SSブログ

歴史番外編 No32孝霊天皇陵(片岡馬坂陵) [歴史番外編]

記紀には、黒田の廬戸宮を都にしたことが書かれています。黒田とは、奈良県田原本
町黒田のことです。孝霊天皇陵は、放光寺の少し南西の小高いところにあります。都のあった黒田からですと、10km弱でしょうか? 離れています。黒田から東に行きますと、崇神天皇の御陵があります。御陵が本当に崇神天皇のものかどうか分からないと言えば、それまでですが、その隣は景行天皇の御陵です。この地に孝霊天皇陵を作ろうと思えば、造れたはずです。このように考えますと、記紀に書かれていることの他に、新しい発見ができるかもしれません。                               
次のホームページにきれいな写真と古事記の孝霊天皇の原文と訳文があります。
http://inoues.net/tenno/kourei_tenno.html

先代の孝安天皇の都は、橿原市と御所市周辺です。ここから、黒田までは8kmでしょうか? 天皇が変わるたびに都を変えたのでしょうか? 孝安天皇の御陵は、御所市玉手にありますから、孝安天皇の御陵は都の近くにつくられました。孝霊天皇陵も近くに造られてもいいはずです。                                             
この頃は、天皇家の勢力範囲でなかったことになります。崇神天皇の御陵と黒田の間に、唐古・鍵遺跡(http://inoues.net/ruins/karakokagi.html )があります。この遺跡は、佐賀県の吉野ケ里遺跡と同じぐらいの大きさです。この遺跡の特徴は、吉野ケ里遺跡と同様に、環濠で囲まれていることです。きっと、攻められたくなかったと思われます。大阪府和泉市の池上曽根遺跡も同じだと思います。神武天皇は、記紀には書いてありませんが、池上曽根遺跡の前を和歌山の方へ、移動しましたから、この遺跡も敵の拠点でしたから、叩いたのではないでしょうか? 唐古・鍵遺跡は敵の勢力が強くて、黒田への進出がやっとであったと思います。
このようなことを書いていますと、切りがありませんが、田原本町黒田の近くに、島の山古墳があります。奈良盆地の中央部、磯城郡川西町大字唐院にあります。
発掘されたときの資料(http://www.kashikoken.jp/from-site/sima.htm )によりますと、4世紀末の築造とあります。ということは、この頃でも、敵の勢力圏であるこれが正しいとしますと、その北にある片岡に御陵を造ったことになり、片岡馬坂陵は孝霊天皇のものでないことになります。
 しかし、片岡馬坂陵のことは、古事記にも日本書紀にも書かれていることです。両方にかかれていることは、正しいと考えていいと思います。また、片岡という地名は、考察していませんが、王寺のところの「片岡」でいいのではないでしょうか? この様に考えますと、島の山古墳は、天皇家の墓ではないのではという気がしてきます。また、4世紀末の築造ではなくて、200年ほど、遡るのではと思えてきます。
「新しい日本の歴史 No371 邑久郡の古墳」において、この古墳の北にある膨大な馬見古墳群は天皇家の古墳と書きましたが、天皇の敵の古墳であったことになります。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c140799 (No371 邑久郡の古墳)

この記事を書いたときは、邑久郡古墳と島の山古墳は関係があるなと考えていました。
文章があちこちに飛んでわかりにくいと思いますが、孝霊天皇陵を訪れましても、ぼんやり、眺めていては、他の御陵とあまり変わりません。これまでに書いてきました達磨寺・片岡王寺との関連も考えながら、歩きますと2000年前にタイムスリップできます。仮に私の推理が間違っていても、楽しい旅行ができます。
ただ、神武天皇は、BC50年ぐらいの人、孝霊天皇はAD100年ぐらいの人、崇神天皇はAD190年頃の人などと思わないと理解できないと思います。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。