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歴史番外編 No6 おん祭と行列コース [歴史番外編]


上が北です。斜線の部分が、興福寺の寺領です。西の南北の線は、「東向通」で商店街になっています。番号23と24の上への延長線上に東大寺大仏殿があります。近鉄奈良駅の少し北へいきますと、奈良女子大学があります。江戸時代には、ここに奈良奉行所があった所です。
おん祭の行列は、県庁前の興福寺の境内の広場から、西へ進みます。近鉄奈良駅の東に道がありますが、狭いので、奈良駅を過ぎた広い道で、左折です。三条通りに出ますと、三条通りをそのまま、東へ進みます。猿沢池を右に見ますと、左に階段があり、その上が興福寺の南大門跡です。しばらくしますと、一の鳥居です。すぐ右側に「影向の松」があります。この松の前で、「松の下の式」が行われます。行列は、お旅所まで続けられます。
 それがどうしたと言われそうですが、このコースが重要なのです。
一の鳥居からは春日大社の領域です。従いまして、「松の下の式」は春日大社の参道で行われます。このまま、東へ進みますと、突き当りが春日大社です。春日大社は東大寺と興福寺に挟まれて立地していることが判ります。春日大社のやや南東に若宮神社が存在します。

これから書くことは、例によって私の想像ですから、話は半分して読んでください。
No5 で述べましたように、おん祭は、若宮神社の祭神である天押雲根命を慰める行事であれば、わざわざ、お旅所まで来ていただかなくても、芸能人たちが、若宮神社へ出向いて神社の前で芸を披露すればいいことです。
 おん祭は始められた年だけではなく、始めた日まで判っています。直接資料を見たわけではありませんから、本を読んでみようと私の周りの図書館で「おん祭」で検索しましたら、一冊はありましたが、皆目ありません。読みにいこうと思っていますが機会がありません。上の図は、今年のコースです。はじめからこのコースであったかどうかは判りませんが、手元にある資料で紹介しますと、行列の順序や服装や馬・採り物を含めて、乱れを糺す基準が、享保15年(1730)藤淳記が書いた『春日若宮御祭礼松下行列図』にあるそうです。私も実物を見たいですが、素人の私ではお願いしても見せて頂けないでしょうね。
 乱れを糺す基準として書いたということは、享保15年までは、そのときの時代によって、どんどん変わったのでしょう。この図を見ますと、その後は、行列の順序や服装や馬・採り物は踏襲されたと見え、現在と変わらないそうです。
 正確なことは確かめていないのですが、行列は、一時、奈良奉行所(現、奈良女子大学)を回っていたと聞いたことがあります。これはどうしてかと言いますと、素人には分かるわけがありませんが、そのころは、奈良奉行所の力が強かったとかんがえると、無理がありません。では、どのように強かったのか、だれに対して強かったのかとなりますと、資料がもっと必要です。この話はこれだけにしておきます。
 行列はどうして、興福寺の周りを回ったのでしょう。上の論法から行きますと、神社より興福寺の力が強かったことになります。
ただ、春日大社は、藤原家の先祖を祀った神社であり、興福寺も藤原家の菩提寺ですから、神社と寺で仲良く行ったのかもしれません。
  この辺りを次回に考えてみようと思います。


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