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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(3) [神社からさぐる歴史]

この地図を見て、いくつかの事が頭に浮かびました。
①丹波国が書かれていますが、この西の部分も丹波でした。民謡で有名な丹波・篠山のある所でした。

②桑田郡がどうして、こんなに南北に広いのだろう。

③平安京は、山城国に囲まれていること。
 

①から順番に、考えた事を書きます。
 その為に、丹波国は、どのような所であったかを調べます。

ウィキペデイアを拝借しますと、
律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。そのため現在では丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもある。7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離し、後世まで長く続く領域が定まった。

 律令国成立は、何時と考えるかとなりますと、私の能力外になります。一応、私は、令制国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となると考えています。
 国政に携わった人も、その積りで、日本で初めての元号である「大化」を宣言しましたが、其の後、しばらくは続かなかったと思います。
 律令国成立を機会として、丹波は、丹波と但馬に分割されたのではないかと想像しています。其の後、713年に、丹後が、丹後が分割されたと理解しています。

 この713年という年は、重要な年であったと思っています。なにがあったのかと云いますと、712年に古事記が完成されました。
 この古事記のお陰で、藤原氏一門の人は、大騒ぎになったと思います。
この話は、ここまでとします。

②前回書きました様に、この辺りでは、人の流れは、竹野郡から相楽郡に向かって、北西から東南に流れていたはずです。それに交差するように、桑田郡が設定されています。
 この考えは、現在の私が、地図を見ながら云えることですが、当時の人も分っていたかどうかです。
 ただ、平安京の遷都が決定されたのは、793年ですから、丹後が分割されたのと、桑田郡は関係が無いかもしれませんが、ここは重要な所だったのではないかと考えています。

 どうして重要かと云いますと、ここには、国府があったと云われています。
 ここだという場所はわかってはいません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD#.E5.9B.BD.E5.BA.9C
 国府が出来た頃は、桑田郡が、丹波国の中心地であり、天皇が丹波を支配していたと考えています。

③平安京は、山城国に囲まれていること。
 見ていただいている地図
http://meijikyototemple2.web.fc2.com/newpage3kyoutohuzennzu.html

は、平安京が、山城国の人に、守って貰っているように見えますが、927年以降は、逆に、
山城国の人に支配されるようになったと思います。
 どうしてかと云いますと、122ある式内社では、天皇の先祖を祀る天照大御神を祀っていないからです。(久世郡の双栗神社だけ)
未完成ですが、次の所に神社を掲載しています。
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page753.html

 式内社は、天皇の敵方に属する人達の集団でした。

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