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No.265 天武天皇は暗殺された [日本の歴史]

No.265の内容は、H2004.12.12に、「楽しい人生」というブログに書いた記事です。その時のタイトルは、「天武天皇は暗殺されたか」でしたが、その後、いろいろ考えているうちに、「天武天皇は暗殺された」になってしまいました。
天智天皇は暗殺されたのではないかと書いておられる方は居られましたが、天武天皇は暗殺されたと書いた書物はありません。このような結論に至ったのは、これまで書いてきました歴史の流れと日本書紀が元になっています。

日本書紀より、天武天皇近辺の人々の病気・死亡の記事を抜粋しました。
3年2月27日    紀臣阿閉麻呂     死亡   壬申のときの部下
4年6月        大分君恵尺     死亡   壬申のときの部下
5年6月        四位栗隈王     死亡   壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病 死亡   壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依      死亡   壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君  死亡   壬申のときの部下
5年9月       坂田公雷       死亡   壬申のときの部下
7年4月       十市皇女   とつぜん発病 死亡
7年9月       三位若狭王
8年2月3日     紀臣堅摩呂      死亡  壬申のときの部下
8年3月6日     兵衛の大分君稚見       壬申のときの部下
8年3月9日     吉備大宰の石川王   死亡
8年5月5日  吉野の会盟
8年6月26日    大錦上大伴杜屋     死亡
8年7月17日    葛城王         死亡
8年8月25日    大宅王         死亡
9年5月21日    小錦下秦造網手    死亡
9年5月27日    小錦中 星川臣摩呂  死亡
9年7月05日      犬飼連大伴    見舞う 
9年7月20日    飛鳥寺の弘聡僧    死亡
9年7月23日    小錦下三宅連石床   死亡   壬申のときの部下
9年7月25日    納言兼宮内卿五位舎人王  発病 死にかける
9年7月26日    舎人王        死亡
9年9月27日    桑内王       自宅で死亡
9年11月10日    皇后  発病  平癒
9年11月16日    恵妙僧を 見舞う
9年11月17日    恵妙僧          死亡
9年11月26日    天皇 発病 平癒
10年2月29日    阿倍夫人(天智天皇の嬪)  死亡   681年
10年2月30日    小紫位当摩公豊浜     死亡
10年8月11日    大錦下上毛野君三千(ミチヂ)  死亡
11年1月18日    氷上夫人(天皇の夫人)  宮中で死亡
11年2月       小錦下舎人連糠虫      死亡 壬申のときの部下
11年3月       土師連真敷         死亡 壬申のときの部下
11年6月12日    殖栗王           死亡
11年7月9日     小錦中膳臣摩漏     病気
11年7月18日    小錦中膳臣摩漏        死亡 壬申のときの部下 
11年8月28日    日高皇女(草壁皇子の女)  病気
12年6月3日     大伴連望多          死亡 壬申のときの部下
12年6月6日     高坂王            死亡
12年7月4日     鏡姫王(藤原鎌足の室)   病気
12年7月5日     鏡姫王             死亡
12年8月2日     大伴連男吹負          死亡 壬申のときの部下
12年5月19日    直大参当麻人広麻呂       死亡
14年9月24日  天皇健康が優れない  大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させる685年
14年10月8日  オケラを煎じさせる
14年10月10日  束間温湯に行幸しようとする
朱鳥元年3月6日    直大参羽田真人八国   病気に    (686)
朱鳥元年3月25日                死亡   壬申のときの部下
朱鳥元年5月9日   侍医の百済の人億仁  病気 死にそうになる
朱鳥元年5月16日  体の調子が悪いので、祈願を依頼する
朱鳥元年5月24日  天皇病気重くなる
朱鳥元年9月9日  天皇 死亡         116日で死亡   686年
〇 この表から考えたことを記しますと、
① 天皇が具合が悪くなりはじめたのは、14年9月24日。ほぼ 一年後に死亡
② 病気が重くなって死亡までの記事が全く無い。
③ 天武5年から急に死亡者が増える。
④ 殆ど、壬申のときの部下であり、この部下には、位を増やしている。大切な部下ばかり15名が死亡した。信頼於ける部下が殆ど(?) 死んだか?
⑤ 6月、7月、8月、9月の死亡が多い。
⑥ 突然死亡というのがあります。 人間なかなか突然には死にません。普通は、何か作為があると考えます。
以上のことから推察できることは、これらの内、多くの人は、毒殺されたと思えます。
しかも、毒物の種類は、6月~9月に効果を発揮する毒物(毒草)が想像されます。
天武天皇は、 8年5月5日の辺りで、変だと思われ、吉野における会見となります。
14年9月24日自分の身体の調子が悪くなり、古事記の編纂を稗田阿礼に命じたと思われますが、日本書紀には、勿論記されていません。
14年10月10日に束間温湯に行幸しようとする記事があります。なぜ 果たせなかったか理由は書いてありません。631年に舒明天皇が、647年に孝徳天皇が兵庫県の有馬温泉に行幸されていますが、其のときの人数は、少なくとも100人、多ければ400人になろうかと思われます。この際、行幸道が問題です。武庫川が使われたと推察できます。この川の両岸にある神社名は、天皇にとって安全な神社ばかりです。
このようなことを考慮すると、ちょいと温泉というわけには行きません。
行けなかった理由は不明ですが、私は部下が居なかったのが大きい理由ではと思います。
仮に、毒殺だとしますと、病気重くなってから、116日で崩御されています。飲む量によりますが、気づかれないようにするには、是ぐらい日数が必要な毒草となります。天智天皇も似たような日数で崩御されていますから、毒殺された可能性があります。
〇 川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首以上は、日本書紀の編纂にかかわったと見られる名前ですが、誰も死んでいません。
8年5月5日  吉野の会盟とは、この日、吉野宮にお出ましになり、6日に草壁皇子尊、
大津皇子、高市(タケチ)皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキノ)皇子(天智天皇の皇子)を集めて、千年後でも事がおこらないようにしたいと思うと述べ、皆に、事をおこさないように誓わした。
 千年どころか、直ぐに事が興りそうであったから、このような会合が持たれたことになります。
もっと 他のところから、可能性があるか調べる必要があります。
可能性があれば、日本書紀の編纂に携わった人は、天皇の反対勢力の人達であり、それ故に、天武天皇は、古事記の編纂を、字にしないで、頭の中に仕舞って置くように稗田阿礼に命じた意味が解明されることになります。
そのためには、天智天皇より前からの歴史を正しく知ることが必要になりますが、その最大の資料が日本書紀ですから、日本書紀は勿論のこと、手が加えられたであろう古事記も、書かれていることをそのまま、読んだのでは正しい歴史を知ることが出来ないと思います。

如何でしたか? このような事情があったからこそ、古事記の制作を急ぐ必要がありましたが、実際に出来たのは元明天皇の和銅五年になります。それまでは、作ることが出来なかったことになります。712年に完成しますが、直ぐに、世の中からは消滅し、400年後に写本が発見されることになります。 


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銀河 秋彩(ginga0526@nifty.com)

『万葉集』の【裏】は、【大倭(やまと)国・九州近江&豊国王朝
●蘇我大王家〔秋〕聖武太上天皇の勅撰史書】。

鳥翔成 有我欲比菅 見良目野母 人[ネ土]不(レ)知  松者知良武
鳥となりて(鳥翔成)あり通ひつつ見らめども人こそ知らめ松は知るらむ  山上臣憶良(巻2・145)
鳥【統治者】となりて(鳥翔成)あり通ひつつ見らめども人こそ知らめ松【物部系(夏)】は知るらむ (巻2・145)
「(法隆寺境内の)藤ノ木古墳」=【孝徳天皇(唐で客死)と有間皇子(定恵19歳)との合葬陵】
有間皇子(定恵)は、伯父の大海人皇子に殺された。「天知る、地知る、赤兄(大海人皇子)知る」

  大海人皇子に依る、舒明天皇【鎌足】暗殺歌
夕されば小倉の山に伏す鹿【鎌足】し今夜は鳴かず寐ねにけらしも  雄略天皇【大津皇子】(巻9・1668)
夕されば小倉の山に鳴く鹿【鎌足】は今夜は鳴かず寐ねにけらしも  岡本(斉明)天皇(巻8・1515)
【みのもんたのCM、「大事な事なので、二度言いましたよ」の如し。】

天智天皇は、大海人皇子(▼鷹派物部氏・夏)に拉致され、五年後に殺されています。
  (新羅王武烈=唐軍の百濟鎮將・劉仁願)天智天皇(■大伴氏・春)の
   拉致、暗殺歌
巨掠(おほくら)の入江響むなり
射目人【{天智天皇(春)を拉致した}大海人皇子(夏)】の
伏見が台居に雁渡る【天智天皇(春)を拉致し、のちに暗殺】らし (巻9・1703)

推古太上天皇、大倭(やまと)国に復するも、大海人皇子に毒殺される。

  君臨者・額田王・大田(十市)皇女(秋)毒殺歌【統治者・天武(夏)に毒殺される】
みもろの三輪の神杉已具耳矣自得見監乍共寐ねぬ夜ぞ多き  高市皇子(巻2・156)

「壬申の乱」&「磐井の乱」を経て、大海人皇子、即位して、
【外来征服王朝・天武天皇(高句麗の淵蓋蘇文=倭王・多利思比孤)】に。

春【■天智系大伴氏(春)弘文朝】過ぎて夏【▼天武朝】来たるらし
白妙【斯廬(しろ・新羅の古名)絶え=新羅王でもある弘文の死】の
衣【弘文の死装束】乾(干)したり【乾坤(意味は、天地)の天。干すなら、可汗(王)】
天の香の来山【高(句)麗王・淵蓋蘇文=天武】 持統太上天皇(巻1・28)

近江の海 夕波千鳥【チチ、チチと鳴く父・弘文天皇】汝が鳴けば
心も死ぬにいにしへ思ほゆ   人麻呂公・大津皇子(巻3・268)

  聖徳太子(大津皇子)の、崇峻(天武)天皇弑逆歌
天の海【大海人皇子(▼鷹派物部氏・高句麗の淵蓋蘇文)】に
雲【◆藤原氏】の波【●蘇我氏】立ち
月の舟【復活倭国▼天武天皇の死】
星【豪族】の林【ニギハヤヒ(大国主命)・布留御霊(▲鳩派物部氏)】に
漕ぎ隠る見ゆ
  人麻呂(摂政太政大臣、雄略天皇・大津皇子)歌集(巻7巻頭歌)

 『万葉集』(巻一・一)の「雑歌・雄略(即位)歌」は、
 【裏】に隠された、【大津皇子即位歌(諡号は、雄略天皇=聖徳太子)】。
  【裏意(真意)訳】=和歌山の古代史家・宮本八束氏の吏読(イドゥ 或いは リト)訳。

  ●【国盗り歌(裏意・真意訳)】
「至急告知するぞ。知りて服し仕えよ。世の人を安堵せしめる泊瀬朝倉の
高御座(たかみくら)に至急服し仕えよ。汝、臣民よく聞け。
この大和の国に、法令によって我は王座にある。我こそは天皇なり……」


by 銀河 秋彩(ginga0526@nifty.com) (2012-01-07 23:37) 

銀河 秋彩

邪馬壹国(筑紫平野)は、【やまい国】と読む。
【やまと】ではない。
君臨者・卑弥呼(邪馬)&統治者・司馬懿(壹国)である。
その司馬懿の「懿」のヘン(偏)が邪馬壹に使用されている。
by 銀河 秋彩 (2014-06-19 08:45) 

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