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No255 出雲は秦王国だった に拘る [日本大好き]

出雲が秦王国だったとことにこだわっています。隋の国書に書いてあるということ、聖徳太子の時代です。随分、後の世のことですから、書かれていることは、ある程度信頼おけるのではないかと思われるということです。
 隋の人が、九州をめざしてやってきたときは、流されないで、九州にくることが出来たと思いますが、出雲が秦王国に似ていると書いたことになります。
 魏志倭人伝は、240年ころのことですが、この頃から、300年ほどたっています。 
出雲に居た中国人も300年もしますと、どこか日本人に見えますが、隋の人から見ますと、やはり、中国人であり、秦王国の人に似ていると思ったと書いています。

私は、このことが直接、240年ころに出雲に中国人がいたことの証拠にはなりませんが、240年頃、朝鮮半島から九州をめざしてやってきますと、殆ど、出雲から丹後のあたりに流れ着いたとしますと、出雲だけではなく、丹後も魏志倭人伝に書かれている中国の支配地であった30ヶ国であることになりますので、秦王国は出雲だった に拘っています。

の内

それでは、秦王国は出雲だったの解明を続けます。
隋の人が、秦王国の風俗や人種などが似ていると思った「秦」はどこだったでしょう。そのようなことは分かるわけがありませんが、それでは前に進みませんので、書いてみます。

 イスラエルが滅ぼされたのが紀元前722年です。この時のユダヤの十部族の行方が未だに判っていません。イスラエルが滅ぼされて間もなく中国は春秋時代です。西周、燕、晋、宋、斎、秦、楚の春秋時代に西域に一番近い国が秦です。戦国時代になり秦が強力になり始皇帝が即位したのが紀元前220年頃です。『隋書』の著者が秦王国と似ていると述べたのは、どこの国か判りませんが、「秦」の付くものを探しますと、秦始皇帝の秦と大秦があります。

フリー百科事典『ウィキペディアには、
後漢書に、
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。
「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」
安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年~180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年~161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、・・・・」
魏略には
「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」と書かれており、これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる。
 この二つのことから、大秦はローマ帝国のことを云うらしいです。
中国の「秦」は、上に述べましたように、中国の春秋時代の国の名前です。
国の名前の他には、中国の西安の大秦寺に景教碑というものがあります。この碑の上の部分に、「大秦景教流行中国碑と書かれています」景教は、東方のキリスト教がペルシャ国から入唐し栄えたキリスト教で(『景教の研究』佐伯好郎著)と言われています。(635年)
中国の大秦寺は、当初、多くのペルシア人やシリア人が来唐したことで波斯胡(ペルシア)寺と呼ばれていましたが、主メシアの教えの源が、ローマ帝国領のシリア、ユダヤ、エルサレムであることを知って大秦寺と改称(745年)されました。(『景教』川口一彦著) 現在では、中国では、景況が衰退してしまいましたので、景教の詳しいことはよく解っていないようです。
大秦寺と似た寺が京都にあります。「太秦寺」です。読み方は「うずまさてら」です。別名は、広隆寺、秦公寺です。
興味のある方は、
「広隆寺」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA をごらんください。字は似ているものの、一方はキリスト教の寺であり、一方は仏教の寺です。
広隆寺は聖徳太子の発癌で建設された寺で603年のことです。
中国の「大秦寺」と京都の「太秦寺」は関係ないと言われ方もおられますが、広隆寺は帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、秦氏自身、自らを秦の始皇帝の子孫と名乗っているとも言われ、妙なところで、秦(はた)と秦(しん)の始皇帝が結ばれることになります。
また、「太秦寺」は「うずまさてら」と読みますが、秦氏が税金を納めるときに「うず高く絹を積んだ」との説があります。私は、この部分の方に興味があります。ユダヤ人は、紀元前から日本にやってきており、日本の群馬県あたりから、中国、インド、ビルマ、ペルシアを経て、ローマに絹を運んでいたと推察しています。
秦氏のルーツhttp://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/hidecross.html
 
日本の歴史は、絹をめぐって、ユダヤ人と天孫族の人とユダヤ人が三つ巴になった歴史だと考えています。「新しい日本の歴史」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html
のNo20 ぐらいから、書いています。全部読んでいただきますと、そんなことが言えるかなというぐらいの程度です。
 キーワードを「秦始皇帝 ユダヤ」で、WEBで検索しますと、秦始皇帝とユダヤ人 人民中国の教科書問題 望郷の書 鹿島昇/著 がいっぱい出てきます。この本は読んでいませんが、どうやら、秦始皇帝はユダヤ人であるということが書いてあるのでしょうか?
 もし、そうであるとしますと、現在の中国の祖先は、ユダヤ人であることになり、政府としては、許すわけには参りません。しかし、人民中国の教科書問題のタイトルとは結びつきません。このように推察しますと、秦始皇帝はユダヤ人であるという証拠は、いっぱいあったが、これまでの歴代の漢民族の政府によって、抹殺されたのかも知れません。

次回は、日本の出雲にユダヤ人の形跡があるのかどうか、書いてみます。


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