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小さな発見・新しい発見  7つの銅鐸発見(18) [神社からさぐる歴史]

 「中山王国文物展」を見られた田村氏が、感銘されたものを三つ挙げました。
二つ目は、「金の首輪をした大型の犬が二頭埋葬されていました」です。

この事は、日本大好き No133 イザナギは中国から来た 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-23

に書きましたから、こちらをご覧ください。

そして、「犬」の字が付く、地名を探してください。見付かりましたら、その周りに、伊弉諾神を祀る神社はないか調べてください。
もし、見付かりましたら、遺跡が有るか確かめてください。あれば、黒陶器は出土していないか確かめてください。

 これぐらいにしまして、三つ目の十五連盞燭台に一杯いました猿の事です。
イザナギが、中国の中山王国からやって来たのではないかと、田村氏は、推理されました。
 それは、私でも、推理しました。どうしてかと云いますと、私は式内社を出来るだけ訪れようと思っています。
 全部で、3300社程ありますから、生きている間に、全部は行くことは出来ません。
 そこで、私なりに基準を決めて訪れています。
 例えば、有名な神社。立派な神社、例えば、神武天皇を祀った神社を総て行きたいとかです。
 岡山県津山市一宮に中山神社があります。 ここは、地名一宮にあるからです。当然、この神社はこの地方の一の宮です。
  随分以前に行きましたが、台風が通過して、社が痛み、修理中でした。それで、隈なくみてまわりましたら、裏山に小さな祠が中腹に、へばりつくようにしてありましたので記憶に残っています。
帰ってから、調べましたら、猿が祭神でした。

[中山神社]をキーワードにして検索しますと、ウィキペディアが、詳しい様に思います。
どの方も、猿神社は、気になったようで、書いて居られますが、ここに書いてある以上のものは有りません。

正面から解明する気になりますと、やはり、祭神が大切です。
ウィキペディアに依りますと、
主祭神
• 鏡作神 (かがみつくりのかみ)
相殿神
• 天糠戸神 (あめのぬかどのかみ)
• 石凝姥神 (いしこりどめのかみ)
『延喜式頭注』には大己貴命、『作陽誌』には吉備武彦命、『大日本史』『神祇志料』には吉備津彦命と記されている。他に金山彦命とする説もある。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』では、当社の祭神は猿神であるとされている。
社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707年)4月3日の創建とする。ただし実際には和銅6年(713年)、美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けて創建されたものとみられている。

貞観6年(864年)に官社となった。『延喜式神名帳』では「美作国苫東郡 中山神社 名神大」と記載され美作国唯一の名神大社に列したほか、美作国一宮として崇敬を受けた。

おかしいですね。式内社が制定されたのが、927年ですから、この時には、美作国唯一の名神大社になっていましたが、創建の713年には、美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けて創建と有ります。これが正しいとしますと、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社ですから、最初に式内社に制定された神社と云えると思います。
 式内社に制定されますと、国から幣帛を受けることが出来たとされています。では、幣帛とはどういうものかと云いますと、幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献する、神饌以外のものの総称で、「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すとウィキペディアでは述べています。
『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などとも記しています。
 こんなものと云えば、叱られるかも知れませんが、現在残っている式内社は、建て物しか知りませんが、どうして、これほど大きな建物を立てなければならなかったか疑問に思っています。
 上に記しました幣帛を国から貰っても、この建物を維持する費用にもなりません。
 時代は最後になりますが、[明治〜大正期の幣帛料]が、次に記されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%B8%9B#.E6.98.8E.E6.B2.BB.E3.80.9C.E5.A4.A7.E6.AD.A3.E6.9C.9F.E3.81.AE.E5.B9.A3.E5.B8.9B.E6.96.99
 記された幣帛の価値を分析する能力は有りませんが、どう見ても、式内社に制定されると、経済的に式外社よりも有利になるものは無いように思われます。
と云う事は、式内社に制定されますと、政治的に有利な物が有ったと考えるしかありません。
 712年は、古事記が出来た年です。その次の年は、全国でに風土記を作るように命じられた年だと思います。

このように見てきますと、中山神社は、一番に、藤原氏の神として、造られたと推理しています。
 猿神社は、それ以前から、祀られていた社ではないでしょうか。

証拠は、なに一つ有りません。有るとすれば、祭神がいい加減です。
このいい加減さは、当初は、イザナギとイザナミが祭神であった中山神社が、鏡作神として、再出発することになったのではと推理したりしています。
 どうして、神が猿ではなくて、イザナギとイザナミとしたかと云いますと、この辺りの人達は、中国の中山神社からやって来た人達ですから、神社の名前が、同じ中山神社であるという田村誠一氏の説が頭に有ったからです。



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