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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(5) [神社からさぐる歴史]

 国の分割は、古事記が出来て直ぐに実行されました。
No361 吉備国の分割 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-09
No362 全国の国の分割 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-11

 上の二つの事から、国の分割は、式内社の制定と大いに関係がある事が分ります。
分割する前は、天皇家の支配力が少なかった所と多い所を分割して、人の動きを制限したのではないかと考えます。現在、日本は、人口が減っているので大騒ぎをしています。人口の多い、東京近郊は、益々、人口が増えて、経済は活発になりますが、減った所では、町や村は崩壊しつつあります。

 No362 全国の国の分割に記しましたが、次の記事が見えます。 分割した後、どうして併合したか その意味が分りません。
716年 和泉国を河内国より分置 (後に併合、更に分置)
718年 安房国を上総国より分置 (後に併合、更に分置)

 分割は、天皇家の勢力を弱めるために行われましたが、900年代になった時には、式内社の数は、丹後は、65社で、丹波と変わりがないぐらいに多く式内社があります。と云うことは、天皇の勢力が強かった所に、式内社が、65社に増えて、天皇の勢力は、へり、藤原氏の望む形になったと思われます。

同じ、900年代になっても、次の所は、式内社は、極端に少ないです。ということは、藤原氏は、式内社を増やすことが出来なかったことになると思われます。

式内社が少ない国 ----  美作 11、備前 26、備中 18、備後 13 

丹後は、残っている風土記には、よく理解出来ないことが書いてあります。風土記は、このように利用されたのではないかと推察しています。
 伊勢の外宮の神は、丹後から行かれた事になっています。伊勢は、内宮は、天照大御神を祀り、外宮は、丹後から遷っていかれた豐宇賀能賣命祀られていますが、900年代の式内社は、253社です。大和に次いで二番目に、藤原氏の勢力の強い所であったことが判ります。
 伊勢神宮とは、どの様な神社であるのかは、どの本を読んでも、判らないことになっています。
 ついでに、近江国もご覧ください。大和、伊勢、出雲、に次いで、4番目に式内社が多いです。
 11月2~3日に、近江の式内社を回ってきました。近江国は、琵琶湖が大きくて、住む所が少ないのに、式内社が多いです。即ち、藤原氏の勢力が強かった所です。一日目に、三上山登山にエネルギーを使い過ぎまして、予定していました式内社を全部行くことが出来ませんでした。2日目は、小野神社、日吉大社、建部大社を訪れました。後者は、大社と呼ばれるだけに、立派な神社には驚きました。帰宅後、少しだけ、神社の歴史を眺めましたが、何度読んでも複雑で理解できません。

 伊勢は、天照大御神を祀っていますから、天皇家の勢力範囲と思われるでしょうが、252の神社に囲まれて、天皇家の人は、連絡をとることも出来なかったと推理しています。
 そこで、助けに行ったのが、豐宇賀能賣命ではないでしょうか。

式内社の少ない所をピックアップしますと、美濃、飛騨、信濃、志摩です。此の辺りは、天皇の勢力が強かったので、式内社は、造れなかったことになります。 ここは、壬申の乱の時に、大海人皇子に、兵力を提供した所ではないかと推理しています。伊賀の式内社も調べてください。大海人皇子は、壬申の乱の時には、この地を訪れています。援助を受ける事ができなくても、襲われる心配は少なかったと推理しています。

天皇は、藤原京から、平城京、難波京、長岡京、平安京と遷都しました。
なぜ、遷都したかは、いろいろ理由はあるでしょうが、天皇の命が危険になったからでしょう。
 
 日吉大社、建部大社が大きくなったのと、平安京ができたのと、どちらか先だったかは、これから調る積りですが、天皇は、山城国の式内社だけで、充分、囲まれてしまいました。
 その上、大津の日吉大社と建部大社は、藤原氏が重要視したのではと思います。
それは神社の大きさが示している様な気がします。一度訪れてください。

 天皇は、山城国に加えることに、難波、大和、近江との多くの式内社に二重に囲まれて、明治を迎えるまでは、動きが取れなかったのではないでしょうか。

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