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小さな発見・新しい発見  式内社に囲まれた平安京(61)  日吉大社(56) 大山咋神(10) [神社からさぐる歴史]

「葛野」の「野」の部分は、野原の野だと思います。「葛野郡」は和名類聚抄に掲載されているそうです。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書で、承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂したとされています。
 と云うことは、これ以前に存在していたことになります。

国郡里制は、いつ頃出来たかと云いますと、ウィキペディアに拠りますと、
701年(大宝元)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。

 以上の事から、「葛野郡」は、701年より800年の間には、出来ていたのではないでしょうか。
 しかし、帷子の辻の近くにある「蛇塚」と云われる古墳は、古墳時代後期の6世紀末から7世紀頃の築造とされています。
写真
http://ameblo.jp/121real-deal/entry-11731716697.html

「葛野郡」は倭名類聚鈔に(加度乃)と記されているそうです。(カドノ)と読むのでしょう。しかし、「葛野郡」は中国語読みでも、日本でも(カドノ)とは読みませんから、外には、朝鮮半島から移住した人なども書いて居られる方は有ります。特に多いのは、「秦氏」と書いて居られる方が多いです。

 ただ、漢字のことですから、やはり、漢字から追及しようと思います。

「葛野」は、葛が一杯生えていたこと、この葛が、繊維として使われた事が分かっています。布、織物の生産に関係があった人達が渡来したと考えられます。
 しかし、この人達が、大陸から、織物をするために渡来したとは考えにくいですから、
 来てから地名を付けたと思います。

「葛」の漢字は、『字通』に拠りますとクサカンムリと其の下の「曷」とが合わさって、作られた漢字だと書いてあります。曷の漢字は、カツ、ガチ、なんぞ、いつか。「曷」を使った漢字には、渇、喝、褐、輵、羯、などがあります。 乾いていると云う意味がある様ですが、全部がそうではありません。

「曷」の漢字には、もとめる。なんぞの意味があります。この漢字は、上の日の部分と下の部分に分れますが、(かい)と読んで、意味は「求める」です。『字通』には掲載されています。


曷は日+旬(日の部分が亡)に「何ぞ」と「訓」し、旬(日の部分が亡)声とするが、字は会意。日は祝祷の器であるうつわに祝祷をを収めた形。(? ? ? ?)
旬(日の部分が亡)は屍骨の形。屍骨の呪霊あるものに祝祷を添えて祈る意で、神に謁し、喝し、愒して愒し災厄をとどめ歇ませる。そのようにして祈り求めることを原義とする。

 以上ですが、知らない漢字と、言葉ばかりの羅列で、私には重荷の部分です。


ただ、先に記しました渇、喝、褐、輵、羯は、全て、曷から派生して出来は漢字と思われます。

 松尾大社の近くにやってきた人達は、太秦の人達より、早く入植したのではないでしょうか。
「葛野」は、始めは、「葛」しか採れない野原でしたので、お墓にするところとして利用し、時あるごとに、屍骨の呪霊あるものに祝祷を添えてお祈りをしていたのではないでしょうか。屍骨とか、呪霊という聞きなれない言葉があり、気持ちが悪い気もしますが、総て漢字で存在すると云うことは、入植した人達は、お祈りをしながら、亡き人達と一緒に生きようとしておられたのではと考えます。
 根拠はは、有りませんが、平安京を作った人々ですから、その人数は、10000人を超える人々であったのではと推理しています。

 そして、「葛野」と呼ぶようになったのではないでしょうか。

6~7世紀になってからの古墳は、つぎのような物があります。
(以下、ウッキペディアより拝借)
蛇塚古墳をはじめとして右京区の嵯峨・太秦地区には数多くの古墳があったが、都市開発によって消滅したものが多い。現存するものとしては以下のものなどがあります。
• 天塚古墳(国の史跡) - 古墳時代後期、全長71mの前方後円墳。全長10mと7.5mの2つの横穴式石室を有する。
• 千代ノ道古墳 - 古墳時代後期、直径16mの円墳。横穴式石室を有する。
• 双ヶ岡古墳群 - 雙ヶ岡(名勝) にある古墳時代中期の古墳群で、20基ほどある。なかでも1号墳(一ノ丘古墳)は直径44mの円墳で、蛇塚古墳に匹敵する巨石を用いた横穴式石室を有する。
• 大覚寺古墳群 - 古墳時代後期。4基の古墳のうち1号墳(円山古墳)、2号墳(入道塚古墳)は陵墓参考地。3号墳(南天塚古墳)は喪失。
• 甲塚古墳(かぶとづか) - 古墳時代後期の円墳(墳丘は全壊)、横穴式石室。「安堵の塔(ルルゲさん)」は石室の一部と伝えられている。
• 垂箕山古墳(たるみやま、片平大塚古墳・仲野親王高畠陵) - 蛇塚の北方500mにある前方後円墳、墳丘長75m。蛇塚古墳と同じく古墳時代後期に属するが、築造は6世紀中葉とされる。垂箕山古墳は保存状態がよく、現在は宮内庁が管理している。
小さいお墓で、3世紀頃の古墳の遺跡は発掘されていないのでしょうか。

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