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歴史各論  勾玉(37)  勾玉製造元(26)ヒスイ製勾玉(16) 天神山古墳(8) [日本大好き]

このページは、以前に掲載しました。タイトルをすべて、指定して検索しますと、表示されるのですが、そのタイトルをクリックしても、表示できません。

改めて、ここに掲載しましたが、やはり、見ることはできません。
どうやら、書いてあることが、良くないらしくて、消されているようですが、読み返してみましたが、別に、間違ったことは書いていないつもりですが、やはり、拙いのでしょう。

暫くしましたら、消去するつもりです。

以下は、本文です。


前回、189年 中国では、一年で中平(185年 - 189年)光熹(189年)昭寧(189年)と3回元号が変わっています。
 日本と同じぐらい、人民が死んだと思われますが、調べていません。

 この頃は、崇神の御世ですが、九州をはじめ、島根、岡山、京都、奈良と殆ど、中国人によって、制覇されていたように思います。瀬戸内海も中国人が支配していたのではないかと想像しています。
 それほど、中国人があふれるほど、日本へやって来たのは、一番に、日本中の絹を吉野ヶ里へ運び、中国、インド、そして、ヨーロッパに運んでいたと想像しています。
 想像ばかりですが、一々、書くほどの事でもないほどに、当たり前の事だったのだろうと思っています。
 189年の伝染病も大きな要因になったと思われますが、もう一つ多くの人が死ぬ事件があったと考えています。
 崇神天皇のときの事件と云いますと、日本書紀に書いてある四道将軍です。『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。同時に、4方向に向けて、北陸、東海、西道、丹波に派遣されて、一年で、征伐したことになっています。こんな馬鹿げたことは ありませんから、崇神天皇の神話の人と云われる方もありますが、古事記でも、記されていますから、このころは、激動の時代だったと思われます。
 この後に、皇族の一人である建波邇安王が反乱を起こしたことが、古事記に書いてあります。 古事記では極簡単に勝負がついたように書いてありますが、内輪モメのようなことですから、簡単に書いてありますが、多くの人が死んだのではないかと思っています。
 
 天照大御神と速須佐男命がウケヒと称するカケを行った時に現れた男神の一人が天津日子根命です。 この神は、河内、山城、播磨の三木郡、周防、上総望多郡等の国造の祖先と古事記で、警告した高句麗人です。この中の河内の国造の青玉が、孝元天皇に女・波邇夜須比売を嫁がせて生まれた皇子が、建波邇夜須毘古です。
 ただ、天皇の正規軍を攻撃するには、無謀にも思えますが、此の時、大毘古命が北陸道の賊を征伐しようとしていましたから、援護の意味もあったのではないかと思います。
 建波邇夜須毘古が、山城町で先制攻撃を掛け、同時に、妻の青玉が、河内から、戦に参加しましたことになります。日本書紀では、そのように書いています。
 
 建波邇夜須毘古は殺されて山城町の椿井大塚山古墳に葬られたのではないでしょうか。
この山城町の旧地名は高麗村です。ですから、高句麗人が住んでいたと思われます。
 速須佐男命は、高句麗人で伯耆の高麗村に住んで唐王と称していました。
 関東の秩父の絹は、173年に任那に倭人の軍事基地ができるまでは漢軍が軍隊を北陸道や東海道に配備して筑紫の吉野ケ里迄運んでいました。
 任那に倭人の基地ができて本国と吉野ヶ里の補給路が遮断されると漢軍は食糧や銅鏡の本国からの入手が不可能等になりました。官軍は、各地の山城に籠城して本国からの救援軍の渡来を待ちました。しかし、救援軍はついに来ないで全員が殺されました。

 高句麗人は、倭人に怪しまれずに絹の運搬ができます。吉野ヶ里は、高句麗人の起用を計画して建波邇夜須毘古に絹の集荷を依頼し、邪魔されることを防ぐために、妻と連携を取ってヤマトを攻撃しましたが、大毘古命に殺されました。
 妻は、天理市の黒塚古墳に葬られたのではないでしょうか。椿井大塚山古墳と黒塚古墳は、銅鏡は、同じ数の32面ですから、椿井大塚山古墳の後に、黒塚古墳に青玉は葬られたのではないでしょうか。
 天神山古墳の方は、椿井大塚山古墳より古い様に思われます。
 この事件の前に、孝霊天皇を殺すために、漢軍はヤマトにやってきましたが、孝霊天皇は、奈良にはいなくて、失敗でした。
逆に、孝霊天皇によって、吉備で征伐されています。このときの武将が、数名、同時に
 天神山古墳に葬られたのではないでしょうか。

この頃のことを山代も漢人の拠点
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1195.html
に書いています。

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これからの日本(98) 歴史を知らない日本人(365) 如何にして戦うか(310) 特別警報(13) [日本大好き]

 10月としては全国で初の猛暑日
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/t_yoshida/2013/10/09/1791.html
2013年10月9日 14時30分
新潟県糸魚川市は午後1時53分に気温が35度1分に達し、10月としては全国で統計開始以来初めて猛暑日となりました。台風から変わった低気圧が暖かく湿った空気をもたらし、全国的に気温が上昇しています。特に北陸を中心に気温が上がり、真夏のような暑さとなっています。

全国初の猛暑日、明日も季節外れの暑さ続く
http://www.tenki.jp/forecaster/diary/t_yoshida/2013/10/09/1801.html

50年に一度のかってない猛暑の原因が
台風から変わった低気圧が暖かく湿った空気をもたらし、全国的に気温が上昇しています」の説明で皆さん納得されるのでしょうか。
 
本当に、温暖化の所為でしたら、止めることは出来ないでしょう。温暖化の原因は、化石燃料の使いすぎだと云われていますが、それが本当のことであるとは、誰れも断言できない筈です。
 
 今年一年続いた猛暑と寒冷がHAARPによるものであれば、中止して貰うように交渉出来ると思います。
 政府は、その対策を次々行っているように思えるのですが、そんな甘ちょろいものではダメだという事でしょうか。

 安倍首相は、政府の一員として、次のお四人を起用されました。
竹中平蔵「アベノミクスは100%正しい」
http://toyokeizai.net/articles/-/15884
竹中平蔵(たけなか・へいぞう) 慶応義塾大学教授 グローバルセキュリティ研究所所長 1951年生まれ。一橋大学卒業後、日本開発銀行、大蔵省主任研究官、ハーバード大学客員准教授などを経て現職。2001~2006年、小泉内閣において 経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などを歴任。ワールド・エコノミック・フォーラムのファウンデーション理事会メンバー。アカデミーヒルズ理事長、公益社団法人日本経済研究センター研究顧問、(株)パソナ取締役会長、(財)森記念財団都市戦略研究所長などを兼務。経済学博士。
 
この方は経歴にある様に、小泉内閣において 経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、郵政民営化担当大臣、総務大臣などを歴任。
 
フリーメーソンの為に、働いた内閣だと泉パウロ氏は著書に書いて居られます。小泉氏は反論しておられませんから、そうなのでしようと、単純な私は考えてしまいます。

小泉純一郎元首相「原発推進は無責任」発言【争点:エネルギー】
http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/01/junichiro_koizumi_n_4025908.html
 この記事は10月10日のものですが、発言は、10月1日です。

 これは、小泉純一郎が勝手に発言しているように見えていますが、現在の政府と真っ向から反対の意見を堂々と、元首相が発言するという不思議なことが起こっています。
 
 これと同じパターンのことがありました。元鳩山首相が、中国へ行って、好きなことを発言しました。
 これは、フリーメーソン流の芝居で、世の中の人を攪乱するための芝居と考えませんと、こちらの頭がおかしくなります。

復興庁、新体制で加速化図る 小泉氏、本庁総括業務担当
http://www.minyu-net.com/news/topic/131002/topic3.html
 
この記事の日付は、10月2日ですが、決定したのは、10月1日の前の段階でしょう。
それが分った時点で、父親の小泉純一郎元首相が動き出したことになります。
 新任の小泉進次郎政務官は、東日本大震災事業者再生支援機構の業務を除く本庁総括業務などを担当する。従いまして、福島発電所はこの人の思いのままになります。

堺屋太一氏「成長戦略」担当で内閣参与に 安倍政権が「維新ブレーン」起用の「なぜ」http://www.j-cast.com/2013/08/08181175.html?p=all
2013/8/ 8 19:26
政府は2013年8月8日、作家で経済評論家の堺屋太一10+ 件氏(78)を内閣官房参与に起用すると発表し、同日、安倍晋三首相が辞令を交付した。堺屋氏と言えば、日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)のブレーンとして知られた存在で、今回の起用を通じて安倍政権と維新の会との「橋渡し役」を期待されているとの見方も出ている。 堺屋氏は旧通産省(現経産省)で、官僚時代は日本万国博覧会(1970年)を手がけて成功に導いたことが有名だ。小渕恵三内閣では民間人枠から経済企画庁長官としても知られている。  前回紹介しましたフリーメーソンのグループに、小渕恵三内閣は入っていたのではないかと記憶します。違いましたか。 ボが始っているのに、こんなややこしい話は疲れますね。

 安倍氏は、上記の4人も内閣に取り込んだのですから、フリーメイソンは日本に対する攻撃を緩めても良い様に思うのですが、ゆるめません
 
 仕方がないから、TPPを譲歩するような案が報じられています。
 こんな調子では、猛暑は今月一杯続くでしょう。


アメリカの債務不履行が報じられています。
http://matome.naver.jp/odai/2138101691064729001
 私には、意味が分りませんが、アメリカ議会で、芝居をしているのではないでしょうか。

 もし、債務不履行になれば、日本が買っている米債は、どうなるのでしょう。
そうならないように、日本は、もっと、アメリカに協力せよとの脅しでしょうか。

歴史各論  勾玉(55)  勾玉製造元(44)ヒスイ製勾玉(34) 車輸石 鍬形石 石釧 [日本大好き]

前回、車輸石 鍬形石 石釧を埋葬していた人達とヒスイ製の勾玉を埋葬した人達は、どちらが古い人たち化を書いて見ますとかいたものの、これは少し、無謀だなと感じていましたが、難しいですね。
 でも、違うグループの人たちですし、どちらが古い人達かは、いつかは、解明しなければいけないと思っています。
 少しずつ、挑戦しようかと思います。
 
先ず、車輸石 鍬形石 石釧を沢山持っていたひとのグループです。
 http://www21.atpages.jp/skeikas/page179.html
この中で、特別な古墳は、沖出古墳 嘉穂郡稲築町大字漆生字才木です。九州では、車輸石 鍬形石 石釧がそろっている古墳は、今の處、沖出古墳だけです。全国に沢山有るのですから、沖出古墳が一番古いと仮定しますと、外にも、九州にいっぱいあって、その後、日本各地に広まったことになります。しかし、沖出古墳が一件だとなりますと、逆で、
島の山古墳やメスリ山古墳が、沢山の石釧を出土していますから、こちらから車輸石 鍬形石 石釧を受け取ったと考えるほうが無理がありません。

一方、車輸石 鍬形石 石釧は出土しないが、ヒスイ製勾玉を埋葬した人達は、断然、九州の人が多くて、環濠集落の人達ということになります。
 環濠集落の人たちは、遺跡が巨大です。しかも、敵から責められないように、何重にも濠を作りました。どうして、攻められるのかといいますと、普通は、この頃ですと、金銀鉄製品を持っていたとか、食糧を一杯保管していたことになります。
 「唐古・鍵遺跡」 http://inoues.net/museum/karako_museum2.html では、宝石がいっぱいあったように書いてあります。
 〔弥生の宝石箱と書いておられますが、宝石が保管してあったのではなく、絹の取引をする所であったと考えています。
 吉野ヶ里遺跡では、稲作をしていた証拠がありませんし、稲作をしていても、それを保管しておく、倉庫の跡は、少ないように思います。どちらかといいます、集落の外に倉庫があるような気がします。
 大阪の池上・曽根遺跡は、環濠が浅すぎるように思います。
 これらの環濠集落は、すべて、紀元前からあり、次第に大きくなったのではないでしょうか。
 
 従いまして、年代を較べようがないように思います。
 しかし、それでは、いつまでたっても、どの古墳も、全部、4世紀から6世紀の築造と謂うことになります。
 
 少しずつ考えて見ようと思います。
 ヒスイ製勾玉を持っていた人たちのグループは、
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html の人たちです。ここでは、環濠集落の人たちに目を向けましたが、〔丸隈山古墳〕を調べて見ます。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E9%9A%88%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 ここには、次の資料ぐらいしかありません。敢えて言いますと、九州の前方後円墳にしては、全長84.6mで大きいです。

全長84.6m、後円部の直径60m、前方部25m。5世紀前半の首長級の墳墓と推定されている。
玄武岩で作られた横穴式石室と内部の石棺は無料公開されている。国の史跡に指定されている古墳のうち、見学者が石棺を直接見ることができる数少ないものの1つである。

大きい前方後円墳は、古い様に思うのですが、横穴式石室とありますから、ここに書いてある通り、5世紀前半の首長級の墳墓で正しいのかも知れません。丸隈山古墳だけではなく、他の古墳も目を通す必要はありそうです。
 
石室 写真 http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/markuma.htm があります。板石を積み重ねたものです。これは、朝鮮半島の人のお墓に多い様な気がします。


体調が悪くなり、考えることも、コンピューターに入力することも、出来なくなりました。しばらく、考えることをやめようと思います。 できるようになりましたら、少しずつ書いてみるつもりです。その時は、又、よろしくお願いします。 

歴史各論  勾玉(54)  勾玉製造元(43)ヒスイ製勾玉(33) 車輸石 鍬形石 石釧 [日本大好き]

勾玉の事を調べますと、全国にある膨大な、しかも大型の前方後円墳が、どうして出来たかを知ることが出来るのではないかと、タイトルに歴史各論  勾玉(54) と書き始めまして、54回目になります。
 ガラス製勾玉が出土した古墳を書きならべましたら、
http://www21.atpages.jp/skeikas/page174.html

勾玉の鋳型が、出土しましたから、こうした古墳は、仲間であることが判ります。全体では、
ヒスイ製勾玉が多いので、別に、一覧表を作りました。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html

見事に、環濠遺跡が浮上しました。これらの遺跡は、すべて、中国人のものだと考えています。
 毎日、ヒスイ製勾玉ばかりを追いかけていましたら、勾玉が出土しない古墳が気になり出しました。この一覧表も作りました。

 勾玉が出土しなかった古墳 
http://www21.atpages.jp/skeikas/page178.html

まだ6つしか資料はありませんが、④西殿塚古墳---手白香皇女衾田陵を除きますと、沢山、三角縁神獣鏡が出土した古墳の名前が、並びました。
①椿井大塚山古墳
②黒塚古墳
③大和天神山古墳
 この3つの古墳は、備前の湯迫車塚古墳と関係があった古墳です。

上の3つよりも気になったのが、⑤櫛山古墳です。 勾玉が出土しませんでしたが、
石釧107、車輪石105、鍬形石23 が大量に出土しています。

そこで、車輸石 鍬形石 石釧 が出土した古墳の一覧表を作りました。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page179.html

①島の山古墳を見た途端に、
No368 邑久郡の古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-25 のことを思い出しました。 牛窓の古墳を見に行き、次は、丸山古墳へ行こうと、準備をしていたことを書いています。
 丸山古墳や天神山古墳は、中国人の古墳だなと考えていました。
 でも、体力がありませんから、もう行くことはできません。

車輸石 鍬形石 石釧を一杯ため込んだ人と、ヒスイ製勾玉をため込んだ人は、中国人でも、仲間ではなかったのだなと思っています。

次回は、車輸石 鍬形石 石釧 を溜めた人と、ヒスイ製勾玉を持っていた人と、どちらが古い人かを考えて見ようと思います。

歴史各論  勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉(32) 阿蘇・凝灰岩 [日本大好き]

このシリーズは、歴史各論にしています。日本史の全体の流れを見るのではなく、勾玉のことを調べますと、勾玉から見た歴史が判るはずだと始めました。

 三種の神器という言葉があります。ウィキペディアに拠りますと、三種の神器とは、
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたという鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。
 上のことに加えて、次の様に書いてあります。
 天皇の践祚に際し、この神器の内、鏡と剣の形代及び勾玉を所持することが皇室の正統たる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。
 鏡は、天皇に限らず、女性が結婚されるときには、持参されたと考えていました。しかるに、天皇家のお墓には、勾玉は出土するのは普通と考えていいのではと考えました。
 
 ところが、変な事になりました。勾玉の材料は、石、ガラス、硬玉、ヒスイなどがありますが、最も手に入りにくいと思われるヒスイ製勾玉が出土したのは、 次の所を見て頂きますと、判りますが、九州の古墳から出土しています。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.htmlしかも、中国人と思われる墳墓ばかりです。では、ヒスイは中国で産するのかと云いますと、中国で産するヒスイは、軟玉だそうです。
ヒスイの産出地は世界的にも限られており、安定した量の硬玉の産出地はミャンマーのみである。(ウィキペディアより)
 日本では、 新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町などとあります。主には、新潟県糸魚川市姫川流域だそうです。
古墳からヒスイ製勾玉が出土しただけではなく、主な環濠遺跡から出土していることも判りました。これらの環濠遺跡は、すべて、中国人の遺跡だと考えています。
 九州の人が、わざわざ、糸魚川まで、勾玉を買いに行ったのではなく、環濠遺跡は、関東からの絹を中国まで運ぶ重要な拠点だったと考えています。
 此処までは、勾玉を調べることによって、日本の歴史を眺めることは出来たのですが、天皇家と勾玉が結びつくのではなく、勾玉は、鏡と同様に、中国人から切り離すことのできないものであることが判りました。
 ところが、九州の中国人の人たちは、どうやら、出雲と吉備に移動していたことが判りました。
 その大将が、造山古墳の被葬者であったらしいことや、湯迫車塚古墳の被葬者は、自分たちの家来を京都や奈良に入植させていました。古墳の名前で云いますと、天神山古墳や椿井大塚山古墳の人たちは、湯迫車塚古墳の被葬者から、鏡を貰っていました。
 余りにも多い古墳を眺めるうちに、石棺を造るのに、わざわざ、阿蘇・凝灰岩を運んでいた人がいたことが判りました。
 阿蘇石 (凝灰岩) http://www21.atpages.jp/skeikas/page105.htmlをご覧ください。見事に、阿蘇石 (凝灰岩)を使って、石棺を造った人達が浮かび上りました。
家形石棺の写真が次にあります。
http://www2.tok2.com/home/sekisitu/iegata.htm家形石棺は、桁違いに大型の石棺ですから、古墳の建設は、大変だったと思います。だから、新しいタイプとは言えないですが、岡山や奈良、大阪までやって来ても近くの石を使うことが出来なかったとしますと、やって来てまだ、勢力がなかったと考えるしかないと思われます。
⑦より後は、家形石棺です。⑦は、植山古墳と云われています。
http://inoues.net/ruins/suiko_new.htmlです。

 この古墳は、推古天皇と竹田皇子の墓とされています。そうなりますと、おかしいですね。推古天皇は、九州出身の人か、どうしても、石棺は、阿蘇石 (凝灰岩)を使ってほしいと遺言しておいたことになります。
タイトルの勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉 の部分は、影が薄くなりましたが、
阿蘇石 (凝灰岩)を使っている古墳は、全部、丁寧に考察する必要がありそうです。

歴史各論  勾玉(52)  勾玉製造元(41)ヒスイ製勾玉(31) 造山古墳(6) [日本大好き]

造山古墳の被葬者が吉備で活躍していた時は、一番力があった時と考えるのは簡単ですが、どれぐらい時間がかかったのでしょう。
 九州から、やって来た人たちは、多かったことは、現在残されている古墳の数を見れば分ります。 
  岡山県にある古墳をもう一度、書き出してみます。
 
 ①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
 ②八幡大塚2号墳       竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
 ③青陵(青ばか)古墳    花崗岩製の石棺
 ④宗形神社古墳       箱式石棺
 ⑤石舟塚古墳   横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
 ⑥造山古墳    阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm 
 ⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
 ⑧箭田大塚古墳
 ⑨千朱駄古墳   竜山石  長持形石棺
 ⑩唐人塚古墳   竜山石  家形刳り抜き
 ⑪王墓山古墳   家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
 ⑫大塚古墳群   箱式石棺二基あり。
 ⑬宮山西塚    竜山石  家形刳り抜き      岡山市百枝月
 ⑭石塔塚     浪形石  家形刳り抜き
 ⑮小山古墳    九州阿蘇 舟形刳り抜き
http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/42/44/69/67/68.html

  http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page368.html
 ⑯正仙塚     竜山石  長持ち形、縄掛け突起なし  美作・高野
 ⑰花光寺山古墳   凝灰岩  長持ち形        長船町
 ⑱天神山古墳    不明               備前市新庄
 ⑲丸山古墳     讃岐火山岩  特殊家形      備前畠田
 ⑳築山古墳     二上山ピンク石  家形刳り抜き  長船町

石室の形式から判断しますと、横穴式は、新しいことになります。しかし、上の一覧表では、竪穴式とか横穴式は分りません。石棺の形から見ますと、舟形刳り抜き、長持ち形、
家形刳り抜きの順で、新しくなっていきます。
石棺の材料からの判断では、阿蘇凝灰岩製が、古いことになります。
 阿蘇石(凝灰岩)が使われている古墳の一覧表を作成しました。全部でないので、判断の材料にするには無理がありますが、傾向は分ります。
  http://www21.atpages.jp/skeikas/page105.html
①舟形石棺のあるのは、九州と四国です。
②静岡県の三池平古墳は、これまでに見つけた中では、一番遠くまで阿蘇石が運ばれたことになります。 
③家形石棺は、大阪と奈良に多いです。
④京都は、八幡茶臼山古墳 だけですが、3本の大きな川が集る山崎ですから、この重要な所も、早い頃から、吉備に次いで、重要なとこだった思います。すなわち、山城は全部中国人の手に落ちたと思います。
 奈良は、天皇家にとっては、危険で住んではおれなかったと負います。
 八幡茶臼山古墳は、竪穴式古墳、舟形式石棺とされていますから、古い時代のものと思うのですが、和同開珎の貨幣が、出土しています。和銅元年は西暦708年ですから、古墳は八世紀と云うことになります。

 八幡市の古墳 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page810.html
茶臼山古墳、西車塚古墳、東車塚古墳、石不動古墳 を眺めますと、鏡が出土していますから、すべて、中国人のお墓ですが、車輪石・石釧か出土していますから、勾玉を好んだ人たちと違うグループではないかと推理しています。

歴史各論  勾玉(51)  勾玉製造元(40)ヒスイ製勾玉(30) 造山古墳(5) [日本大好き]

田村誠一氏は、造山古墳のことを次の様に書いておられます。
戦争が起これば、文化は衰退の一途を辿るのが世界の常識です。中国も紀元前には、殷や中山王国には素晴らしい文化がありました。しかし秦の始皇帝以後は戦争に明け暮れて独自の文化は無くて、外国から略奪した文化遺産だけです。
 漢が進駐して来た時、一番最初に戦死した将軍は最も豪華な、しかも本国にはない様な古墳に祭られるのが、常識です。戦争が長引けばだんだんお粗末になっていきます。この考え方で吉備の古墳は考えるべきです。
 吉備の最大の古墳は造山古墳で、これが最初に進駐して来た将軍の古墳の筈です。この古墳の石棺は外に投げ出され、これは古墳の主が苗族の敵だった何よりの証拠です。
 更に間壁夫妻著「吉備古代史の未知を解く」でこの石棺の石は九州の阿蘇の石が使用されていたことが、X線解析法で分かりました。これは九州から運んだ人があり、九州からでないと、応急には石が見つからなかったためです。
 従って造山古墳が初代の墓と考えることです。
 この阿蘇の石を使用した石棺が山城国八幡町から見つかりました。ここは崇神の御代に河内の国造の漢族のタケハニヤスが拠点にした、高麗村(山城町)の近くです。この地名からも漢の軍隊は騎馬民族です。前漢が楽浪、玄莵、真番、臨屯を植民地にした以上、ここの騎馬民族を兵隊にさせることが常識です。
 吉備から騎馬民族の遺跡が見つかり、これは漢の軍隊だった証拠です。同時に楽浪等は食糧や武器の補給基地としても必要です。
 
 造山古墳には、6つの陪塚があるので、作山古墳の方が先に造られたのではないかと書きました。どちらが、先にしても、5世紀から6世紀の中ごろにはなりません。
 湯迫車塚古墳は、最後の将軍と書きましたが、この将軍が殺されたのは、190年頃だと思われます。
 次回は、阿蘇の凝灰岩のことを書きます。

歴史各論  勾玉(50)  勾玉製造元(39)ヒスイ製勾玉(29) 造山古墳(4) [日本大好き]

造山古墳はいつ造られたかは、5世紀ではなく、紀元前のこともあり得ますと書きました。
その前に、惣社市の作山古墳のほうが、造山古墳よりも古いと書きました。ただ、それ程確かな理由はありません。造山古墳は6つの陪塚がありましたから、造山古墳の被葬者が、自分より大きい応神天皇などの御陵を参考にしたかなと思っただけです。
 6つの陪塚は、どのようなものかを見ました。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
 仕えていた近親者の墓だと書いてありますが、骨が出たわけでもないし、出土物も多くありませんから、5世紀頃になって、後の世の人が造ったと考えますと、造山古墳がもっとも、早く造られたことにしても、間違いではないように思います。
 どうして、そのように思うかと云いますと、第二次世界大戦時などは、国が戦に勝っている人のお墓は、全て立派です。負けたあとは、それこそ、遺骨すら帰ってきませんでした。
 岡山県にある古墳をもう一度、書き出してみます。
 
 ①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
 ②八幡大塚2号墳       竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
 ③青陵(青ばか)古墳    花崗岩製の石棺
 ④宗形神社古墳       箱式石棺
 ⑤石舟塚古墳   横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
 ⑥造山古墳    阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
 ⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
 ⑧箭田大塚古墳
 ⑨千朱駄古墳   竜山石  長持形石棺
 ⑩唐人塚古墳   竜山石  家形刳り抜き
 ⑪王墓山古墳   家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
 ⑫大塚古墳群   箱式石棺二基あり。
 ⑬宮山西塚    竜山石  家形刳り抜き      岡山市百枝月
 ⑭石塔塚     浪形石  家形刳り抜き
 ⑮小山古墳    九州阿蘇 舟形刳り抜き
http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/42/44/69/67/68.html
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page368.html

 ⑯正仙塚     竜山石  長持ち形、縄掛け突起なし  美作・高野
 ⑰花光寺山古墳   凝灰岩  長持ち形        長船町
 ⑱天神山古墳    不明               備前市新庄
 ⑲丸山古墳     讃岐火山岩  特殊家形      備前畠田
 ⑳築山古墳     二上山ピンク石  家形刳り抜き  長船町

⑮の 小山古墳は、九州の阿蘇となっていますから、ピンク石かどうか判りませんが、阿蘇から運んだのでしょう。加えるに、石棺の形式は、 舟形刳り抜き ですから、長持形石棺や家形刳り抜きより古い形ですから、3つの中では、一番古い築造となります。

歴史各論  勾玉(49)  勾玉製造元(38)ヒスイ製勾玉(28) 造山古墳(3) [日本大好き]

造山古墳の被葬者が、吉備王国の首長だとしますと、それでおしまいです。その他の多い古墳がどうしてあるのか説明が付きません。専門家が云われる5世紀から5世紀の中ごろまでのものとしますと、岡山にある古墳は、6世紀中ごろまでに、相当のラッシュで作らなければなりません。
 造山古墳が、吉備王国の首長のお墓としますと、王国を支える人民がどれほどいたことになるかです。仮に10万人いたとします。その人たちは、なにをして生計をたてていたか考える必要があります。
 所が、関東から絹を運ぶ仕事をしていたのであれば、湯迫車塚古墳の被葬者と同じで、産業らしきものはなくても、あの大きな古墳を築ことは出来たと思われます。
 では、いつ頃、造山古墳を造った人達は、岡山へやって来たのでしょう。
私は、いつでも来ることが出来たと思います。例えば、紀元前100年でも可能です。問題は、そのころにやって来たとして、あの大きな古墳を造る技術を持っていたかどうかです。
 平地に前方後円墳を造るためには、あの形が、重要だったのではないかと考えます。次に、周濠、葺石、円筒埴輪は、必要だったのではないかと考えます。その前方後円墳は、中国では作られていませんから、造山古墳の被葬者には、無理だったのではと思います。
 もっとも、古墳を造ったのは、土師ですから、そのころに、周りに土師がいたことが判れば解決です。
 これを全て備えていたのは、神戸市の五色塚古墳ではないかと思います。造山古墳の被葬者は,明石沖を通った可能性はあります。ただ、難儀なことは、神戸市の専門家は、5世紀前後に造られたしておられますから、紀元前100年に見ることはできません。
  前回に書きましたように、荒神社の手水鉢が、造山古墳のもので、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であるとしますと、話は違ってきます。
 造山古墳の被葬者は、古墳を造るときに、石棺は、近くの竜山石や四国の石を使えばいいのに、態々、阿蘇から凝灰岩を運んだことになります。ひょっとすると、石さえあれば石棺はできるとは限りませんから、石工も呼んだか、九州で造らせたかも知れません。
 どうして、そのようになったかです。竜山石は、いまでこそ、竜山と〔竜〕の字がついていますから、中国人が取り仕切っていましたが、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃は、竜山石を使うことはできなかったのだと思います。
 では、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃はといえば、何時の頃か判りません。
 神武東征が行われたのは、紀元前です。全行程で、16年かかったことになっています。神武天皇が、吉備を征伐しようとしましたら、吉備は8年かかったと古事記は伝えます。奈良のナガスネヒコ等と戦って、柏原に宮城を造ったのが、紀元元年1月1日ですから、
紀元前10年ぐらいは、広島から岡山に掛けて、中国人の勢力が強かったことが判ります。

 ただ、この頃に、造山古墳が造られたとしますと、五色塚古墳は、それ以前にあったということになり、日本中の歴史家を相手に戦いをするようなことになります。
 それでも、造山古墳は、全国で4番目に大きいので、仁徳天皇陵と同じ頃の5世紀では、吉備王国の歴史は、語れないことになります。

歴史各論  勾玉(48)  勾玉製造元(37)ヒスイ製勾玉(27) 造山古墳(2) [日本大好き]

前回、ウィキペディアは、いい加減なことを書いていると批判しながら、又、利用するのもおかしいですが、古墳の前方部について、次のようなことが書いてあります。

前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が作られており、鐘突き堂が付属している。この鐘突堂のそばに手水鉢があり、その手水鉢が阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。

 ここに書いてあることは、どういう意味でしょうか。荒神社の手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分である。棺桶であることを知っていながら、現在でも、造山集落の皆さんは、手水鉢として使っておられるのでしょうか。
〔風雨に晒されている〕とも書いてあります。手水鉢として使っているのであれば、屋根ぐらいは作ると思われますが、屋根はないのでしょうか。
〔この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、〕ここまで、推測されたのであれば、石棺が、盗まれた例は外にもあるのでしょうか。石棺を使って、お地蔵さんを作ってあるのは見ました。この文章から、〔新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある〕が続いていますから、この石棺は、新庄車塚古墳より盗んできたということでしょうか。
 新庄車塚古墳は、造山古墳から近くにあったらしいですが、現在は、消滅しかかっています。他人のお墓を壊わす理由は、どのようなものがあるのでしょう。盗まれたのではなく、壊されたものは、埴輪、銅鏡が多いと思われます。
 円筒埴輪は、穴の開いた部分だけを地上にだして、後は、古墳の崩壊を防ぐために、地下に埋めてあるのが正しいと思います。地上に出た部分は、1300年も経てば、壊れるのが当たり前です。
 銅鏡は、古墳に拠りますと、粉々に割れているのもあります。これは、粉々にされたのだと思います。憎しみが強いほど、粉々にされたと思います。
 例えば、明日香の石舞台があります。これは、石棺はどうなっていたのかわかりません。石槨のおおきな石が残っています。ほんらいなら、あの石の上に土でオウワレていたと思いますが、土はゼロです。雨で、土は流れてしまったのでしょうか? そうではなく、この墓の被葬者は、石舞台が立派であるだけに、恨みもいっぱいであったために、壊され、石棺も、壊されたと考えたいです。
  造山古墳は、発掘されていませんから、後円部に石棺はあるはずですが、古墳が巨大であるだけに、石棺も放り出されている可能性は大きいです。前方部まで、引きづり出しましたが、放置されたのではないでしょうか。
仮に、余所から運ばれたにせよ、1300年も経った今でも、〔風雨に晒されている〕ということは、荒神社を祭っている人達からは、余り喜ばれない存在のように思われます。
 いい加減な記事ばかりですから、私もいい加減なことを書いて見ます。

 この手水鉢は、造山古墳から引きずり出されたものとしてのお話を次回に書きます。

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