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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(42) 大津京(2) [古墳から探る歴史]

天智天皇が亡くなられた後、大津京はどうなったかです。

 一言で言いますと、天智天皇の長男の大友皇子と天智天皇の弟の中大兄皇子戸が、皇位を争って、喧嘩をしたことになっています。県下とは云わないで、普通は、壬申の乱と云います。

ウィキペディアは、次の様に書いています。
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。


次のブログに上手く書いてありますから、ご覧ください。
壬申の乱!
http://www12.plala.or.jp/rekisi/jinnsinn.html
 ここにかかれたことをすべて、丁寧に検証しますと、これだけで、一年かかると思います。

 そこで、私は大友皇子の事だけに絞りたく思います。

大友皇子をキーワードにして、google で検索しますと、

大友皇子即位説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E8%AA%AC と云うことは、大友皇子はどのような人であるかではなくて、

大友皇子が即位したという事の方が、重要だと云うことです。
 即位したと云うことは、天皇に成られたとい事です。

江戸時代まで、「即位」されたと云うことが、論戦の中心に成ったのですが、明治時代に成って、弘文天皇の名が与えられました。
 ウィキペデイアでは、次の根拠が書いてあります。
• 友皇子即位説の論点
o 2.1 平安時代の即位記述
o 2.2 『日本書紀』の編纂方針
o 2.3 太歳記事と『日本書紀』改刪説
o 2.4 『続日本紀』の「内大臣より君十帝」
o 2.5 薬師寺東塔銘文の「即位八年庚辰」
o 2.6 『懐風藻』の「天命果たさず」
私は全部は全部は調べていませんが、殆どが、藤原氏と漢筧があるしょもつであることを確かめて下さい。

特に、22の『日本書紀』の編纂方針をご覧ください。厖大な文章が現われてきます。私は読んではいませんが、日本書紀と見れば、特に注意して読んでください。

日本書紀派、大友皇子は、壬申の乱で、自殺をしたと書かれていますから、スマートに、「自害」と記していますが、どの様な方法で自殺をしたのか確かめていません。

 自殺をしたかも知れませんが、中大兄皇子と、損だんして、自殺を選んだと考えています。
 このような事は、日本書紀にも書いてありません。


①天智天皇は、発病してから4ヶ月で亡くなられました。
②天武天皇も、発病してから、4ヶ月で亡くなられました。

③ 壬申の乱のときに、死ななかった天武天皇の家来の殆どが、戦の時ではなくて、其の後、死んだことが日本書紀に書いてあります。

 このような事から、天智天皇も天武天皇も、暗殺されたと考えることが出来ます。
そうであれば、大津宮を造った中国人は、続けて大津に住んで居ればいいのですが、大津京は、5年程で消滅しています。

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