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No300なぞの猿田彦大神 [歴史番外編]

No299は、如何でしたか? No293 猿田彦大神を祭っていた人たちのタイトルで、
 No292では、阿射加神社に祭られている猿田彦大神のことを書きました。は、この辺りに住んでいた悪い神であると鳥越憲三郎氏は、ご自分の著書『伊勢神宮の原像』の中で説明されています。そのために、天皇の軍隊に、攻撃されて度会の五十鈴の川上に落ち伸びていった。その地は、宇治郷です。ここには、猿田彦大神を祖神とする宇治土公の一族が阿射加から移り住んでいたのです。

鳥越憲三郎氏は、ご自分の著書『伊勢神宮の原像』の中で、素晴らしい分析をされて、阿射加神社に祭られている猿田彦大神は、この神社のある阿坂の地のあたりに住んでいたが、天皇の軍隊に、攻撃されて度会の五十鈴の川上に落ち伸びていったことを書いておられます。
しかし、No299に書きました椿大神社の歴史の中には、皇大神宮の御警衛または御用命に奉仕してきたと書かれており、天皇の軍隊に攻撃されたどころではありません。

 鳥越憲三郎氏は、この論に至るには、『倭姫命世記』に書いてあることを元に、論を進められたことを、記しましたが、『倭姫命世記』は、全く、根拠のないことで、そのようなものは、全く信用できないとされている斎宮歴史博物館の学芸員のことをNo294に書きました。

 このように見てきますと、「なぞの猿田彦大神」ということになります。
だけど、おかしいですね。なぞとされるような猿田彦大神を祀った神社が、日本に、2000社もあり、その総本宮が、椿大神社ですと、由緒書きに書いておられるのです。

 その由緒書きには、なんだか、猿田彦大神は、修験神道の元祖として「行満大明神」が、椿大神社に祭られていて、役行者を導いたと書いてあります。導いて役行者は、どこへ来たのか書いてありませんが、その行満大明神が、椿大神社の神主の山本氏であり、山本氏は猿田彦大神の子孫が、山本氏であるような理解できないことがいっぱい書かれています。

結局、山本氏にしても、鳥越憲三郎氏にしても、斎宮歴史博物館の学芸員も、自分は正しいと言われるものの、よく理解できないことばかりです。
伊勢神宮の近くにある「猿田彦神社」宮司の宇治土公(うじのつちぎみ・うじとこ)氏も、猿田彦大神・大田命の末裔とされていますから、愈々、なぞは深まります。

そこで、私も仮説を書いてみようかと考えています。
猿田彦大神は、最も、古くかかれている所は、古事記です。ニニギ命が高天原から降りてくる時に、天の八衢で、ニニギ命を待っていたことになっています。
その神の様子は、日本書紀の別の本とされる第一書に次のように書かれています。
「一柱の神が天の八街にいて、上は高天原から下は葦原の中国までを照らしています。その鼻の高さは七握、背の高さは七咫あまり、まさに七尋というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは赤酸鞘漿に似ています」
このことから、この神は、「猿」であるとされたり、「天狗」であるとされていますが、どうして、全国で猿田彦大神を祭るとされている神社が、2000社もあり、そこで、猿や天狗をお祭りしているのか、説明できなければなりせん。
 確かに、顔が赤酸鞘漿のように赤いものとすれば、猿と天狗ぐらいになりますが、鼻が長いとなりますと、天狗に決定します。

日本書記が作られたのは、720年です。この頃には、すでに、全国に猿田彦大神を祭る神社はあったはずですから、祭神の猿田彦大神は、どのような神であったかは、日本書記を書いた人は、解っていたはずです。どうして、第一書にこのようなことを書いたのでしょう。
 その点、古事記は、天の八街で待っていたとのみ、書きました。書いてない分、日本書記は、詳しく書こうとしました。しかし、本当のことは、知らなかったのだと思います。そのようなときは、どこでも、第一書から、多くの別書を掲載していますから、確かめてください。
 これだけ、いろいろの説があると書いてあるから、日本書記の方が、古事記より正しいのだと思われています。

 退屈でしょうが、次回から、私の猿田彦大神論をかきますので、読んでください。


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コメント 2

太郎

 >全国で猿田彦大神を祭るとされている神社が、2000社もあり、
  
  三重県にこれだけ 縄文 銅鐸 そして 銅鏡 さらに 伊勢神宮まで
  賑やかだったこと・・・
  猿田彦大神 興味深く 感じます。
by 太郎 (2008-02-13 19:20) 

vetty

三重訪問 2月11日と12日と三重県走ってきました。行きたいところがいっぱいで、予定していた国分寺跡、都波岐神社は、向って走りながら、暗くなりましたのであきらめました。雪の中、名張市の夏見廃寺は感動モノでした。ここは、お近くの方は、お勧めです。ここが天武天皇の冥福を願って建てられたとすれば、この地は天皇家にとって、安心できる所だったことになります。そうしますと、壬申の乱のときには、戦に参加してくれる人も多かったと納得できるのですが、伊賀から発掘されるものは、中国人のものと思われるものが多く思われます、これが正しいとしますと、敵陣を突破して名張・伊賀を抜けたことになり、困ったことになります。残雪の廃寺、そして、展示館は素晴らしいものでした。 三重県の縄文、弥生のデーターを、三重県の人にWEBで公開してほしいです。
by vetty (2008-02-14 07:28) 

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