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歴史番外編 No39 遺跡ウォッチング [歴史番外編]

私のブログを読んで頂いておられるかたですと、「遺跡ウォッチング」と聞くと、直ぐに、ピンと来るのではないかと思います。NHKのシリーズで、考古学者である金関 恕氏の目と写真家そして、画家の目から見た遺跡の紹介です。きれいな映像で、なによりも気に入っているのは、私が見ることが出来ない空からの映像を入れてくれることです。
先週は、黒塚古墳のことを紹介しておられました。日本史に対する見方がNHKのディレクターと私の見方が違うのは仕方がないのですが、私の意見は賛成される方は数名です。NHKのこの番組を見られた方はどれほどおられるのでしょうか? 金関 恕氏は大阪府の弥生文化博物館の館長をしておられ、しかも、60年も考古学に携わり研究された方ですから、視聴者の方は報道された内容は正しいと思われたでしょう。
 きっと、それで正しいのだと思いますが、私は、一部疑問に思ったことがありますので、書いてみます。黒塚古墳がどのような古墳かは、次のホームぺージに詳しく載っています。
http://inoues.net/club/kuroduka_museum.html (私のものではありません)
次は黒塚古墳発掘調査現地説明会資料 (http://www.begin.or.jp/sakura/kurotuka2.htm 
)
この古墳の特徴を書いておられますので、お借りします。(但し、写真の地図は崇神天皇と景行天皇が逆です)
① 盗難をまぬがれ、石室、鏡などの副葬品もほぼ完全な状態で残っていた。
  ② 国内最多の三角縁神獣鏡33枚が出土。鏡に「師出洛陽」銘がある。椿井大塚古墳と同笵と思える鏡がある。
  ③「三角縁神人竜虎鏡」2形式をあわせ持つ新式の鏡があり、画文帯神獣鏡も特殊なタイプ。
④ 吉備地方と石室工法が類似する。
⑤ 木棺中央部に大量の水銀朱が塗られていた。
⑥ 出土した土器は「壺型」、桜井茶臼山古墳と同種のものと思われる。画文帯神獣鏡も桜井茶臼山古墳に同種のもの有。
  ⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた、甲冑の小札が出土。
  ⑧ 「U字形鉄製品」と呼ばれる、用途不明の鉄製用具。

NHKのアナウンサーは、鏡のことが気になられたようで質問されました。テレビは便利ですね。三角縁神獣鏡の拡大の写真を写しだし、周囲の縁の部分の断面が、三角形になっているところを図で表してよく理解できるようになっていました。私の聞き違いかも知れませんが、先生は、この鏡は卑弥呼が魏の国から、貰った100枚の鏡だと言われました。確かに、一般にはそう言われていますが、この種の鏡は、すでに、100枚を超えて500枚になろうとしているそうです。可能性はありますが、この鏡と同じものは、中国にはないそうですから、違う可能性の方が大きいと考えるのが普通です。正味、僅か25分ぐらいのことですから、こんなややこしいことは言わなくても良いのかも知れません。
 最後に締めくくられた言葉が気になりました。どうして、このような鏡が入れられているのか良く判りません。しかし、大変な宝物であったことは確かですと言われました。
専門家が言われたのに、素人の私が訂正するのはおかしいですが、現在の私たちにとっては、宝物であることは確かですが、当時の人にとっては宝物ではなかったと思っています。
宝物であれば、お墓に入れないで、代々受け継がれて残っているはずです。
 このような疑問は、学問的ではありませんが、大切だと思います。おかしいとなれば、なぜ、三角縁神獣鏡が、無傷でしかも、33枚も沢山出土したのか、判らないでなく、考えませんと、歴史はいつまでたっても解明されません。

そこで、素人の私が挑戦です。
この古墳は、後円部中央に、墳丘主軸に直行して南北方向に竪穴式石室が造られていました。従いまして、古い形になります。出土した三角縁神獣鏡は魏の国から貰ったかどうかは別にして魏の国と関係があるとされています。238年に卑弥呼が魏に使いを送り、鏡を貰ったことが魏志倭人伝に書かれていますので、238年以後ということになります。
 
ヒントとしては、次に考えることは、枚数の多さと盗掘されていなかったということです。お墓が発掘されたときに再度開いた形跡があり、出土物が少ないときは、殆ど、盗掘されたと書いておられます。勿論、あったはずの埋葬物がないのですから、盗掘されたのでしょう。しかし、多くの場合は、割れた鏡が出土することがよくあります。私は盗むつもりなら、割れていても盗んだと思います。金関先生が言われるように、本当に当時も宝物であったのなら、なおさら、割れていても宝であったと思います。割れた鏡が残っている場合は、割るためにお墓を暴いたと考えます。誰が割ったかといいますと、葬られている人を憎んでいた人でしょう。西洋では個人の墓でもあると聞いたことがあります。この場合は、反対勢力の者でしょう。
黒塚古墳は割れていない鏡が出土したということは、割られなかったことになります。これは、被葬者を葬った人が、盗掘されないように墓守をしていたことになります。(ただ、現地説明会資料には、竪穴式石室の北側4分の3に重複するように、大規模な盗掘坑があったこと。埋土中に含まれる瓦器・土師皿等から、盗掘の時期は鎌倉時代頃のことらしい。盗掘坑内からは丹塗りの底部穿孔壷形土器も出土しています。盗掘時期が城郭 <城郭として利用された> によって改変される以前であったため、墳頂に置かれていた土器が混在したと理解していますと書かれています) 黒塚古墳より少し東へ行きますと、国道169号線に出ます。道を渡りますと、崇神天皇陵です。道を渡らないで右折しますと、直ぐに、伊射奈岐神社の鳥居が見えます。その向こう側の森が、天神山古墳です。木櫃の内部に、20面の銅鏡が置かれていました。 両方の古墳は、直線距離で300mほどです。 近くにあることと、鏡の数が多いのが共通ですので、取り上げました。鏡は、普通は1枚とか数枚です。このように多いのは、漢人のなかでも、高級将校ではないかと考えています。勿論、自分の部下に与えるために準備をしていたと考えています。 次に気になるのが、「椿井大塚古墳と同笵と思える鏡がある」ことです。同笵というのは、同じ鋳型を使ったと思えるということです。これはどのように考えたら良いかです。一つは、この頃、すでに、製造する者がいて、製品を売り歩く者がいた。別の考え方は、同じ製作所でつくり、そこは、もう一段上に立つ親玉で、そちらから貰った。後者のほうは、同じ仲間と考えることができます。 椿井大塚古墳とは、奈良の北にある現在でいう京都府山城町にある古墳です。この古墳からも三角縁神獣鏡が三十数面を含む四十面近い銅鏡が出土しています。 ④番の「吉備地方と石室工法が類似する」はどのような点で類似するのか調べていま せんが、もし、本当であれば、吉備の仲間が、奈良へきて築いたのだと思われます。吉備は、神武天皇が東征の時に、難儀をして8年留まったところです。神武東征は、日本中を支配した漢人を討伐するために行われました。 そこで元締めである吉野ヶ里を攻めました。次の漢人の拠点は吉備の国でした。その他、あちこちに基地の役目をするところがありましたが、すべて、何重にも環濠を構築して外敵から守っていました。  その内の一つに、鍵・唐古遺跡があります。 http://www.town.tawaramoto.nara.jp/8.karako_kagi/part/03.woching.html  これは、黒塚古墳を西にいきますと横たわっています。鍵・唐古遺跡のことを書いていますと、切りがありませんので、私の独断を記しますと、鍵・唐古遺跡も漢人の拠点だと考えています。ここのトップクラスのお墓が、黒塚古墳であり、天神山古墳であると考えています。 もう少し、西へ行きますと、馬見古墳群http://inoues.net/club2/umami_kofungun.html があります。勉強していませんので、確かなことは言えませんが、ここも、漢人の古墳ではないかと頭で描いています。  ということは、奈良盆地は鍵・唐古遺跡を中心にして、漢人が支配していましたが、神武天皇からしばらくは、南の方でばん回し、次第に、西の方も支配するようになります。 先日来、歴史番外編に書きましたように、孝霊天皇陵が造られ、武烈天皇、顕宗天皇の御陵が造られています。東の方は、箸墓古墳(卑弥呼?)、崇神天皇、景行天皇の御陵が、これでもかと漢人のお墓を威圧するように造られています。そして、北の方には、平城京の北に、佐紀古墳群が造られました。  と書いてきましたが、調べたわけではありません。今後、この線で調べようかと考えています。 次回へ続く 


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