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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(4) [神社からさぐる歴史]

郡名ばかり書いた京都の地図を見てから、いろいろ、小さな発見をしました。
見ていただいている地図
http://meijikyototemple2.web.fc2.com/newpage3kyoutohuzennzu.html
 には、丹後が書かれていました。

 前回、丹後の資料を記しました。丹波の一部を割いて丹後国を造ったと云う記事です。それが、713年にありました。
 これが私にとっては、重要に思えました。
 
 古事記が完成したのが、712年です。
この古事記を見た藤原不比等は、驚いただろうと思います。
 天武天皇の壬申の乱の時に、従った部下が全員死亡しましたことが日本書紀に載っています。
 次の所に書きましたから、確かめてください。
No.265 天武天皇は暗殺された
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-06-30

吉野からの逃避行は、当初、20人ぐらいだったと推察しますが、15名が亡くなったと云うことは、全員殺されたのと同じことです。

 壬申の乱のことは、大海人皇子(天武天皇)が中心人物です。古事記は、天武天皇が亡くなられてから作られたと思われますから、書こうと思えば、天武天皇のことは書くことが出来ましたが、推古天皇までしか記録されていません。推古天皇以後、舒明、皇極、孝德、斉明、弘文、天武天皇は記録されていません。
 
 と云うことで、壬申の乱のことは、日本書紀に書いてあることが、すべてです。書いてあることを正しいとして、現在の歴史家はどのような戦争であったかを判断して居られます。

日本書紀に書かれている「壬申の乱」のことは、小説家と思えるほど、リアルに、詳細に書いてあります。天武天皇方の人でないと知り得ないことが書いてあります。 これぐらい詳しいと、おかしいなと思わなければいけないです。日本書紀を書いた人の創作が、一杯と考えますと、どの部分が創作かが見えてきます。

 後継者争いなどという恥かしい事は、もし、古事記には書くとしても、もっと違った文章になったと思います。
 そのような記事が、古事記には書いてあったのではないでしょうか。 

もっと、極端なことを云いますと、壬申の乱は、中国人と大海人皇子との戦いで、大海人皇子が勝ったと云う内容だったのかもしれません。

そこで、藤原不比等は、古事記に代る正史に当るものの編纂を考えたのではないかと想像しています。そして、日本書紀は政府が作って、720年に完成したことになっています。(これを正史というらしい)
 
それだけではなくて、天皇家の力を削ぐ事をいろいろ考えたと思われます。

その1が、国の分割です。 
 No361 吉備国の分割 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-09
No362 全国の国の分割 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-11

その2が、風土記の制作---藤原氏が気に入ったのは、出雲風土記だけでした。全部残っています。他の地方の風土記は、藤原氏によって、書き変えられた可能性があります。

その3は、延喜式内社の制定です。天皇家に関係ある人達は、指定されませんでした。関係ある人達でも、祭神を天照大御神は、天照大神か、大日孁貴神 に書き換えさせられたと推理しています。
 この件は、今後、式内社と云われる神社、すべてを、一つずつ、検証しなければなりません。

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