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No148 九州の中国人 [日本の歴史]

福知山近辺には中国人が多いことを見てきました。吉備にも多いことをみてきました。奈良盆地にも。紀元前には、前漢の人がいっぱい来ていました。その本拠地は吉野ヶ里であったことも書きました。いくら書いても、そのような話を信用する人は、殆どおられません。そのような事を認めますと、それまで自分が知っていた日本史はゼロから出発することになるからです。
 だからと云って、私には100%中国人がいたという証拠はありません。No42「神武東征の敵 吉野ヶ里」において、「全国で神武天皇を祭る神社が、熊本70、福岡16、鹿児島15、佐賀5、大分9、宮崎15、広島37、岡山32、鳥取7 にあります。もっとも多い熊本県の70社の内、44社が天草郡にあります。熊本県は肥後国ですが、式内社は4社しかありません」と書きました。
何故、熊本に多いのでしょうか? このような事実すら知って居られないと思います。天草郡には、何故多いのか? 説明できる人は居られないでしょう。説明できないと、「神武天皇社の謎」というタイトル」で本を書かれるぐらいでしょう。
 式内社の数は、伊勢253、大和286、出雲187と多いのに対して、肥後国は4社です。なぜか そりゃ大和から遠いからだと返事をすると、辻褄が合わないこと夥しいことになります。では、もっと遠い壱岐・対馬53は何故多いのか?  簡単です。中国人の勢力範囲の強かった所に式内社が多いことになります。ただし、式内社が定められたときのことです。その時はいつか判りませんが、延喜五年(905)八月に、編纂の詔命が下る。延喜格は延喜7年11月完成していますから、この頃までには、定まったと思われます。
 この頃までに、中国人はどんどん増えていったと思われます。朝鮮半島から来るのは、海流の関係で難しいですが、中国の福建省あたりからですと、それほど難しくありませんから、個人的に渡来した人もあったかもしれませんが、秦の始皇帝が徐福を派遣したように、前漢の皇帝も派遣したと思われます。どの時代であっても、どの国であっても派遣するときは、国が栄えているときですから、簡単です。しかし、国が滅んだときとか、派遣した国と戦争になって負けたときは、兵隊であれ派遣した中国人は、引き上げないでそのままになります。
 九州には、帰国できなかった中国人がいっぱい残りました。その中国人を征伐したという事件が、記録に残っています。景行、ヤマトタケル、仲哀、神功が攻撃を加えています。これだけ攻撃をくわえますと、中国人は全滅です。そこで、ヤマトタケル、仲哀、神功の話は作り話であるということになります。神武天皇も実在しないといいますと、当然、中国人などいなかったことになります。それどころか、その場所には邪馬台国があったという歴史が展開されます。私は、中国人は全部殺されて、漢の銅鏡と鉄剣、銅剣だけが残ったと思っています。
 戦の様子はどのようであったのか、検討していません。しかし、最後の戦の場所はここしかないと思っています。それは神籠石です。毎日新聞社発行の「邪馬台国はここだ」という本のなかに、〔邪馬台国は筑紫にあった〕のところに 〔筑紫の神籠石一覧表〕があります。次にそのすべてを転載します。
 神籠石名称     所在地     標高(m) ----- 土(石)塁外周(km)
把木     福岡県朝倉郡把木町   147 --- -- -  ---  2.3
高良山    福岡県久留米市     250--- --- -- --- 2.5
女山     福岡県山門郡瀬高町   200--- --- -- --- 3.0
帯隈山    佐賀県佐賀市      177 --- --- -- --- 2.4
おつぼ山   佐賀県武雄市      66 --- -- - --- 1.8
雷山     福岡県糸島郡前原町   400 --- -- --- 2.3
鹿毛馬    福岡県嘉穂郡頴田町   80 --- -- ---- 2.0
御所ヶ谷   福岡県行橋市      250 ------ -- ---- 2.6

その他に、鉄剣の出土数が掲載されています。 九州は40、 近畿は2  北陸は 1 とあります。おもしろいものです。九州に鉄剣が多いことを上げて、武力集団があったこと。それは邪馬台国であるとの証明にしようとされています。邪馬台国は、どのような武器を持っていたか、魏志倭人伝に書いてあります。鉄剣などもっていません。
 神籠石の一覧表を上げてやはり、ここで邪馬台国の人が立て籠もって戦争をしたということの一覧表だと思います。
 標高をご覧ください。平地ではありません。どの神籠石も実際には見ていません。インターネットに写真が掲載されていますので、コンピューターのある人は見てください。
神籠石のある場所の地形利用の仕方や、谷間の部分には水門があることや、列石の上には版築(はんちく)と呼ばれる方法で築いた土塁があることなどから、山城であると考えられます。土(石)塁外周の大きさから考えて、立て籠もるほどの広さはありませんから、追い詰められて最後に籠もった山城だと思います。
「御所ヶ谷神籠石」の概要と
ホームページhttp://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/areamap/u1/goshogatani/top.htm
に書いてあることを転載させてもらいます。
築造の時期と目的とのタイトルで、「神籠石は築造の記録が残されていませんが、発掘調査で出土した土器などから7世紀の後半に築かれたと推定されます。
 663年、百済救援のために朝鮮半島に派兵したわが国は白村江で唐と新羅の連合軍に敗退しました。敗戦後、唐、新羅軍の侵攻に備え防人と烽(のろし)を配置するとともに大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制の強化を急ぎました。神籠石式山城もこの戦いの前後に国土防衛のために築かれたと思われます」とあります。
「御所ヶ谷神籠石」のあるところは、福岡県行橋市です。ここには、景行天皇が出陣しています。そのときの山城だと思われます。当然、立て籠もったのは、中国人です。
同じ資料を眺めて、片方は国防の砦だと考え、片方は中国人が逃げ込んだと考えます。
こんな所で防衛しても、奈良は守れません。


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