歴史番外編 No40 黒塚古墳は誰の古墳 [歴史番外編]
No39からの続きです。残りの特徴を記します。
⑤ 木棺中央部に大量の水銀朱が塗られていた。
⑥ 出土した土器は「壺型」、桜井茶臼山古墳と同種のものと思われる。画文帯神獣鏡も桜井茶臼山古墳に同種のもの有。
⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた、甲冑の小札が出土。
⑧ 「U字形鉄製品」と呼ばれる、用途不明の鉄製用具。
⑤から得ることのできることはいっぱいです。得るためには、まず、水銀朱はどのようなものかを知る必要があります。
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。
竪穴式石室に敷き詰められていた赤色の顔料のうち、被葬者が安置された木棺中央部だけに貴重な「水銀朱」を大量に使われ(厚さ4.5cm)、石室内のほかの部分の顔料はベンガラ(酸化鉄)を用い、使い分けをしてあった。
このような使い分けは、弥生中期末の北部九州地方が国内最大の出土例とされています。次いで、吉備地方(岡山県南部)の弥生末期の墳丘墓でも水銀朱を木棺内に厚く敷き詰めた例があります。
これらのことは何を意味しているかと言いますと、黒塚古墳を作った人は、少なくとも北部九州地方と吉備地方から知識を得たか、ここに住んでいた人が奈良の柳本に住んでいたことになります。
⑥の画文帯神獣鏡は、調べていませんが、私の頭の中には、気になって仕方がない鏡です。北部九州地方の古墳には、画文帯神獣鏡が出土していたと思っています。この鏡は、比較的新しく、やはり、高級将校用の鏡であったように捉えています。この鏡は漢人のものであり、ほとんどが中国製ではなかったかと思っています。調べがつけば、また、書いてみるつもりです。
⑦ 高級(高密度)な絹布で包まれた
この部分が私にとっては、一番重要視するところです。漢人で中国から持ってきたと言えば、それまでですが、吉野ヶ里遺跡では、普通の住民の甕棺からも出土しています。群馬県から送られてきた絹の集積地というか中継地だったと思っています。絹は動物性ですから、ほとんど消滅します。この棺桶では、たっぷり使われていたので、少し残ったのではないかと想像しています。
これまでのことから、黒塚古墳の被葬者は、漢人であり、奈良盆地の総司令官だったと考えています。
黒塚古墳と三角縁神獣鏡http://homepage1.nifty.com/o-mino/page777.html
椿井大塚山古墳の周辺の古墳 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page779.html
大分以前に書きましたので、最近の考え方と少し違うかもしれません。
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