SSブログ

No369 邑久郡の古墳 その2 [日本の歴史]

下図は、邑久郡の地図です。「古代吉備王国の謎」間壁忠彦・間壁葭子著の裏表紙よりお借りしました。(安仁神社の位置と海岸線に色を付け加えました)

牛窓古墳群の西に安仁神社があります。紀元元年のころは、ここが海岸線でした。右上を見て頂きますと、丸山古墳と書かれた円墳があります。その下に、4つの前方後円墳があります。上から天神山古墳、花光寺古墳です。この3つの古墳について考えてみようと思います。 データーは保育者発行「日本の古代遺跡 23 岡山」を参考。

丸山古墳は、邑久郡ではなく、備前市畠田・福田・香登本にあります。径50mばかりの円墳。竪穴式石室。長大な刳抜き石棺。舟形石棺。長辺の両端に環状の縄掛突起をもつ蓋は屋根型を示す。三軒の切妻家型や円文を浮き彫りにした装飾石棺。
 出土物----石製の盤、合子、器台と壷、巨大な管玉、車輪石、勾玉、鏡30面以上。(仿製鏡) 石棺の石材は、香川県東部の津田湾の南奥地に産する凝灰岩。
天神山古墳も、邑久郡ではなく、備前市新庄にありますが、道を隔てて長船町です。
全長110mの前方後円墳といわれていますが,前方部が細長く端に向かって傾斜しているところから円墳ではないかと言われています。竪穴石室から舟形石棺が収められていたらしい。
 出土物-----玉類、石釧、貝釧、剣、鉄鏃、鉄斧。舟形石棺のなかに、砂岩製石枕があって、佐賀県の唐津湾南方に産する砂岩と推定されている。
花光寺古墳は、邑久郡長船町服部に所在。細長い前方部を南にした全長110m 。葺き石と埴輪。長持形石棺の祖形とも言える石棺。短辺に付属した石囲い状の副室を持つ。
副室出土品---舶載の内行花文鏡、三角縁三神三獣帯鏡、銅族、素環頭太刀、剣、斧、鉄族、ヤリガンナ。 京都の妙見山古墳と類似。

さて、私が集めることのできる資料は、全部かきました。これだけを元にして、邑久郡は
どのような状態であったかを考えて見ます。三つの古墳は、現在邑久郡は、無くなって
しまいましたから、行政区域は異なります。そのつもりで読んでください。
最も重要な古墳は、丸山古墳です。円墳で他の古墳より小さいですが、もっとも権力の
あった人の古墳だと思います。その根拠は、仿製鏡ではありますが、鏡30面以上も出土したことです。漢鏡は、中国製であろうが、日本で作られたものであろうが、私は、漢人の物だと思っています。30枚もどうするのだということになります。これは、部下にどこかの地を任せるときに、渡すために持っていたと考えます。多く持っていた人ほど、部下を大勢持っていたことになります。死んだときには、部下は、貰うことはしないで、必ず埋葬したのだと思っています。当初は、日本に来たときに、中国の上官から与えられましたから、舶載鏡となりました。(この部分は、私の想像です) ところが、崇神天皇の御代に、卑弥呼を通じて、新羅と一緒に、任那を作りましたために、中国は、朝鮮半島経由で日本に来ることが出来なくなりました。そのため、後漢は滅びたのではないか(ここも私の想像です。任那がなくなることに日本は拘りました。何故、拘ったか真相は判りませんが、任那は562年まであったことになっています) この話は、ながくなりますので、別の機会に書くことにします。要は、鏡を古墳に埋葬した人は、原則的には、中国人または、ハーフであったと考えると歴史の流れが良くなります。
「鏡30面以上も出土した」古墳のことは、以前に書きました。覚えておられますか?
No144「椿井大塚山古墳は中国人の墓」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page778.html
No143 「黒塚古墳と三角縁神獣鏡」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page777.html
 30枚以上の鏡が埋葬されている古墳は、そう多くはありません。将校級の人であったと
思われます。それも支配地は、邑久郡というよりは、これらの古墳の北側が主体だっ
たのではと思います。
 次回は、三つの古墳の作られた順番を考えます。私のつもりは、岡山県のみならず、二
本中の古墳を古い順番に並べてみるつもりになっています。そのような事ができるのであ
れば、とうにできています。少々の無理はできると思いますが、あらゆることを念頭にい
れて並べてみます。先ずは、この三つからです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。