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歴史各論  勾玉(47)  勾玉製造元(36)ヒスイ製勾玉(26) 造山古墳 [日本大好き]

造山古墳の被葬者はだれか。 ウィキペディアによると、

 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備の首長ではなく、中央の大和王権が造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者[2]もいる。

この文章はいい加減ですね。造山古墳が何時できたか分らないのに、そのころに、中央にヤマト王権というものがあったと書いてあります。中央とはどこかは書いてありません。
ヤマト王権があったことにします。そのヤマト王権に対抗しうる強力な王権が吉備にあった、これを吉備政権という、こうした見解がある。 どなたの見解でしょうか。
 いや、そうではなく、〔中央の大和王権が造った古墳〕。外に、大和王権が造ったという古墳はあるのでしょうか。倭王かも知れないとも書いてあります。と言うことは、倭王は、大和政権の中の一人である。言い換えますと、天皇だということになります。
 この3つに、どこか共通点があるのかと云いますと、全く、有りません。
 いい加減なものです。

 他人の悪口を書いてどうするのだといいますと、これから書く私の話も、これといい勝負の話なので、風当りを減らそうという魂胆です。

 ウィキペディアの担当者は、古墳の大きさからだけの判断で、上に書いたようなことを書かれました。

 全国の前方後円墳の一覧表をご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html 私はいい加減な仮説を立てて、此れが正しいかどうかを眺めてみようと思っています。
多くの古墳が3世紀を中心に、全国的に造られたのは、五色塚古墳と箸墓古墳とを実際に見た人が、自分もこのような古墳を造りたいと思ったのではないかと考えました。
 箸墓古墳は、⑫です。これより上に書いてある古墳は、桁違いに大きい古墳です。

 造山古墳の被葬者は、その上には、三人しかいません。どれも天皇のお墓ではないという歴史家が多いために、仁徳天皇陵とは呼ばないで、大仙陵古墳と云われています。 仮に、上位3人のお墓は、天皇のお墓だとしますと、確かに、造山古墳の被葬者は、古代吉備に強力な王権があったと云えると思います。 しかし、3人は、大和(奈良)ではなく、堺と羽曳野ですから、大阪です。
 ウィキペディアの担当者が書いておられるヤマト王権は、奈良の事だと思います。
前方後円墳の一覧表を、下の方へ眼を移しますと、⑪~⑳が、奈良ばかりです。⑯は崇神天皇のお墓ではないと云われる方もおられますが、この辺りの大きな古墳は、天皇のものだろうと考えています。しかし、その周りには、鏡がいっぱい出土した古墳があります。
こうした、 龍王山麓に、実際に住んでいたのは、天皇家以外の人達だと考えています。
 では、崇神天皇は、どこに住んでいたかと云いますと、吉備に住んでいたと思います。景行天皇も、奈良は危険なので奈良には住んでいなかったのではないかと考えています。
 崇神天皇の5年に、伝染病で多くの人が死んだ記事が掲載されていますが、これは、192年の出来事です。従いまして、崇神天皇が居られた時代は、150年から250年ぐらいの間のことになります。
 造山古墳の被葬者は、墓の大きさからのみ判断しますと、確かに、⑪~⑳の人たちと、張り合ったことになります。
 と言うことは、200年前後の人の筈です。ウィキペディアによると、5世紀の築造と書いておられます。 
 私の考えと、200年のずれがあります。
 私の考えと書きましたが、ウィキペディアに書いてある
〔古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある〕が正しいことにした分析です。

歴史各論  勾玉(46)  勾玉製造元(35)ヒスイ製勾玉(25) 湯迫車塚古墳(8) [日本大好き]

岡山県にある古墳を前回、書き出しました。しかし、古墳の数は、こんなものではありません。どうして、こんなに多いのかは、余り話題になっていません。なぜ多いのかの理由は簡単です。沢山住んでいたからです。その上に死ぬ人が多かったからです。
 どうして、沢山住んでいたのかと云いますと、自然に増えたのではなく、九州から移動して来たのではないか考えています。
 ①~⑳ までのうち、誰が九州からやって来たかと云いますと、
⑥と⑮ではないかと思います。
⑥は、造山古墳です。造山古墳については、精しいことは分っていません。
 特徴は http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htmに書いてあります。

全長約350~360mを測る全国第4位の巨大古墳
つぎは、陪塚といわれている6つの古墳があること。
次は、高さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれていることです。
 この石棺は、どこにあったものか判りませんが、普通に考えますと、造山古墳のものでしょう。形は、畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。
 
 全国第4位の巨大古墳であるということは、意識して大きく作ったということでしょう。
誰を意識して大きい古墳を造ったのかです。
 次のページは、前方後円墳の大きいものを一覧表にしたものです。
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html
 箸墓古墳と五色塚古墳を青色にしておきました。この二つの古墳を実際に見て、これより大きいものを作ってみようと思ったと単純に考えました。

 造山古墳の被葬者は、岡山に居たのですが、箸墓古墳も五色塚古墳も見たと考えています。と言うことは、ここより、東へ旅をしていた筈だと推理しています。
 似たような名前の古墳があります。⑨の作山古墳です。 岡山県惣社市にあります。
 この古墳は、独立した小さい丘陵を加工した、三段築成の前方後円墳である。各段には密接した円筒埴輪が立ち並んでいたと推測されており、斜面は角礫が葺かれている。北側(前方部から見て左側)に造り出しがある。外周には周濠がない。後円部の外周には幅約20メートルの段が巡っていた。前方部前面と南東部に小さな丘が残っていて見栄えに欠け、また、巨大古墳としては陪塚が伴っていない。
 作山古墳も、精しいことは分っていませんが、独立した小さい丘陵を加工したということは、造山古墳よりは、造るときには、技術的には、楽だったと思われます。巨大古墳としては陪塚を作らなかったのは、箸墓古墳も五色塚古墳も陪塚を持たなかったからではないかと思います。
 造山古墳は、6つの陪塚を造った理由は、箸墓古墳も五色塚古墳と比較したのではなく、陪塚を持っている古墳を意識したことになります。
造山古墳は、4番目に大きい古墳ですから、それより大きい古墳としますと、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳を意識したことにしますと、3つとも、陪塚を持っていたから、造山古墳も陪塚を造ったとなるのですが、参考にしたにしては、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳よりも、小さい古墳になっています。
 これでは競争したことになりません。
 ⑤河内大塚古墳~⑧土師ニサンザイ古墳の5つの古墳のどれかを参考にしたことになります。
 ウィキペディアに拠れば、
 河内大塚古墳は 6世紀後半
 見瀬丸山古墳は、6世紀後半
 渋谷向山古墳   4世紀後半
 土師ニサンザイ古墳 5世紀後半
 上記の古墳のうち、どれかを参考にした可能性があるのですが、どれも、陪塚を持っていないのと、時代が、私が考える造山古墳の時代とは合いません。

私が間違っているのかも知れませんが、次回に、私が考えている時代を示してみようと思います。

歴史各論  勾玉(45)  勾玉製造元(34)ヒスイ製勾玉(24) 湯迫車塚古墳(7) [日本大好き]

前回、湯迫車塚古墳がどのような所にあったかを見て頂きました。3世紀の頃、あまり、産業らしきものがないし、それほど、人も住んでいなかったのに、沢山の三角縁神獣鏡を持っており、最大の取引先が、京都・山城の椿井大塚山古墳の被葬者だと書きました。
 加えることに、長いこと、岡山県で実力のあった中国人の最後の将軍だったことです。
 中国人の人たちは、九州からやって来たと考えていますが、では、始めの人たちは、どのような人だったのかを考えて見ようと思います。

 岡山にやって来た時には、周りは、自分達とは競争相手でしたから、お墓を造るときに、近くにある石は使うことが出来なかったのではないかと考えています。
 岡山県にある古墳を書き出してみました。
 
 ①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
 ②八幡大塚2号墳       竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
 ③青陵(青ばか)古墳    花崗岩製の石棺
 ④宗形神社古墳       箱式石棺
 ⑤石舟塚古墳   横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
 ⑥造山古墳    阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
 ⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
 ⑧箭田大塚古墳
 ⑨千朱駄古墳   竜山石  長持形石棺
 ⑩唐人塚古墳   竜山石  家形刳り抜き
 ⑪王墓山古墳   家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
 ⑫大塚古墳群   箱式石棺二基あり。
 ⑬宮山西塚    竜山石  家形刳り抜き      岡山市百枝月
 ⑭石塔塚     浪形石  家形刳り抜き
 ⑮小山古墳    九州阿蘇 舟形刳り抜き
http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/42/44/69/67/68.html
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page368.html
 ⑯正仙塚     竜山石  長持ち形、縄掛け突起なし  美作・高野
 ⑰花光寺山古墳   凝灰岩  長持ち形        長船町
 ⑱天神山古墳    不明               備前市新庄
 ⑲丸山古墳     讃岐火山岩  特殊家形      備前畠田
 ⑳築山古墳     二上山ピンク石  家形刳り抜き  長船町
 どの古墳が新しくて、古いのか判りません。
 これだけ眺めたら、なにか判りましたか。
  少し、資料が少ないですが、私流にどの古墳が古いかを考えて見ようと思っています。

歴史各論  勾玉(44)  勾玉製造元(33)ヒスイ製勾玉(23) 湯迫車塚古墳(6) [日本大好き]

前回の続きです。
湯迫車塚古墳から出土した鏡のうち、318との名前の鏡と同じものが、見付かった古墳は、
①織部山古墳  滋賀

②北山古墳  京都  京都府向日市向日町

③国分茶臼山古墳 大阪


湯迫車塚古墳から出土した鏡のうち、321との名前の鏡と同じものが、見付かった古墳は、
①富雄丸山古墳  奈良  http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=71902
②椿井大塚山古墳 京都

③那珂八幡古墳  福岡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%8F%A4%E5%A2%B3湯迫車塚古墳から出土した鏡のうち、322との名前の鏡と同じものが、見付かった古墳は、
①新山古墳  奈良
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3②石塚古墳  福岡 


湯迫車塚古墳は、岡山県の湯迫にある古墳です。
地図をご覧ください。
 どなたかが、湯迫車塚古墳は、自分の村が見える山の頂上に作られたと書いておられました。きっと、そうだと思いますが、間違っているのではとも考えています。
 現在の集落をご覧ください。現在でも、龍の口山の麓にそって、家があるだけです。西に行きますと、温泉の町で、神社とお寺があります。ここには、人は住んでいましたが、稲作していても少なかったと思います。国府市場がいつからあったか判りませんが、絹の市があったのではないかと考えています。新幹線が走っている辺りは、海抜ゼロmですから、この辺りは、まだ、稲作はしていなかったのではと想像しています。
 人が生活をしていたのは、東の四御神でしょう。ここも龍の口山の麓にへばりついてあります。
ついでに、近くの地名を眺めてください。
土田---ここは土器などをつくるときの土の採取地でしょう。
古都宿---街道筋だったのでしょう。

湯迫車塚古墳の被葬者は、京都の椿井大塚山古墳の人との交流が盛んでしたが、それ以外に、多くの人に、三角縁神獣鏡を作って渡していたと思います。全部で、40ヶ所あって、亡くなった時は、まだ、渡そうと思っていた鏡が11枚あったことになります。

歴史各論  勾玉(43)  勾玉製造元(32)ヒスイ製勾玉(22) 湯迫車塚古墳(5) [日本大好き]

前回の続きです。
湯迫車塚古墳から出土した鏡のうち、316,317との名前の鏡と同じものが、見付かった古墳は、
①真土大塚山古墳  神奈川
 上 http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/shinoh1.html 
下 http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/kouko/shinoh2.html

以上2つは、平塚市博物館のものですが、タイトルに、〔真土大塚山古墳とヤマト政権〕とありますように、全文を読んでいませんが、真土大塚山古墳はヤマト政権と関係があるように考えておられると思います。
 真土大塚山古墳が関係あるのは、椿井大塚山古墳と兵庫県権現山51号墳と岡山県湯迫車塚古墳です。しかし、上下関係にあるのは、湯迫車塚古墳で、ヤマト政権はなんら関係ないと思います。
 どの古墳も、絹の商売に関係していた人達だと思います。頃は、崇神天皇が生存されている頃ですから、250年前後と推察します。

②椿井大塚山古墳 京都
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%95%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 
椿井大塚山古墳の被葬者は、建波邇安王ではないかと疑っています。


 【山代も漢人の拠点】
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1195.html

歴史各論  勾玉(42)  勾玉製造元(31)ヒスイ製勾玉(21) 湯迫車塚古墳(4) [日本大好き]

前回の続きです。
湯迫車塚古墳の被葬者が、同氾鏡を与えた相手です。
314いう鏡と同氾鏡は
①三本木古墳  群馬  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
②銚子塚古墳  山梨  (三角縁獣文帯三神三獣鏡)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
③藤崎方形周溝墓 福岡
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101029
315いう鏡と同氾鏡は (三角縁獣文帯三神三獣鏡)
①佐味田宝塚古墳   奈良  約36面の銅鏡[1]が出土し http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%91%B3%E7%94%B0%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3今回の4例も、各古墳の被葬者は、湯迫車塚古墳の被葬者から、同氾鏡を与えられたことになります。岡山の湯迫車塚古墳からは、随分離れています。
 現在であれば、いくら離れていても、商売仲間がいても不思議ではありません。これだけ離れた人たちが、何を介してつながりがあったかは、説明できないと思われます。
しかし、すべては、絹が取り持つ、仲間であったと云えば、簡単に説明が付きます。
 仲間だけではなく、湯迫車塚古墳の被葬者は、武力もあったことになります。
 時代は、何時かと云いますと、250年前後になります。

歴史各論  勾玉(41)  勾玉製造元(30)ヒスイ製勾玉(20) 湯迫車塚古墳(3) [日本大好き]

前回紹介しました【真説日本古代史 西野凡夫著】に一覧表がありましたので、その一部だけを転載します。
 どのような鏡か判りませんが、湯迫車塚古墳から出土した鏡に番号を付けておられます。
312という鏡と同氾鏡は、
①北山茶臼山古墳  群馬  http://www.gunmaibun.org/osoretoinori/kohun/kohun02.html
②大岩山古墳    滋賀
③富雄丸山古墳   奈良   http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm037.html

313という鏡と同氾鏡は、
①上平川大塚古墳  静岡  http://blog.livedoor.jp/shizuokak/archives/1858844.html
②久保古墳     三重   http://kofun.info/kofun/1349 ??
③椿井大塚山古墳  京都 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%95%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

上に挙げました古墳の被葬者と湯迫車塚古墳の被葬者とは、商売上の関係だけではなく、湯迫車塚古墳の方が、力が強いと思います。湯迫車塚古墳は、中国から派遣された将軍だと思います。
 次回、もう少し、掲載します。

歴史各論  勾玉(40)  勾玉製造元(29)ヒスイ製勾玉(19) 湯迫車塚古墳(2) [日本大好き]

三角縁神獣鏡の研究 型式分類編】小林行雄著が、あります。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72981/1/KJ00000077605.pdf
 全部で、76頁ありますが、まだ、10頁ほどしか読んでいません。どうやら、同氾鏡を中心にして考察を試みておられるようです。資料は多いほどいいのですが、余り多いと、素人の頭では処理しきれません。
 先ず、一番になにが書いてあるのか判りません。次は、鏡の名前が、複雑すぎて、鏡を見ていないものには、どのような鏡なのか判りません。 これらの鏡は、どこにあると書いてありますが、素人には、見せてもらえません。
 文句を言ってないで、転載させてもらいます。

 P98 の2 竜虎画像帯鏡 のところに書いてあることを記します。
 〔問箔鏡〕岡山市湯迫車塚古墳。東京国立博物館編『日本考古展目録』(昭和四四年)七四頁三図。
奈良市大和田町丸山古墳(伝)。『奈良市史(考古編)』(昭和四三年〉図版一五。
滋賀県野洲郡野洲町小篠原大岩山古墳。梅原末治「近江国野洲郡小篠原大岩山の一古墳調査報告」〈円考古学雑誌』第一二巻第一号、 大正一O年)第三図。
群馬県富岡市南後箇北山古墳。後藤守『古墳緊英ハ上篇)』(昭和一七年〉図版第三九日。
以上
竜虎画像帯鏡は、全国にいくつあるのか判りませんが、上記の4つの古墳から出土した竜虎画像帯鏡は〔同氾鏡〕ですよという意味でしょうか。
 同氾鏡とは、同じ鋳型を使って、作った鏡と言うことらしいです。その鋳型を使って上の4つの銅鏡を作ったのか、湯迫車塚古墳を元にして、後の3つの銅鏡を作ったのかは書いてありません。
 最初に、〔同氾鏡〕岡山市湯迫車塚古墳と書いてありますから、湯迫車塚古墳を元にして、阿庤の3つを作った可能性はあります。何故かと云いますと、次のページの5,6,7,8,9の5つの鏡は、すべて、岡山市湯迫車塚古墳が最初に書いてあります。

真説日本古代史 西野凡夫著 岡山・湯迫車塚古墳から出土した11面の三角縁神獣鏡の内、9面は、京都・椿井大塚山古墳などから出土した鏡と同氾関係があったとされている。椿井大塚山古墳の被葬者から、湯迫車塚古墳の被葬者に分与されたものである。
 と書いておられます。
 このように書きながら、続けて、湯迫車塚古墳の被葬者が、椿井大塚山古墳の被葬者に与えたと書いておられます。

この9枚が、同じ様な鏡なのか、判りませんが、上に書きました
5,6,7,8,9は、どのような鏡かは、【三角縁神獣鏡の研究 型式分類編】を見れば分ることになります。
5---天王日月・獣文帯変形重列式神猷鏡
6---陳氏作神獣車馬
7---陳氏作神獣車馬鏡
8---陳是作四神二獣
9---新作徐州銘四神四獣鏡
 以上の事から、5つとも、鏡の種類が違うことが判ります。

一人の人に、一度に渡すのではなくて、一人に一枚ずつ渡したはずです。仮に、5年に渡したとしますと、9枚で、45年に亘って与えたことになります。

湯迫車塚古墳の被葬者が死んだときには、新しい家来が出来た時には、与えようと11枚の鏡を持っていたことになり、このうち、9枚は、椿井大塚山古墳にあったことになります。
 椿井大塚山古墳からは、三角縁神獣鏡32面と、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡が出土しています。
 
 32面の三角縁神獣鏡のうち、9面は湯迫車塚古墳にあるのと同氾鏡であったことになります。
 椿井大塚山古墳の被葬者は、自分用の

椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡の研究
http://inoues.net/mystery/3kakubuchi_tubai.html
において、岡村という方は、次のように書いておられます。
三角縁神獣鏡の配布について小林行雄は、椿井大塚山古墳を中心とした同笵鏡の分有関係から、その保管と配布において椿井大塚山古墳の首長が直接的な役割をはたしたと考えた(小林1961)。

これは、間違いではないかと思います。何故かと云いますと、この頃は、奈良、滋賀、岡山、大阪の殆どは、中国人が支配していました。総元締めは、吉野ヶ里ですが、中間の拠点は、岡山であり、湯迫車塚古墳は、その中でも、中国人最後将軍だったと考えています。

 上の様に同氾鏡のことを知らないときに、
温羅は備前車塚古墳に葬られました
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1328.htmlを書いています。
 この後、中国人のグループが交代することになると思います。
大阪に出現した倭の五王などがその一例です。




歴史各論  勾玉(39)  勾玉製造元(28)ヒスイ製勾玉(18) 湯迫車塚古墳 [日本大好き]

備前車塚古墳  http://kouminkan.city.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk22.htmlによれば、次のような特徴があります。
①前方後方墳としての外形
②県内最古の備前車塚古墳
③副葬品は、三角縁神獣鏡11面(うち9面は同范鏡)平縁の画文帯神獣鏡1面、後漢時代の内行花文鏡1面計13面。
④ 石室は、墳主軸に直角に築かれ、全長約5.9m幅1.2~1.3m高さ1.5m、割り石を送り積みにし、さらに控え石を充分に配し8枚の蓋石でおおわれていた。

備前車塚古墳〕ここに古墳が造られている位置が写真で示されています。

 全国の古墳を調べたのではありませんが、山の頂上に古墳を造るのは珍しいのと、前方後方墳は、資料を集めている最中ですが、中国人の古墳に多いのではないかと考えています。

 次のページの方は、神武東征の折に、吉備にあったとされている高島宮が、竜之口山の麓にあったことの紹介をしておられます。
 吉備高島宮
http://17.pro.tok2.com/~kmlife/it-town/minamishinogoze/rekisi/rekisisabu-b/kibitakasimaguu/takasimaguu.htm

国土地理院の地図をご覧ください。 新幹線、山陽本線の辺りは、海抜4mですから、神武東征の折は、ここが海岸線だったと思われます。
 備前車塚古墳に葬られた人は、平縁の画文帯神獣鏡1面、後漢時代の内行花文鏡を上部組織から貰って、この地にやって来たと思われます。
 神武東征で、岡山県を支配していた中国人は、一掃されたが、その後に、勢力を取り戻したのが、備前車塚古墳に葬られた一族の人ではないかと思います。

②に、県内最古の備前車塚古墳と書いてありましたが、最古ではなくて、最後の将軍ではないかと考えています。
 次回に続きを書きます。 

歴史各論  勾玉(38)  勾玉製造元(27)ヒスイ製勾玉(17) 天神山古墳(8) [日本大好き]

天神山古墳に葬られた人は、どのような人か判りませんが、もう少し、調べますと、時代のずれはあっても、椿井大塚山古墳や、黒塚古墳の人も同じ仲間だと思います。

【椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡の研究】のタイトルのホームページがあります。
http://inoues.net/mystery/3kakubuchi_tubai.html この記事は、京都大学考古学研究室の岡村と云われるかたのものと思われます。
〔三角縁神獣鏡は倭に贈るために魏が特別に鋳造したものと考える特鋳説(小林1982)を支持するが・・〕と書いておられますのですが、これでは、天神山古墳、黒塚古墳、椿井大塚山古墳のことの説明が付かないと思います。
 二回読みましたが、文章が難しくてよく理解できません。
〔三角縁神獣鏡が畿内中枢から一元的に配布されたことは、同笵鏡の分有関係によって確実視できる。〕と書いておられますが、どうして、畿内中枢から一元的に配布されたのか理解できません。
 同じ型を用いて、同じ形の鏡を作り、その鏡が、どうして、全国に散らばっているのか説明が出来ないと思います。
 同笵鏡を持っている人は、同じ仲間の人で、関東から吉野ヶ里まで、絹を運んだり、絹を集めたりする仕事をしていました。同笵鏡は、その仲間が、同じ仕事をするときの許可証のような役割をしていたと考えますと、いくら、離れていても、同笵鏡が発見された所を線で結びますと、このグループのシルクロードが分るだけで、何等、驚くことではありません。

最後に、岡村氏は、「三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳11面、福岡県石塚山古墳7面以上、大分県赤塚古墳5面、兵庫県吉島古墳4面、山口県竹島古墳2面、福岡県那珂八幡古墳1面の順になり、すべて椿井大塚山古墳と同笵鏡を分有している点も見逃せない。」と書いておられます。

 一つずつも検討を加えなければいけません。
 湯迫車塚古墳は、長年、岡山県で支配力を持っていた中国人の最後の将軍のお墓だと思います。
次回は、湯迫車塚古墳のことを書いて見ます。

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