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No42 神武東征の敵 吉野ヶ里 その2 [日本の歴史]

天草へ苗族入植作戦
 神武天皇が、三番目にしたことは、天草の辺りに苗族を入植させることでした。
皇紀2600年(昭和15年)の記念として、いろいろのことが企画実行されました。その内の一つに、神武天皇が祭られている神社の調査があります。
熊本70、福岡16、鹿児島15、佐賀5、大分9、宮崎15、広島37、岡山32、鳥取7 の各社の存在が判りました。佐賀と鳥取県を除いて件数の多い県だけを表示しました。
もっとも多い熊本県の70社の内、44社が天草郡にあります。熊本県は肥後国ですが、式内社は4社しかありません。式内社は由緒正しい、古い神社ということになっています。確かに延喜式に掲載されている古い、由緒があるのは確かですが、天照大御神を祀っている神社は殆どありません。ということは、天照大御神に対して敵対の気持ちがある人たちが式内社に定めた神社です。その数が少ないということは、熊本は天皇系の勢力が強い国であることが判ります。何故強いかといいますと、神武天皇を祀った神社がとび抜けて多いことで判ります。しかも、天草郡だけで44社ですから、神武天皇が意図的に、苗族の人たちを入植させたことになります。朝鮮から直接九州に来るためには、相当大きな船でエネルギーを使ってはじめてくることが出来ますが、中国の福建省あたりから来ますと、ゴムボートを使って3、4日で到達可能です。
それに比して、隣の佐賀県は僅か5社です。例えば5社の創建をしらべますと、古いものはゼロかもしれません。ここは、吉野ヶ里から中国へ絹を運ぶときの主要港であったはずですから、神武の者とて近寄ることが出来なかったと思います。式内社は4社です。これは非常に少ないことになります。式内社が制定されたときは、漢人の勢力が無かったことになります。
神武天皇は東征する前は、伯耆国にいましたから、当然、一番多くてもいいはずですが、僅か7件です。神武天皇が伯耆に居たことは、極力書きたくなかった日本書紀の作者は、神武を祭る神社を抹殺し、辛うじて他の神社に合祀されています。日本書紀を書いた人と式内社を制定した者は同一の人間ということになります。その中心人物は藤原不比等ということになりますが、このようなスケールの大きいことは一人の力ではできませんから、多くの漢人がしたのは間違いないでしょう。
福岡はもともと天皇の勢力のあったところです。広島、岡山は、東征のときに7~8年駐留したところです。苗族を入植させて、米が収穫できるようになるまで、最低3年はかかります。
このように神社の分布を見るだけで、神武天皇がどのように動いたか説明することが出来ます。福岡県の神社誌を使って、もっと詳細に眺めますと神武天皇が九州に出かける前に、天孫族の人が、どのように動いたか知ることが出来ます。
神武天皇は、吉野ヶ里を攻めるときに、吉野ヶ里から中国へ行く漢人を天草で封鎖し、又、熊襲との交流も妨害しました。神武軍の主流は遠賀川から攻撃したと思われます。
この時、ユダヤ人が援護した証拠が地名に残っています。


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せいさく0319 

せいさく0319と申します。
掲載されている日記を興味深く拝見させていただきました。事後の御連絡となりましたが、当方の記事にリンクをはらせていただき、日記を紹介させていただきました。

リンクをはらせていただいた件について、何か差しさわりがございましたら、その旨、御連絡ください。何分、ブログ初心者なもので、ご容赦ください。

また、よろしければ、今後とも、そちらのサイトを拝見させていただくつもりです。よろしくお願いいたします。

せいさく0319 
サイト名 気になるブログ10件
mail:noguchi0319@mail.goo.ne.jp 
http://plaza.rakuten.co.jp/kininaruburogu10/
by せいさく0319  (2005-08-15 07:06) 

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