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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(41) 大津京 [古墳から探る歴史]

 天智天皇が住んで居られた大津宮は、錦織2丁目にあったことは確定しました。
 しかし、そこには、平安京や難波京の様な碁盤の目の道路が在ったのかと云いますと、南北に一本あったことは分っていますが、外の道路は、発掘はされていません。

だからと云って、大津京は無かったとは断定できません。

しかし、発掘されたときの精しいデーターは有る筈です。冊子になっている筈ですから、求めて調べればいいですが、買い求める軍資金が有りません。

 今後、新しい発掘が行われましたら、その都度検討を加えたいと思います。

最後に、もう一つのデーターを紹介しておきます。

林 博通著 『大津京』の86ページ~109ページ迄に、『大津京の実態』のタイトルで、発掘された時の精しいデーターを記されています。ここは、仕事に携わられた方でないと、理解が困難のように思われますが、私でも、解ることが書いてありました。

90ページに、二つの写真が掲載されています。一枚には、<図56 門の柱穴および柱抜き取り穴>と記されています。
 これでは、意味が良く解りませんので、本文をみますと、
柱が、西から、2.55m・2.85m・2.64m・2.72m・2.56m・2.70mの数値を得、戸ありますから、柱が、この間隔で並んで建てられていたことが分ります。その柱の太さは、略30cmです。
 柱は、全て抜きとられているが、その抜く取り穴はその抜き取り穴は、桁行方向の2柱を1組として抜き取るように設けられている。

 すこし、意味不明ですが、どの柱も、穴だけで、柱が無いと書いてあります。はしらは、木材ですから、腐ってどの穴にも柱は無いのですが、柱があって、腐って無くなったのと、人為的に、柱を抜いて穴を埋めたのでは、明らかに違いが分ると書いてありました。

柱を抜いたと云うことは、建て物は壊されたと云うことになります。 どうして抜いたのでしょう。
 大津への遷都は663年ですから、大津京が又、移動することになったのは、5年後の668年になります。
 いつの時代でも、直径が30センチメートルの木は何処にでもある物ではありませんから、必要のなくなった門柱は、壊して、他の建て物に使われたのでしょう。
 そのように大きな木を使って誰が、何を建てたのかを調べる必要が有ります。

 外のページでは、柱が、一本だけが抜き取られた所も取上げておられました。

 天皇が亡くなられた後は、大津の町は どうなったかご存じですか。 

次回に書いてみます。

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