳群 [歴史番外編]

江戸時代絵図からこの地域に少なくとも6基の古墳があったと見られるが、内1基は村の中にあって早く消滅。2基(3・4号墳)も近年の宅地造成で消滅した。1号・2号墳には横穴式石室、塚穴山・3号墳は横口式石槨があり、7世紀代の築造で形式の年次は上記の順と思われる。幕末までは天皇陵か、それに準ずるものとされていたが、最近では敏達天皇の王系、茅渟王一族の墓域と考える説が有力。
(1) 平野塚穴山古墳(国史跡) 古くから開口していて、幕末まで顕宗天皇陵と見なされていた。明治22年に現在の顕宗陵が治定。昭和47年に石槨内が盗掘されたので発掘調査実施。墳丘は一部削られているが、一辺約18m・高さ約4mの方形墳と推定される。その中央に石槨が南面、全長4.47m。玄室は床面に長方形の切石を敷きつめ、側面に二上山産の凝灰岩の壁が垂直に立つ。奥壁1、両壁各2、天井石2を高度な技術で精巧に組み合わせて造られている。
玄室長さ3.15m、幅1.5m、高さ1.76mで石槨長・玄室長・幅の比率が3・2・1となっている。漆塗籠棺(交紵棺)片・金環・中空中玉片・歯片などを検出。7世紀後半。茅渟王(ちぬおう・皇極、孝徳両天皇の父。押坂彦大兄皇子の子)を被葬者と見る説が有力で、牧野古墳・尼寺廃寺との関係も考えられる。「延喜諸陵」には片岡葦田墓とある。
次のホームページは、香芝市のホームページと思いますが、郷土史研究家 小泉俊夫 氏(故人)の書籍をWEB上で公開したとあります。平野古墳に関する資料が豊富です。このようなホームページが増えますと、素人の私には大いに助かります 平野塚穴山古墳とその被葬者像 (1)平野塚穴山古墳とその被葬者像 http://kashiba-city.net/wiki/wiki.cgi/sekki?page=(1)%CA%BF%CC%EE%C4%CD%B7%EA%BB%B3%B8%C5%CA%AF%A4%C8%A4%BD%A4%CE%C8%EF%C1%F2%BC%D4%C1%FC -- (2) 平野1号墳(車塚古墳) 以前は方墳と見られていたが、平成11年の測量調査で復元推定、直径24~26mの円墳と推定される。横穴式石室が南に開口、石室残存全長約9.2m、高さ2m。側壁は面の整った花崗岩巨石を横位に二段積み、奥壁は幅広の一枚巨岩上に左右各1石を積み上げ、天井石2.羨道は長さ5.7m、幅1.8m、土の流入があるが、高さ1.5mくらい。この古墳群中、最も古く、7世紀前半の築造。
(3) 平野2号墳 円墳。従来内部状況は全く不明であったが、平成11~13年に発掘調査を実施。墳丘は径約26m、高さ約6.5m。南西方向に開口する横穴式石室が判明、残存。長さ約約10.6m。玄室長さ約3.8m、幅2.5m、高さ2.2m。両側壁とも花崗岩巨石3枚を縦位垂直に立て、奥壁は巨石2段積み、天井石2.玄室内全面に二上山の凝灰岩切り石を敷きつめた痕跡。玄室床面中央部に棺台基礎を検出。
中・近世の盗掘でめぼしい出土品はない。1号墳の西約20mにあり、石室の構築の似ている点で計画的に築造された双墓と見られている。


歴史番外編 No35 尼寺廃寺跡 [歴史番外編]

以前から古瓦が出、古い土壇が残っていて注目されていたが、平成三年度から13次に及ぶ発掘調査が行われて、7世紀半ばごろの建立と見られる。
東面する法隆寺式伽藍配置(http://hikaritokage.hp.infoseek.co.jp/toba2004/ninji91.jpg )
を持つ寺院跡が判明。平成14年に史跡に指定された。塔、食堂、回廊の跡はわかったが、講堂・中門・東門等の跡はまだ明らかでない。目下この一画の民家・耕地の立ち退きが終わり、香芝市が史跡整備を進めている。
(1) 塔跡 塔の基壇(現状、南北11.2m、東西9.6m、高さ1.4m)が唯一残るが周囲が削られていて本来はもう一回り大きかったと見られる。
発掘調査の結果、基壇から13個の礎石(心礎1、四天柱礎4、側柱礎8)を検出。側柱礎は12あったが、4欠。心礎は1.2m低くあり、一辺3.8mのほぼ正方形。中心に心柱の柱座を穿ち、その四隅に添柱穴4個を彫り込む。柱座の底には心柱の腐食防止用に約5cmの厚さで炭が敷き詰められ、その炭の上から金の耳環12・水晶玉4・ガラス玉3・刀子1の舎利荘厳具が出土。
塔跡から耳環が出たのは、飛鳥寺・四天王寺・定林寺・中宮寺に次ぎ、5例目。
柱座から推定される心柱は直径約76cmの丸柱、添柱は直径24~26cmくらいの大きさ。
  塔心礎の大きさでは日本最大級のもので、この形は法隆寺若草伽藍のそれと同形式。
  礎石から推定される塔の規模は初層一辺の長さ7.08cm(3間×3間)
(2) 食堂跡 基壇は削平されて耕地になっていたので明らかでないが、塔の中軸線に狭い発掘調査をした結果、雨落ちバラスの検出から食堂跡が推定され、南北16.23m、東西13.57
m、の建物とわかり、当初四天王寺式の南向きかと思われていたのが、東向きと判明。また、出土瓦から見て680~690ごろの造営と見られる。
なお、西側に焼け落ちた瓦が堆積しており、創建時の瓦で焼失しているので、焼失は平安前期(9~10世紀)か。
(3) 回廊跡 回廊は塔と食堂の周囲を取囲み講堂(未調査)と直接つながっていないようす。東西44.84m、南北77.39m、幅3.54mと推定される。出土した瓦が食堂のものより新しいので、食堂完成後の建設らしい。

以上、出土瓦の様式や使用された建築用尺度から見て、まず塔が建設され(650~660)、次に、食堂、少し遅れて回廊が整備されたらしい。平安時代の瓦が出ていないので、焼失後の再建はなかったらしいと考えられる。創建者については、聖徳太子の一族か、敏達天皇系の一族か。二説あるが、後者の説の方が有力視されている。

大和尼寺廃寺(尼寺北廃寺) 参考ホームページ
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ninjihaiji.htm


歴史番外編 No34 永福寺 [歴史番外編]

所在地、北葛城郡 王寺町 畠田7-1443  浄土宗。
行基の開基と伝えるが不詳。本尊釈迦如来坐像(寄木造、像高104.6cm。平安後期。後補)
慶安二年(1649)正波の中興。
地蔵菩薩立像は、別名子育地蔵とも呼ばれている。(像高96.2cm)は10世紀の平安中期の作とみえるが後補。
境内の凝灰岩製七重塔は総高3m。平安後期か鎌倉の作と見られるが風触破損著しく笠石は原型をとどめない。
江戸時代の伊勢参りが盛んになったころ、河内国分から名神山を超えて畠田へ出る道を送迎道(ひるめみち)といって往来が多かった。その道筋にあたる。観音堂前の石塔(元禄四年1691銘)に「ヒルメ村中」の造立と刻まれている。

 「明神山」には、立ち寄りませんでしたが、頂上には、太神宮として1830年(大日霊女尊(おおひるめノみこと)を祀り、四国阿波(徳島県)方面からも多くの人がお参りされ、大いに賑わい、昔は参道にナツメ茶屋やシンコ茶屋、オーコ茶屋などがあったそうです。書かれたものはどんどん失われていきますが、このようなところに歴史が刻み込まれていますから、石碑を見つけてください。


歴史番外編 No33 親殿神社、火幡神社、畠田古墳 [歴史番外編]

親殿神社-- 祭神=天児屋根・比売神・経津神・武雷神。
この地の豪族・片岡弥五郎道春が、天文年間(1532~1535)に春日若宮から分祀して、守神として祭ると伝える。摂社に高倉大明神を祀る。拝殿には、天保十年(1829)の武者絵や、嘉永二年(1849)の平敦盛と熊谷直実の図がある。

火幡神社—式内大社。祭神=天児屋根・息長帯比売命(神功皇后)・誉田別命(応神天皇)・玉依姫命・天照皇太神。社伝では、祭神はもと火之戸幡姫命とする。創祀沿革は不明。
参考ホームページ http://kamnavi.jp/as/katuragi/hohata.htm

畠田古墳-- 円墳。径15m、高さ4m(元は5m以上か) 平成9年に発掘調査され、その後整備し公園化。横穴式石室が南に開口。全長9m。玄室長さ3.2m。幅2.0m。高さ2.3m。
 奥へ向かって左側壁石に中世か近世の神像の彫ったのがある。
羨道長さ2.7m、玄門幅1.2m・羨門幅1.0m。天井石なし。墳丘の背後に幅3m、深さ0.2mの馬蹄形の堀があった。埋葬者は二人と思われる。
玄室から須恵器の杯蓋(つきふた)と高杯、鉄鏃(てつぞく)、金環、刀装具、ガラス小玉などが出土し、出土した金環3点のうちの2点は1セットで銅芯金張りの品。
参考ホームページ http://www9.ocn.ne.jp/~oji-syo/hatakedakohun.html


歴史番外編 No32孝霊天皇陵(片岡馬坂陵) [歴史番外編]

記紀には、黒田の廬戸宮を都にしたことが書かれています。黒田とは、奈良県田原本
町黒田のことです。孝霊天皇陵は、放光寺の少し南西の小高いところにあります。都のあった黒田からですと、10km弱でしょうか? 離れています。黒田から東に行きますと、崇神天皇の御陵があります。御陵が本当に崇神天皇のものかどうか分からないと言えば、それまでですが、その隣は景行天皇の御陵です。この地に孝霊天皇陵を作ろうと思えば、造れたはずです。このように考えますと、記紀に書かれていることの他に、新しい発見ができるかもしれません。                               
次のホームページにきれいな写真と古事記の孝霊天皇の原文と訳文があります。
http://inoues.net/tenno/kourei_tenno.html

先代の孝安天皇の都は、橿原市と御所市周辺です。ここから、黒田までは8kmでしょうか? 天皇が変わるたびに都を変えたのでしょうか? 孝安天皇の御陵は、御所市玉手にありますから、孝安天皇の御陵は都の近くにつくられました。孝霊天皇陵も近くに造られてもいいはずです。                                             
この頃は、天皇家の勢力範囲でなかったことになります。崇神天皇の御陵と黒田の間に、唐古・鍵遺跡(http://inoues.net/ruins/karakokagi.html )があります。この遺跡は、佐賀県の吉野ケ里遺跡と同じぐらいの大きさです。この遺跡の特徴は、吉野ケ里遺跡と同様に、環濠で囲まれていることです。きっと、攻められたくなかったと思われます。大阪府和泉市の池上曽根遺跡も同じだと思います。神武天皇は、記紀には書いてありませんが、池上曽根遺跡の前を和歌山の方へ、移動しましたから、この遺跡も敵の拠点でしたから、叩いたのではないでしょうか? 唐古・鍵遺跡は敵の勢力が強くて、黒田への進出がやっとであったと思います。
このようなことを書いていますと、切りがありませんが、田原本町黒田の近くに、島の山古墳があります。奈良盆地の中央部、磯城郡川西町大字唐院にあります。
発掘されたときの資料(http://www.kashikoken.jp/from-site/sima.htm )によりますと、4世紀末の築造とあります。ということは、この頃でも、敵の勢力圏であるこれが正しいとしますと、その北にある片岡に御陵を造ったことになり、片岡馬坂陵は孝霊天皇のものでないことになります。
 しかし、片岡馬坂陵のことは、古事記にも日本書紀にも書かれていることです。両方にかかれていることは、正しいと考えていいと思います。また、片岡という地名は、考察していませんが、王寺のところの「片岡」でいいのではないでしょうか? この様に考えますと、島の山古墳は、天皇家の墓ではないのではという気がしてきます。また、4世紀末の築造ではなくて、200年ほど、遡るのではと思えてきます。
「新しい日本の歴史 No371 邑久郡の古墳」において、この古墳の北にある膨大な馬見古墳群は天皇家の古墳と書きましたが、天皇の敵の古墳であったことになります。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c140799 (No371 邑久郡の古墳)

この記事を書いたときは、邑久郡古墳と島の山古墳は関係があるなと考えていました。
文章があちこちに飛んでわかりにくいと思いますが、孝霊天皇陵を訪れましても、ぼんやり、眺めていては、他の御陵とあまり変わりません。これまでに書いてきました達磨寺・片岡王寺との関連も考えながら、歩きますと2000年前にタイムスリップできます。仮に私の推理が間違っていても、楽しい旅行ができます。
ただ、神武天皇は、BC50年ぐらいの人、孝霊天皇はAD100年ぐらいの人、崇神天皇はAD190年頃の人などと思わないと理解できないと思います。


歴史番外編No31 片岡王寺跡 [歴史番外編]

片岡神社の南に位置する。現在王寺小学校の校舎のある位置に、明治二十年頃まで寺院建築の基壇跡や礎石等が残っていたと伝えられ、地籍図や地形から、南向きの四天王寺式伽藍配置の古代寺院があったと見られている。
 法隆寺蔵の「金銅・僧徳聡等造像記」に「甲午年(持統八年694)」、「片罡王寺」と記され、「法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳」(天平十八年746)には、推古六年(598)に聖徳太子が播磨国から布施された水田を法隆寺、中宮寺、片岡僧寺の三か所へ分賜の旨記事が見えるので、それに相当すると思われる。後年、正安四年(1302)に審盛の著した『放光寺古今縁起』(現存は嘉永三年1443実誉筆写本)によると塔・金堂・講堂の他にも、回廊・門・経蔵・鐘楼・僧坊・倉など数多くの建物があったが、平安時代の永承元(1046)年に雷火で金堂・回廊・東中門・南大門が焼失したとある。また、永保年中(1081~1084)に塔も朽損して三重に縮小したという。
 中世にも再興は進められたようだが、戦国の元亀三年(1572)に松永久秀の兵火で再び全焼し衰退する。
 江戸時代に現放光寺が禅寺として再興。飛鳥・白鳳・天平期の瓦が出土しているが、旧寺域全般の調査は行えていない。平成17年国道168号の拡幅工事に伴い小学校運動場東側の発掘調査を実施。中央伽藍を取り囲むと見られる遺構の一部が確認され、同じ軒瓦や鬼瓦が出土した。現在の「王寺」という地名はこの「片岡王寺」による。

小学校の運動場の南の位置に、国道168号線を跨ぐ歩道橋があります。この上に乗って眺めますと、片岡神社・達磨寺を一望できこの辺りの様子を理解しやすいです。
2005年1月20日の王寺町の記者向け資料は次の通りです。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2004/kataokaoji/kataokaoji.html


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