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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(129) 壬申の乱(80) [古墳から探る歴史]

田辺昭三著 『よみがえる湖都 大津の宮時代を探る』59頁に次の文章が有ります。

 湖西縦断  三度目の挑戦
 大津の宮推定地として有力な、滋賀里、南滋賀、錦織は、いずれも旧滋賀郡内にある。一九六〇年代に入って、此の地の遺跡に対する調査は少しずつ増加していったが、その発掘規模はどれもそれほど大きなものではなかった。
 そうした状況の中で、かねてから計画されていた国鉄湖西線の建設が、本格的にはじまることになり、その工事にさきがけて路線上の遺跡を発掘調査をする話が持ち上がった。
 湖西線関係の遺跡については、はやく一九六七年(昭和四二)に国庫補助をうけて、路線上の分布調査を実施していた。延長七七キロにおよぶこの路線は、ほぼ湖西の平野部を南北に縦断しており、既知未知の多くの遺跡がその計画線上にあることがわかっていた。なかでも、穴太から錦織までおよそ三・四キロにわたる範囲には、大津の宮推定地の有力候補がすべて入っており、また有名な滋賀里縄文遺跡もこの範囲内であった。
 結局、この三・四キロをわたしが主担して掘ることになり、調査委員会と調査団の編成にかかったのは、一九七〇年(昭和四五)の秋のことである。滋賀県文化財保護課、日本鉄道建設公団の担当者と再三協議をかさね、翌年三月から二年にわたる調査をはじめたのである。
 この調査は、もともと対象は大津の宮関係にかぎっていたわけではなかったが、新聞やテレビはいっせいに〝幻の都へ三度めの挑戦〟とか〝幻の都はどこに・・・・〟という大見出しで報道した。
 鉄道路線の範囲を対象とする考古調査は、いわゆる遺蹟の全面発掘蝶さとは違った方法をとらなければならない。幅約一〇メートルの路線上に、わたしたちは一メートル四方を単位とする網目をかぶせるように調査区を設定し、その区割りに従って作業を開始した。
 地形や事前の調査で遺跡であることがところはわかっているところは、許されるかぎり全面に発掘し、その他は二〇メートルの間隔をおいて四メートル四方の試掘坑をあけ、土層の堆積状況などをしらべて古地系を復元するための資料とした。こうして春から夏へ、夏から秋へと、一〇〇人前後の全国各地から参集した学生を中心に、発掘を続けていた。

発掘の様子は、まだまだ続きます。全部読んで頂きませんと、『よみがえる湖都 大津の宮時代を探る』の著者の書かれた事は理解出来ません。

 一言でいえば、一年二ヵ月に及んだ、発掘から分ったことは、溢れる程あるのですが、【大津京】があった証拠は、なに一つ無かったことが記るされています。

【大津京】があった証拠とは、発掘した時に出土した須惠器や土師器ではなかったのです。
南北に三・四キロにわたる鉄道の工事現場では、大津京であれば、存在した筈の碁盤の目の大路が、次々現われる筈でしたが、発見出来なかったと記して居られます。

 大津京は無かったが、それでも、大津宮は有ったのだと書いて居られます。
有ったとしますと、そこでは天智天皇が住んで居られた事になります。
仮に、大津京は無かったが、天智天皇が住まわれて政治をして居られたとしますと、
少なくとも、朝堂院にあたる建物はなくては政治をおこなうことは出来ません。

しかし、大津宮は、錦織二丁目に存在たことは、確定とされています。
これは、大津宮ではなくて、天智天皇が住んでおられた住居跡と云わなければいけないのではないでしょうか。

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