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小さな発見・新しい発見  7つの銅鐸発見(19) [神社からさぐる歴史]

古事記に登場する[猿]は、『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神と記され・『日本書紀』では猿田彦命と表記されています。  何故、同じ書物なのに、三通りの名前があると思われますか。

ウィキペディアでは、次の様に記しています。
邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た。 邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。  日本書紀では、猿田彦命と呼びますが、次の様に記されています。 猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。


と云う事は、猿田彦命は、伊勢国の出身と云うことになり、その証拠と思える様な神社が、伊勢神宮の近くにあります。その名は、猿田彦神社です。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E7%94%B0%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 
 猿田彦を祀る神社は、全国に2000社有るらしいですが、その総本社とされているのは、猿田彦神社ではなくて、
 鈴鹿市の椿大神社ということになっています。 何故か、説明された方は居られません。

 中山神社の猿神社から、えらいスケールの大きな話になってしまいましたが、
椿大神社は、伊勢国の一宮、中山神社も美作国一宮です。両社とも、式内社ですから、900年代には、藤原氏の支配する神社になった事が判ります。

 祭神の猿田彦は、天津神ではなく、国津神です。

 太安万侶は、国津神の猿田毘古神をどうして、取上げようとしたかをもう少し、調べる必要が有るかと思います。

そこで、伊勢神宮の近くにある猿田彦神社と椿大神社に行ってきました。両方とも、立派でしたが、私には、神が居られるようなものは感じることは出来ませんでした。

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