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小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北3) [神社からさぐる歴史]

 少し、式内社から逸れますが、滋賀県は、古い町であることは、読むのが難しい地名が多いことで分かります。
 人の名前も地名も、元は同じルーツです。

①「神前」と名の付く神社は
神前神社 (半田市) - 愛知県に鎮座。亀崎潮干祭が行われる。
神前神社 (伊勢市) - 三重県に鎮座。皇大神宮(内宮)摂社。
• 神前神社 (南伊勢町) - 三重県に鎮座。
• 神前神社 (長浜市) - 滋賀県に鎮座。式内社。
• 神前神社 (倉敷市) - 岡山県に鎮座。
神前神社 (さぬき市) - 香川県に鎮座。式内社。

 どの様に読むかと云いますと、
[かみさきじんじゃ、かむさきじんじゃ、こうざきじんじゃ]です。式内社が2ヶ所。伊勢が2ヶ所です。
 「神」を「こう」「かむ」と読む時は、ユダヤ人と関係あるのではないかと疑っています。 神社が元々、ユダヤ人が日本に伝えたのではと考えているからです。
「前」は、現在は、違うが、昔は、「崎」になっていた所ではないかと考えています。

②阿加穂神社
 この神社も古いと思います。この土地は、漢字が伝わる前から、「あかほ」と呼んでいたのだと思います。神社が出来る前から、「あかほ」の「ほ」は、「お」と同じ口の開け方ですが、「ほ」に近い「お」だったと思います。
 ということは、ここに初めて住んだ人達は、このように発音する人種だったと思います。
 現在は、地名を「赤尾」にしました。これですと、間違いなく、「あかお」と云う地名です。地名の歴史が、神社の名前で残されていることになります。
  赤穂浪士の赤穂が同じだと気が付かれましたか。

③伊香具神社
この神社は、「大音」に有ります。大音は、郵便では、「おおと」と読ませています。
 このまま、読めば、「おおおと」ですが、私は、「おうと」だったのではないかと思っています。書けば、「おおと」ですが、地元の人が、読むときは、「おうと」ではないかと思います。
まだ、漢字がない時は、この辺りを「おうと」、「おおと」と呼んでいたのではないでしょうか。
「おおと」でしたら、「大戸」でしょう。「おお」と「おう」と発音してください。口の形は違うと思います。

 書いてきましたが、良く解りません。
 分ることは、地名は、歴史をあらわしていることは確かです。それも、漢字が伝わる前から、あった地名であり、人が住んでいた証拠です。

地名を不便だからと云って、自分の町の名前を変えることは、その町の歴史が消滅することになります。

話題は全く変わりますが、他所の府県の人が、読みにくいから、と云って、「ひらかな」に変えることが流行っています。
 ケシカランと私は思います。

ひらかな地名 
http://www.wdic.org/w/GEO/%E3%81%B2%E3%82%89%E3%81%8C%E3%81%AA%E5%B8%82%E5%90%8D

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北2) [神社からさぐる歴史]

 前回、書きました様に、滋賀県の湖北にある式内社を巡る為に、準備しました資料を下に記します。

少し、長いですが、コピーして、印刷して戴ければ、A43枚を同時に眺めることが出来ます。

滋賀県湖北式内社一覧

①神前神社 滋賀県長浜市木之本町石道984  
 須佐之男命 許勢小柄宿禰命  
白鳳3年5月役の小角高尾山で当社を尊崇

②大沢神社  滋賀県長浜市木之本町黒田1783
沢道彦命 (配祀)大国主命  
開化天皇58創立
       崇神天皇51年相殿に大国主命を奉祀

③天八百列神社  滋賀県長浜市高月町熊野822
八瓜入日子王命 由緒、不詳

④走落神社  滋賀県長浜市高月町馬上1181
祭神 天児屋根命

⑤足前神社(北野神社境内社)滋賀県長浜市余呉町文室1091
 祭神・由緒不明  余呉湖の北

⑥乎彌神社 滋賀県長浜市余呉町下余呉2053
• 祭神 巨知人命(おみしるひとのみこと)
• 海津見命
• 梨津臣命(なしとみのみこと)(乃弥神社)

⑦伊香具神社  滋賀県長浜市木之本町大音688
祭神は伊香津臣命。
天児屋根命の五世孫(あるいは六代孫)である。
伊香郡に居住した伊香連の祖神であり、伊香連は藤原氏と同祖

⑧比売多神社  滋賀県長浜市高月町東柳野1192
祭神 莵上壬命 (合祀)豊玉姫命 久留彌多神
由緒不詳
もとは姫塚古墳の地に鎮座
       応永年中現地へ遷
       明治9年2月村社
式内社 久留弥多神社  を合祀。

⑨意波閇神社  滋賀県長浜市高月町西阿閉278
  祭神 宇迦魂神

⑩阿加穂神社 滋賀県長浜市木之本町赤尾603
祭神  豊受比売命   
天正年間淺井氏滅亡で赤尾氏も分散
       賎ケ岳の戦乱で社殿、社宝焼失

⑪桜市神社  長浜市高月町東高田363-1
祭神 須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命
当社は第五十一代平城天皇の時代に傳教大師の勧請に係ると言う。
 太古ここが湖の頃、須佐之男命が肥の川上の八俣遠呂知を退治し給ひて此の所の東の側の阿介多と言う小高い所に来臨し、剣の血を洗た御霊跡と伝わる。

⑫等波神社  長浜市木之本町田部6-1
祭神 鳥磐橡樟船尊 配祀 仲哀天皇、神功皇后
当社は等波神社と称し祭神は白鳳十三年(西紀六八四年)に神示の奇端を得て鎮座されたと伝えられる。
天明七年(西紀一七八七年)に社殿神謇ことごとく類焼し一時御神体を当字里の由常宮権現社に奉遷したが翌年社殿再興し以後明治の初めには新社殿に常宮現社の祭神仲哀天皇、神功皇后を合記

⑬ 横山神社 滋賀県長浜市木之本町杉野413
 大山祇大神 岩長比賣命 木花咲屋姫命
椙倉大明神 大音大明神 夷之宮八幡神

⑭兵主神社  野洲市五条566
 祭神 八千矛神 
社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。

⑮赤見神社  滋賀県長浜市高月町磯野530
祭神 広国排武金日命 春日山田皇女

⑯八幡神社  滋賀県長浜市木之本町飯浦511
  祭神  波多八代宿禰命 誉田別命 倉稻魂神

⑰ 波彌神社  滋賀県長浜市木之本町飯之浦511
八幡神社に合祀。
 祭神 波多八代宿禰命 誉田別命 倉稻魂神

⑱石作玉作神社  滋賀県長浜市木之本町千田793
天火明命、玉祖命
当社は伊香郡の式内社である石作神社と玉作神社を延宝五年(1472)に合祀したもの。千田集落の南に古字石作があり、石作神社の旧地とされる小丘があり、紅梅の老樹があったと言う。ここから勾玉、管玉、砥石などが発見されたと言う。

資料は以上です。


湖北の伊香郡には、46座の式内社があります。全て、行きたい所ですが、18座に絞りました。
 北から全部行くつもりになりましたが、木之本町木之本より北は、少ないですが、離れていますから、ここに行くだけで、午前中を要し、、半日は潰れると判断して、外しました。



18ヶ所は、地図を眺めながら、抽出しました。 これでも、全部廻れませんから、ここから、6ヶ所に番号を打ちました。
長浜ICで降りて、国道8号線を走りながら、北上するとして、目に付いた神社に番号を打ちました。

 ①は、⑨意波閇神社
 ②は、③天八百列神社
 ③は、⑮赤見神社 
 ④は、⑩阿加穂神社
 ⑤は、⑱石作玉作神社
 ⑥は、⑫等波神社
 
抽出しました番号順に回ろうと考えました。

眺めて、何に気が付いたかと云いますと、⑭兵主神社の野洲市を除くと、全部長浜市です。
 「郡」を廃止した時に、滋賀県は、住居の配分を考えたでしょうが、長浜市が、あまりにも、広すぎます。 長浜市に、どれだけの職員が居られるかは、調べていませんが、この広い所を全部把握することは無理だろうと思いました。
 住民の人数が少ないから、大丈夫と思われたのでしょう。

同じ、長浜市民の方でも、遠くの町のことは分らないだろうなと思いました。

と云うことは、隣の集落との交流は無いだろうと云うことです。 昔ですと、隣の集落とは、良い意味で対抗意識があったと思います。すると、自ずと交流がありました。

外に、何か気が付かれましたか。

比売多、波彌、意波閇、阿加穂、乎彌 です。漢字は音だけを表し、漢字の持つ意味は関係なさそうです。

 このな地名は、古くからある地名です。 阿加穂のように、三文字の地名は、二文字より、古くからある地名だと考えています。

いろいろ有りますが、今回は、賤ヶ岳をメインにしたく思いました。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北) [神社からさぐる歴史]

 皆さんは、一日の内に沢山の神社に行かれたことが御有りですか。

 一泊で出かけようと思いますと、仕事がありますと、チャンスは少ないです。そこで、出来るだけ沢山行って見たいですが、あまり欲張りますと、高齢になりますと、見てきたことは、殆ど忘れてしまいます。特に、神社の前まで行って、さっと神社を見てきますと、忘れてしまいます。

 神社の建物や周囲の風景などは、出来るだけ沢山、写真に撮ってきますが、一ヶ月もしますと、写真を見ても、何処の写真か忘れています。

と云うことで、最近は、二日で、8~12社にしています。

所が、湖北は、伊香郡だけで、式内社は、46座在ります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7
 
私は大阪の住まいです。高速を木之本町で降りますと、時間は短縮出来ますが、町の様子は記憶に残りません。そこで、一つ手前の長浜ICで降りて、国道8号線を走り、是非とも見たい神社は立ちよって、時間が許せば、帰りも8号線沿いにある神社に行くことにしました。

 以上のほかに、是非とも行きたい所がありました。
 
 それは、賤ヶ嶽です。 読み方は、<しずがたけ>です。 全国に「しず」「しづ」と読む地名は沢山ありますが、すべて、絹と関係があるのではないかと思っています。
 静岡、倭文(しずり)、志津 などです。 

 日本は、紀元前から絹をつくっていたことと、その絹が良質であったために、世界の人が、ほしがったと信じています。 その証拠が、『倭文』です。 倭は、日本の国名です。『倭』は、当時の日本を表すために、中国人が、作った漢字だと考えています。『委』は元々あった漢字です。 『禾』は、稲の葉のように、垂れた姿を現します。『委』は女の人が、腰を曲げて、なよなよした姿を現します。。『委』を使った漢字は、ほかには、『萎』があります。 背の低い、腰の曲がった、醜い人を表したのが、 【倭】です。 その証拠は、漢字が出来ますと、倭の漢字と外にある漢字を組合わせて、沢山の熟語が誕生しています。所が、『倭文』ぐらいしか熟語はありません。『文』は、織物を表すのではないかと考えています。
 『倭文』と書いてどうして、「しずり」と読むのかが判りませんが、絹が取れた所には、「しず」「しづ」という漢字を使った地名が残っていると考えています。では、どうして、『倭』と書いて、「ヤマト」と日本では、読むようになったかご存じですか。この話を書きますと、長くなりますので、止めにしますが、日本の歴史の根本ですから、考えてください。どこをさがしても書いてある本は無いと思います。 これが、「大和」の元ですから、考えてください。

 長くなりましたが、どうして、私が賤ヶ嶽では、ゆっくりしたく思ったかを書きました。

賤ヶ嶽は標高421mの山です。ここに登りますと、北に余呉湖を眼下に見て、南には、琵琶湖を見ることが出来ます。以前に一度登ったことがありますが、今回は、ここから、歴史を眺めて来ようと思い、是非とも登り、頂上でゆっくりすることにしました。そのためには、お弁当を買ってと思いました。

賤ヶ嶽は賤ケ岳とも書きます。 賤ヶ岳の七本槍は有名だと思います。この戦いは、元はと言えば、絹の奪い合いが元にあったのではないかと考えています。 

8号線を走りながら、お弁当を買おうと思っていましたが、買う機会がありませんでした。
 それでは、どこかの食堂で食べようと思いましたが、チャンポンの店と、ラーメンやさんは、あるのですが、それも少なかったようです。
 とうとう、賤ケ岳の麓の大音まで来ましたので、最後のらーめんやさんに入りました。

国道8号線を走って、判ったことは、道の両側には、広大な田が続いていました。 そして、国道では、飲食店が少なかったことです。

 滋賀県の方は、外食はあまりされないのかなと思いました。(歴史と関係あるでしょうか)

出発する前に、46座ある式内社から、欲張って、18社を選んで見ました。
興味はおありではないと思いますが、次回、その神社名を記してみます。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社 [神社からさぐる歴史]

 9月と10月の連休に、滋賀県にある式内社を訪れました。
 どうして、訪ねようと思ったかは、式内社の数が多かったからです

式内社と祭神
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html

滋賀県の式内社は伊勢や大和には敵いませんが、大和よりも多いです。 それと、行きたくなった、も一つの理由は、湖北の木之本町は父の生誕地で、戦時中、この町に疎開をしていたからです。 69年前のことです。
 小一の時の思い出ですから、あまり記憶はありませんが、お地蔵さんの前に、お琴の糸を売ってあるお店があった様に記憶します。
 しかし、戦時中の所為でしょうか、絹を作っているお家は周りにはなかった様に思いますが、養蚕が盛んであったような記憶がありました。
 時節柄、お米の生産が多かったように記憶しますが、そのような資料が見つかるかどうかです。

 この【式内社と祭神】を幾ら眺めていても、余り大した発見はありません。
例えば、山陰道560座に対して、山陽道140座は、国の面積が判りませんが、山陰道の方は、山陽道の4倍あります。
 これで分る事は、日本海側の方が、瀬戸内海よりも人が沢山住んでいたことが分かります。
 では、どうして多いのかと云いますと、確かめるのは大変です。
 人が多かったと云うことは、古墳を比べますと分ります。古墳が多いと云うことは、死んだ人が多いことになるからです。
 古墳の数が、神社と同じで、4倍であれば、納得できますが、ここの神社数は、式内社の数だけです。
 式内社でない神社はもっと沢山あります。

ここにある数字をいくら並べ変えても、何も出てきません。

縦に合計しますと、畿内は658座、東海道 731座、山陰道 560座で、多いです。
山陽道は140座で少ないです。特に、長門、周防、安芸、美作は少ないです。

美作は、全国で出土する陶棺の7割を占める地域です。陶棺は、ユダヤ人のものと思われます。

 長門、周防、安芸は神武東征のおり、神武天皇が通過した地点です。ということは、安全な地帯です。

 神武東征は、遠距離をしかも、16年も要して戦争していますから、この時には、軍隊の所在地は、正確に掴む必要があります。それと、二地点間の距離、天候の予測などが必要です。 ユダヤ人の知識がなければ、成功しなかったのではないかと推理します。
  紀元前、50年頃のことになります。

吉備国が7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割されて成立りつしました。 この時の備前国は、後の美作国の領域と、連島(児嶋郡都羅郷)、小豆島、直島諸島北部を含んでいた。 和銅6年(713年)4月3日に、備前守・百済王南典と備前介・上毛野堅身がともに上申して、北部の6郡の英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡を割いて美作国が設けられた。

古事記が編纂されたのが、712年。次の713年に風土記の編纂の命令が出されています。
風土記を作ろうとしたのは、藤原氏で、国を分割しようとしたのも藤原氏だと思います。
 これは、古事記が出来て次の年からですから、古事記の発刊が、藤原氏を慌てさせたと推理しています。

和泉、伊賀、丹後が分割されています。分割と式内社が関係あるかどうかは、難しい所です。分割されますと、その国は、小さくなりますから、勢力は衰えます。式内社の数は、増える筈ですが、式内社が元々少ない所ですから、藤原氏は、式内社をよう作らなかったのではないすと考えます。

丹後国は、竹野郡に二社あるぐらいです。丹後国は、別の理由で、分割が行われたと考える必要がありそうです。
丹波、但馬、丹波は、式内社に限らず、藤原氏と関係があると思える祭神が目に付きます。

青と赤の色分けをしました。 青は天皇家の勢力が強かった様に思われます

ただ、ここまでに書きましたことは、全部確認したわけではありません。

次回に、湖北を訪れた時のことを書きます。

小さな発見・新しい発見 白鳳(16)  日唐戦争 [神社からさぐる歴史]

 白鳳という元号があったことを発見したのですが、そこには、この白鳳時代に
≪花開く仏教秘術≫とありましたと書いてありましたので、この時代は、それどころでなかったことを書いてきました。

 一番凄い戦いが、672年に有りました。

672年 天智天皇崩御 飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)に遷る。
672年  壬申の乱

天智天皇崩御後、皇位を争ったことになっていますが、大友皇子を抱える唐の人達と大海人皇子とが皇位を争ったことになっています。

しかし、この戦いが行われる前に、大海人皇子一家が、奈良から逃避する道中を実際に歩いて見ました。長い道のりですから、簡単に、何所で襲われても不思議でないのに、大友皇子が攻撃した場所が特定出来ません。
 大友皇子は、出撃したかも知れませんが、ワザとモタモタしていたのでと思いました。
 以下に、その後の事を書いたブログを挙げておきました。精しく書いていますと、いつまで掛かるか分りませんので、大海人皇子は、唐の軍隊と戦ったのが、壬申の乱だったことを見て頂こうと思います。


No360 天智天皇は騙されたことに気が付いた [日本大好き] [編集]
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-14

No361 大友皇子と傀儡政権
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-16

o362唐が欲しかったもの 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-17

No363 唐へ持って行った朝貢品
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-19

No364 壬申の乱と湯沐令
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-21

No365湯沐邑と絹
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-23

壬申の乱は日唐戦争だった
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page718.html

以上のことで、白鳳時代は、多難な時代であったことが、私の歴史の捉え方です。
 時代が安定した時は、長く続くものです。平安と江戸時代がそうです。

小さな発見・新しい発見 白鳳(15)  近江大津へ遷都(6) [神社からさぐる歴史]

 現在、白鳳という時代に ≪花開く仏教秘術≫は、無かったのではないかと探っています。

奈良県立博物館の『白鳳美術展』は、昨日で終わりました。

 白鳳という名前は、美術の世界では、使われているのだと
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html
 ここには書いてありましたが、

タイトルには、≪花開く仏教秘術≫とありました。
展覧会の解説の冊子には、〔645年から710年に限り、「白鳳」という名前を使いたいといてありました〕

別に悪くは無いのですが、すでに、見て頂きました通り、645年から710年の年代の歴史を一覧表は、激動の時代で、仏像の美を愉しむ余裕はなかったのではと考えています。

次の年表のうち、672年の壬申の乱まで、検証して来たことになります。

645年- 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。(乙巳の変)
645年 元号を大化と定める。
645年 改新の詔(かいしんのみことのり)が出された。
    日本書紀に記されている。
    
649年 蘇我倉山田石川麻呂、山田寺にて自害。
663年  白村江の敗戦
667年  近江大津へ遷都 (中大兄皇子)
668年 即位して天智天皇誕生。
669年 12月斑鳩寺、消失。(日本書紀)
670年 4月30日、法隆寺全焼。(日本書紀)
672年 天智天皇崩御 飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)に遷る。
672年  壬申の乱
689年 『飛鳥浄御原律令』前後に 二字化されていた史実
694年 (持統八年)には藤原京に都を移す。
701年 大宝律令が完成する。 元号---大宝
707年 - 文武天皇(25)没し、元明天皇即位する。
710年 平城京に遷都する   元明天皇の時。

 この年表を見ますと、≪花開く仏教秘術≫どころではなかったと思います。

689年 『飛鳥浄御原律令』前後に 二字化されていた史実
二字に変えることは簡潔となっていいのですが、ここで、歴史が消えてしまいますから、しない方が良いと思います。 天皇家の時代の歴史が消えてしまいます。

694年 (持統八年)には藤原京に都を移す。
どうして、遷都したかの検証はしていませんが、これも、やはり、歴史が消えてしまいます。

701年 大宝律令が完成する。 元号---大宝
 元号名はどうして付けられたか判りませんが、「大化」のときと同様で、「大」は中国の皇帝を表しますから、藤原氏が、決めたのではないでしょうか。

707年 - 文武天皇(25)没し、元明天皇即位する。
どうして、25歳という若さで亡くなられたのでしょうか。

710年 平城京に遷都する   元明天皇の時。
  元明天皇は、遷都させられたのではなくて、ご自分の意志で、遷都を選ばれたのではないでしょうか。 調べていません。

小さな発見・新しい発見 白鳳(14)  近江大津へ遷都(5)天武天皇幽閉 [神社からさぐる歴史]

 前回 古事記の序文の一部を記しました。

もう一度、書きます。

ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。

「朕聞く」と書いてあります。 此処だけで判断は無理です。
この部分の前に、長い文章が有ります。素人だから読めないと云わないで、挑戦してください。
 殆どの事は、探せば、インターネットに、どなたかが翻訳して居られますが、見付かりません。
 みつけても、翻訳が間違っておられると思います。

太安万侶は、この前の部分を書いて、此処に、
ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。 と記しました。
ここに書いてあった通り、天武天皇は殺されることになりました。天武天皇どころか、天智天皇も、毒殺されてました。
 
 「朕聞く」ということは、ご自分の目では、読む事は出来ないが、見た人から聞けばと云う意味になります。

天武天皇は、敵方に閉じ込められていたことになります。

白村江の戦いは、唐と新羅を相手にした戦いでした。

天智天皇が心配した通り、中国から、軍隊と共に、町造りをする人達も日本にやってきました。
 そして、天皇は、飾り物にして、大津京を建設しました。

天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったとされていますが、
 次の部分は、如何にも下手な芝居の台詞のような思いがします。
「倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下ったとされていますが」

このようにしなければ、この後に、壬申の乱がありますと云う様な伏線です。

次の記事は、いかにも、天智天皇と大海人皇子が仲が悪かった様な内容になっています。
『藤氏家伝』は、ある日の宴会で激した大海人皇子が長槍で床板を貫き、怒った天智天皇が皇子を殺そうとしたという話を伝える。藤原鎌足が取りなして事なきを得たという。天智天皇7年(668年)のことと推測される[22]。

太安万侶が、古事記の序文に書いたことは、本当の事で、天武天皇は毒殺され、、天皇家は滅亡の方向に進んでいったことになりました。

天智天皇の考えで、天皇と大友皇子は、大津京に残り、大海人皇子は、吉野に逃げて体制を建てなおす計画だったと思います。
 しかし、体制など、建てなおす間もなく、追手が吉野までやってきます。



新しい日本の歴史----http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
今、読んで頂いているブログです。 このページの左下に、検索をするためのボックがあります。
ここに、「朕聞く」を入力していただきますと、今までに、私が書いた文章の中に、「朕聞く」という言葉が出てくるものがすべて、ヒットします。
私は、太安万侶が一番力を入れて書いた部分ではないかと考えます。
藤原氏は、古事記を無くするだけではなくて、日本書紀や藤氏家伝を使って、中国人にやられたという;歴史と違う歴史を作ったように思います。

古事記の序文は翻訳された方は、おられないのではないでしょうか。
次の所から、古事記の序文No4 まで 書いたように記憶します。「朕聞く」は大切な部分だと思います。

No208 古事記の序文 [日本大好き] [編集] 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-04



小さな発見・新しい発見 白鳳(13)  近江大津へ遷都(4)天武天皇毒殺 [神社からさぐる歴史]

 前回、「お二人とも、毒殺されたという結論に至りました」と記しました。

 このようなことは、何処にも書いた人はおられません。天武天皇が、天智天皇を殺したと書いてある記事は有りました。
 では、その証拠と成るものは、例えば、日本書紀に書いてあるのかと云いますと、書いてありません。何所にも残されていません。

 私も天智天皇が、誰かに殺されたとは思っていませんでしたが、色々のことを知る為に、丁寧に資料は読んで見ました。
 そして、天武天皇は、やはり殺されたなと思いました。

 どうして、「やはり」と思ったかと云いますと、古事記の序文に、次のような事が書いてあったからです。

ここに天皇詔したまひく「朕聞く『諸家のもたるる帝紀と本辞は正実と違い多くの虚偽を加うといえり』今のときにあたりてその失を改めずはいまだ幾年を経ずしてその旨滅びなんとす。これすなはち邦家の経緯王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し旧辞を検討して偽を削り実を定め後葉に伝えんと思う」とのりたまひき。

以上は、天武天皇が云われた言葉です。

 そこで、古事記が作られることになったと記されています。

 古事記は、712年に完成しましたが、まだ、印刷は出来無かったと思いますから、筆で書かれたと思います。

 この古事記は、原本を見ながら、書き写されたと思います。従いまして、古事記を見ることが出来た人は、朝廷の人達に限られたのではと思います。しかも、少数の人だけが読む事が出来たと思います。

 不思議なことに、次の年の713年に全国の国司に、「風土記」を作るように命じています。(藤原不比等が?)
少し、離れますが、随分、全国規模で調査をした上で、927年の延喜式内社の制定を決めました。(藤原不比等が?)
 まだまだ、書きたりませんが、主題の「白鳳」と離れて行きますので、どうして、天武天皇が殺されたかを次に記しています。

天武天皇は暗殺された
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page935.html


いっぱい書いてきましたが、このような事は、幾らでも、考え方を変えれば、逆の証拠にもなります。

大切なことは、
① 『不比等に毒殺された天武』といの副題が見える本があります。

田村誠一氏の著書
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
 ここの第21話 『燦然と輝いていた古代 ・続』

この本の37ページが、『不比等に毒殺された天武』です。

私の『天武天皇は暗殺された』より、えげつないタイトルですね。犯人の名前も、殺した方法も書いてあります。

この本は、どこかの図書館で保管されているかもしれませんが、 いくらお金を出しても買うことは出来ません。

 どうして、買うことが出来ないかは、判りませんが、この本に書いてあることが、本当の事なので、許せないと思う人が、処分したと考えています。

 同じ事は、古事記が編纂された時にも起こりました。

古事記は、直ぐに無くなったと推理しています。しかし、原本ではありませんが、写本と思われるものが、400年後だったと思いますが、見付かりました。

 私の頭は単純です。
証拠はなくても、『古事記』と『燦然と輝いていた古代 ・続』の中に書いてあることは、正しいと考えるところから、出発しています。

先に記しました 田村誠一氏の著書
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
に記しました本は、一冊も買い求める事は出来ません。

と云うことは、田村誠一氏の解く日本の歴史は、正しいと思われます。 
第18『真説 建国史』は、
 これを書いています、『小さな発見・新しい発見 白鳳(13) 』の記事と、交互に書いています。 毎回、1ページで収まるように書いてある不思議な本です。 

小さな発見・新しい発見 白鳳(12)  近江大津へ遷都(3) [神社からさぐる歴史]

 現在、[小さな発見・新しい発見 白鳳]とのタイトルで、書き始めたのが、12回目になっています。

7月18日~9月23日まで、奈良の国立博物館で開催されていました

開館120年記念特別展【白鳳】 
に閉館間際に、行ってきました。

聞いたことはありますが、詳しいことはなに一つ知りませんでした。
元号は、645年にはじめて、日本で採用され、「大化」「白雉」「朱鳥」「大宝」と続きます。6番目は、「和銅」です。この年代の712年には、「古事記」が編纂されたので、ご存じの方が多いと思います。
 この頃の間に、作られた仏像を開館120年記念は集められ、展示されました。

頂戴したパンフレットには、

 花開く仏教美術

 愛らしい美しい、みほとけの時代

 若々しく、愛らしい

 飛鳥でも無い天平でもない白鳳の魅力が一堂に
などの、サブタイトルが有りました。 又、多くの仏さんは、頬笑みがいっぱいの像が多かった様に思います。

 展示期間が、8/18~8/27と短かった、『仏頭』の拝観は叶いませんでしたが、購入した冊子には、大きく掲載してありました。

頭は上部は欠けて、左耳も欠けた頭だけの仏像ですが、そのお顔は、微笑んで居られると云えば、その様にも思えますが、なにか物云いだけなお顔に見えました。

[白鳳]が、元号であったことは、私にとっては、小さな発見でしたが、いろいろ調べていましたら、大きな発見になりそうだと思いながら書いています。


前回書きました様に、近江大津京 (天智天皇) と長岡京 (桓武天皇)は何か、隠されていることがありそうな[京]だなと思っています。

田村誠一の云われるかたが居られます。歴史に関しては、全くの素人の方ですが、ご自分で、発見したと思われた事は、本の形にされました。

田村誠一氏の著書
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
 に、一覧表を作っておきました。
ここに、第十九話 壬申の乱は日唐戦争 があります。

この本の中身は、一言で言いますと壬申の乱は 「皇位継承」のトラブルとされていますが、中大兄皇子は白村江の戦いの後に、唐の人に捉えられ、大津に中国人の手で、都が造られたのではないかと推理を元に「壬申の乱は日唐戦争」のタイトルになり、しました。
 大友皇子と大海人皇子の戦いであることは、100%正しいとされていますが、 実は、日本と唐の戦いであったという物語です。

その為に、都の遺跡があるようで無いような遺跡しかありません。

 遺跡は、ご自分の目で確かめてください。
遠方から行かれた方は、きっと、がっかりされると思います。 そうしますと、次に私が書くことは、ご理解できると思います。

中大兄皇子は大津京で幽閉されていたのではないかと推理しています

 このような不名誉のことは、日本書紀にも書かれませんでしたが、これは、略、間違いないであろうと思います。

 いろいろ調べたことをもとにして、考えていましたら、
天智天皇も天武天皇も、身体の調子が悪くなって、4ヶ月後に、亡くなられたという、小さな資料を見付け、お二人とも、毒殺されたという結論に至りました。

 少し無理でしょうか。

小さな発見・新しい発見 白鳳(11)  近江大津へ遷都(2) [神社からさぐる歴史]

 遷都の流れを見るために、「遷都の一覧表」を記します。

遷都の一覧表
① 643年  飛鳥板蓋宮   皇極
② 645年  難波長柄豊崎宮 孝徳------大化改新(646)
③ 655年  飛鳥宮     舒明
④ 667年  近江大津京   天智
⑤ 672年  飛鳥浄御原宮  弘文・天武
⑥ 694年  藤原京     持統・文武
⑦ 710年  平城京     元明・元正・聖武
⑧ 740年  山背恭仁京   聖武
⑨ 744年  柴香楽宮    聖武
⑩ 744年  難波京    聖武
⑪ 745年  平城京     孝謙・淳仁・称徳・光仁
⑫ 784年  長岡京    桓武
⑬ 794年  平安京     桓武

 調べを正確にしたわけではありませんが、この表には、平安京は最後に有ります。
その前に、頭の中ですっきりしない都が二つあります。

近江大津京 (天智天皇) と長岡京 (桓武天皇) です。
両方とも、一度だけ訪れました。ここが宮城の遺跡だと云う柱が建てられてあっただけで、なんの感動も湧きませんでした。
 この地に天皇が、一時避難されたか、旅の途中に休まれたのであれば判りますが、それにしては、規模が大きいなと思いました。このような所に該当するものは、柴香楽宮でした。ここに訪れた時は、これは間違いであろうと思いましたが、歴史の専門の方が、調べられて、間違いないとされていますから、今の私には、どうしようもありません。
しかし、どの程度、判っているかをウィキペディアの記事を紹介することで、皆さんに知って頂こうと思っています。

近江大津京
 次に挙げるタイトルは、ウィキペディアのタイトルです。
近江京と「大津京」  以下、その説明文です。
日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。
明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。
また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。  

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%AE%AE#.E8.BF.91.E6.B1.9F.E4.BA.AC.E3.81.A8.E3.80.8C.E5.A4.A7.E6.B4.A5.E4.BA.AC.E3.80.8D

 歴史上の事実として、学門上存在する[近江大津京]の説明が僅か、これだけです。この文面からしますと、この記事を書かれた方は、[近江大津京]の存在を疑問視しながら、正確に書かれたのだと思います。

 発掘された遺跡は、庶民の住まいの跡ではないことは確かでしょう。天皇級の人の住居跡と思われます。
 
 間を飛ばして推測だけを書きますと、天智天皇も大友皇子も住まわれたと思われます。

しかし、準備をしたのは、中国人で、天智天皇はここで幽閉され、殺害されました。その後、若い大友皇子を無理矢理に天皇にするつもりでしたが、天皇になられる前に、大友皇子は自殺されましたから、天皇になられた証拠は有りませんが、此の辺りの歴史は、
「日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記している」と書かれている通り、藤原不比等による日本書紀に書かれていることが間違っていることになります。


近江朝 以下ウィキペディアにある説明です。
天智天皇が近江大津宮に都を置いた西暦667年から、大友皇子(弘文天皇)が西暦672年の壬申の乱で滅亡するまでの期間を近江朝(おうみちょう)と言う。名称は、近江大津宮に都が置かれたことに由来する。ほぼ天智天皇の治世と重なることから天智朝とも呼ばれる事がある。

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