SSブログ

No367 邑久郡の秦氏 [日本の歴史]

浦上 宏氏のホームページの中に、「須恵郷の秦氏」があります。
http://www.hpmix.com/home/uraura/F2.htm
浦上氏は、二人の秦氏の資料を掲げておられます。以下引用させて頂きます。
秦勝小国
 平城宮木簡に「備前国邑久郡旧井郷秦勝小国白米五斗」という調の荷札と思われるものがある。旧井郷の比定地は不明であるが、秦氏が居住していた郷であることは間違いなかろう。当時の邑久郡は吉井川東部の岡山市、瀬戸内市、備前市香登から海岸沿いで播磨国の境までが邑久郡であった。
秦造国足・秦部国人
 『正倉院文書』に「備前国邑久郡積梨(つなし)郷戸主秦造国足戸口秦部国人沙弥慈良が積梨郷に本貫(本籍地)を持った」旨の文書がある。積梨郷の比定地は牛窓町長浜と邑久町虫明から備前市鶴海にかけての2カ所が候補地であるが確定していない。いずれにせよ秦氏が居住していた郷であろう。 

又、地名として、次の文章を載せておられます。
旧邑久郡域(昭和30年以前の邑久郡)の秦氏に関係する地名 
   松尾ー邑久町尻海。
   松尾坂ー備前市鶴海。
松尾は秦氏の氏神松尾神社を祀った社地に因むものであろう。
   幡・幡池ー牛窓町牛窓。
   半田ー邑久町山田庄・邑久町山手・牛窓町牛窓・牛窓町長浜・牛窓町
       鹿忍。
   半田利(利は里の当て字か)ー岡山市下阿知。
   畑・高畑山ー長船町東須恵。
 秦は幡・半田・畑と当て字されている。半田はハタが訛ったものであろう。 
 
畑、畠の地名は無数にあります。本当の畑地であった可能性のほうが、強いのですが、浦上氏は、次の資料を書いておられます。
現在の畑集落は「備前国絵図」(正保元年(1644))に「東須恵ノ内畠寺村」と書かれている。この畠寺村の山中に大聖寺が建立された。畠寺とは大聖寺に由来する村名で、寺域と思われる場所が「本坊」という地名になっている。
 この寺は備前四十八ヶ寺の中に名を連ねているが、いつ建立されたのか不明である。大聖寺文書(慶安元年(1648))によると、本尊は不動明王で寺域には本堂・阿弥陀堂・薬師堂・拾王堂・寂光堂・鎮守堂・鐘楼堂があり、かつて十六坊あったが今は六坊と書かれている。

「東須恵ノ内畠寺村」とあります。畠寺の畠は,秦氏のハタのことで、畑のことではないと思われます。浦上氏は、あちこちにある「半田」地名も「ハタ」であろうと書いておられます。又、服部村の存在したことも書かれています。どうやら秦氏が住んでいたことは確かのようですが、資料では、正倉院文書ですから、8世紀のことになります。

東須恵は長船町の集落です。一度、車で走っただけではよく判りませんが、長船町という名前から推察しますと、この辺りまで、長い船が近くまで来ていたと思われます。その時は、牛窓のほうではなく、北のほうであったと思われます。

写真集http://www.hpmix.com/home/uraura/A4_4.htm#4 に、長船町東須恵の丘陵にある本坊山古墳から出土した陶棺の写真が掲載されています。写真のように切妻形で、複弁蓮華文で飾られています。古墳は7世紀末から8世紀初めころ造られたと推定されています。
と書いておられますが、又かと言われそうですが、これはユダヤ人の陶棺だと思われます。ユダヤ人が、7世紀末頃にいても悪くないのですが、この頃になると、藤原氏の勢力が強くなり、ユダヤ人は出番が無かったと思うのですが、本坊山古墳の時代が、100パーセント間違いが無ければ、絹の生産・収集・販売のシステムは確定していましたが、人種に関係なく、仲良く生活していたことになります。
 浦上氏の資料ばかりでしたが、秦氏の存在は確かなのではと考えました。ただ、最近でも良いのですが、ネット上では、絹が生産されていた痕跡はありません。
次回は、邑久郡の古墳から、探ってみようと思います。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 2

オジャマンガン

書き込みがおもろいので俺も仲間入り。
Vettyさん、いい事教えようか。
「海水が塩辛いのは何でか知ってるか?」
???????????
答えはな「海に塩鮭が泳いでるからよ」
分かるか。
だけど、普通なら冗談で終わるが、Vettyさんなら信じるだろうなあ。
今までのブログ読んでると、そんな人みたいだぞ。
俺のVettyに対する評価。
大方の見方と同じだ。
by オジャマンガン (2006-12-21 17:51) 

vetty

折角仲間入りしてもらいましたが、今年で、【新しい日本の歴史】は中止することにしました。なぜ 止めるかわかるかな? 
皆さんは、私がよく考えて書いていると思っておられるかも知れませんが、2005.05.28 より、どんどん考えては書いてきました。別に、どなたかが書いておられましたとおり、幼児の知識しかないのに、書いてきました。調べるといっても、それほど調べたわけではありません。少ない知識で毎日のように考えました。少ない知識はダメですね。10年後に、生きていましたら、今度は、一つずつ、テーマを決めて書こうと思います。例えば、天武天皇は、わずか、20人ほどのお供を連れて吉野に引退したのに、どうして、壬申の乱で勝つことができたのか? 神武天皇は、どうして和歌山の方へ迂回したのか 私が疑問におもっていることは、100どころではないと思います。できれば、その内の10でも、解明できればと思っています。しかし、 きっと、生きていないと思います。
腹を立てながら、読んで頂きましてありがとうございました。
by vetty (2006-12-23 09:06) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。