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No299椿大神社と猿田彦大神 [日本大好き]

椿大神社の創立の由来は、神社のホームページに、
「当社は、伊勢平野を見下ろす鈴鹿山系の中央に位置する高山(入道ヶ嶽)短山(椿ヶ嶽)を天然の社として、太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、人皇第11代垂仁天皇の御代27年秋8月(西歴紀元前3年)に、「倭姫命」の御神託により、大神御陵の前方「御船磐座」付近に瓊々杵尊・栲幡千々姫命を相殿として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。
 このように社殿創始は垂仁天皇の御宇でありますが、それ以前、悠久の太古、原始人類に信仰の芽生えを見た時、既に大神の尊崇と本社創建の淵源は存したと言わねばなりません。 即ち神話に伝える「天照大神」「猿田彦大神」の時代であります。
 天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に「道別の神」として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に「椿(道別)大神の社」として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。」
この後に、猿田彦大神の御神徳と題して書かれてありますから、読んでください。

神社で頂戴してきました由緒略記には、その後に、「発展の歴史」のタイトルで、次の様に書かれています。
「猿田彦大神の神裔(直系子孫)であり、神代以来連面として当社に奉仕してきた山本神主家は往古猿田彦神族の長として、当社地を拠点とし伊勢地方を掌握していたが、時あたかも垂仁天皇の御宇、皇大神宮の伊勢御鎮座にあたっては、神族を遣して、皇大神宮の御警護、又御用命に奉仕した。神族の代表とも云うべき太田命あり大御鐉進の奉仕を勤め、当社と神宮との間には千数百年間、御贄の神事として存続された事についても明らかであります」
 説明は、まだまだ、続きます。
本当に、皇大神宮の御警護などをしておられたのでしょうか? このようなことを書いたものが、残っているとは書いてありませんが、山本神主家に、言い伝えられているのかも知れません。

椿大神社は、「つばきおお じんじゃ」と読むのではなく、「つばきおおかみ やしろ」と読みます。どうして、このような読み方をするのでしょう。 椿大神を祭った社という意味だと思われます。
 少し、探ってみます。

神社で頂戴してきました由緒略記には、御祭神として、
 主神(しゅしん)  道祖 猿田彦大神
 相殿 (あいどの) 天孫 瓊々杵尊 御姥 栲幡千々姫命
 前座(ぜんざ)   道祖神裔 行満大明神
 別宮(べつぐう) 道祖配祠 天之宇受女命
 合祀(ごうし) 八百萬神
  と書かれていますが、前座(ぜんざ)は聞きなれないものです。
   道祖神裔 行満大明神 これも意味が良く判りません。

猿田彦大神の別名として、由緒略記には、「大行事権現」「土公神」「佐田彦大神」「衢の神」「千勝明神」「精大明神」「塞神」岐神「大地主神」「白髭多明神」「供進の神」「山の神」「庚神様」「道別大明神」「椿大明神」の名前があげられています。
そして、その後に、
【大神の神孫「行満大明神」は修験神道の元祖として、本宮本殿内前座に祀られ、役行者を導かれた事蹟など、古来「行の神」として、神人帰一の修行・学業・事業目的達成守導のあらたかな神として古くより尊信されております】

ということは、「行満大明神」も、猿田彦大神の別名という意味らしいのですが、そのようには書いてありません。

次のホームページは、≪椿大神社≫どなたのホームページか判りませんが、由緒らしきものが、4つも掲載されておられます。ここには、少しずつ違ったことが書いてあります。
 はじめの3つは、いつか判りませんが、椿大神社の由緒に書かれていたものだはないかと推察します。

その中に、次の文があります。
 【当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。(行満神主の頃に獅子舞が創始され、当社の獅子舞は日本最古とされている。)
 仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。(サルダヒコ神の末裔であり、山本氏の祖でもある行満大明神は修験の祖として役行者を導いたとされる。)
 その後も神威を発揚していたが戦国期の天正11年(1583)に羽柴秀吉による織田(北畠信雄)領であった伊勢亀山侵攻により社殿古記録焼失。天正14年に復興。
 明治4年に郷社。昭和3年に県社列格。昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。 昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいる】


「地祗猿田彦大本宮」と呼ばれるようになった証拠となるようなものとして、<全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年>の文を掲載しておられます。 全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であるのであれば、なにか組織的なものがあるはずですが、よく判りません。もし、本当であれば、全国にある2000社と呼ばれるあるサルダヒコ神を祀る神社のうちのどこかに書かれてある筈です。まだ、調べていません。 もう一つ疑問に思ったことは、延喜式神名帳に掲載されている石神社が、合祀されて別宮としてあることです。この神社は、鈴鹿市小岐須町の小岐須渓谷の南岸、鈴峯鉱山の北東にある白色石灰岩が露出し切り立った奇岩を神体とする。敏達天皇が当国に御幸のとき天照皇大神がこの岩上に顕現したと伝える。かって社殿はなかった。今はあるそうです。明治12年9月、石神社の社名で村社格に列す。同末年の神社整理によって椿大神社に合祀。このことは、社頭掲示板に書かれているそうですから、確かなのでしょう。 理解できないのは、遠く離れているのに、どうして合祀なのか判りません。

このほかに、境内以外にある別宮が、4社書かれています。もう一つの疑問。別宮として、境内に椿岸神社があります。どうして、別宮になったか説明はありませんが、同じ名前の椿岸神社は、四日市市智積町684番地 (三重郡智積村字御所垣内)にもあります。両方の椿岸神社に獅子舞の神事が伝えられています。四日市市の椿岸神社に伝わるものには、「社伝によると、奈良時代、椿岸神社は椿尾(坊主尾の西方)にあり、天平14年(740年)、聖武天皇が伊勢国へ行幸した時に、椿尾山中の椿の木で獅子頭を2つ作り、一つを現・鈴鹿市山本町の椿大神社に、他の一つを当神社に奉納したとされています。 その獅子頭二頭は、同木で作られた姉妹であると言われており、互いに会いたがっていると伝えられています。椿神社の獅子舞は、3年に1回、椿岸神社社殿前で奉納され、その時、椿岸神社の獅子頭は社殿に据え置かれますが、これはそうした理由によると考えられています。(しかしながら、実際には、永年、椿神社の獅子舞は、3年に一度、つまり丑、辰・未・戌の年に北勢地方の村々を訪れており、椿岸神社だけに訪れたわけではありません。」 とあります。ここに書かれたものからすると、鈴鹿市山本町の椿大神社も関係があったことになりますが、椿大神社の境内に椿岸神社があったとするのは、不自然です。椿大神社も椿岸神社(四日市市)も宮司の名前は、山本氏になっていますから、関係はあったことが想像できます。

もう一つの疑問 境内に延喜式内社の縣主神社が合祀され鎮座します。これは、平成10年に合祀されたとあります。

その他に、高山土公神御陵(サルタ彦のお墓)など、あまりにも全部揃い過ぎて不自然です。椿大神社の由緒の書き方が、よく理解できませんが、古い資料なども総合しますと、【山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという】という記録が残っているということは、山本神主家は、一時にせよ、自分たちの先祖は、行満大明神であったと思っておられた時もあったように理解できます。

 猿田彦大神のことを知りたいために、猿田彦大神を祭る総本山と称される椿大神社を訪れました。平成20年2月11日のことです。別に、大祭があるわけではなかったですが、神社内の駐車場に駐車するには、難儀するほどのいっぱいの参拝者が訪れておられました。一之宮と称されるに足る参拝者で、拝殿では祈祷を受けられる方でいっぱいでした。 このような様子を見ていますと、頭が益々、混乱してきます。  

 どうして、「つばきおおかみ やしろ」と読むのか、探ってきました。仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名としたことは書いてありましたが、猿田彦大神が、別名、椿大神だということは、見つかりませんでした。


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