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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(128) 壬申の乱(79) [古墳から探る歴史]

昔から、大津京のことを研究された方は大勢居られました。どの研究者も先人がアタックされた方法をご自分の本に紹介して居られます。
 古い所では、田辺昭三氏は、次の様に記しています。

 平安末期に編纂された『日本紀略』という史書の中に『日本後記から引用した「近江国滋賀郡古津は先年の旧都である」という記述がある。近江の宮は、、滋賀郡打ちの古津にあったというのである。この記述が事実を伝えているとすれば、古津という地名をつきとめることによって、宮の所在地をあきらかにすることができるわけである。
 この外にも、『聖徳太子伝略』917年(延暦)成立があります。この中に、聖徳太子大使が大津の宮遷都を予言したくだりがある。「駕を粟津に駐め、左右に明治元年神社改正の際て曰く。吾死してのち五十年、一帝王あり。都を此処に遷し、国を治めること十年」。
 このように、伝承されたものから、大津宮を推理したり、旧滋賀郡内に残された小字から、「御所の内」「宮の内」などから、大津宮のあった位置を発掘したりすることに依って、大津宮の存在を推理して居られます。
 
 しかし、近江京という資料は、次の所に残るのみです。
▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
避當有危歟。」或有人奏曰、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」
 上記の所に、「近江京」は確かに、残っているのですが、「自近江京至于倭京」は、後ろにある倭京は、倭という京(みやこ)という意味です。近江という都より 倭(やまというみやこに至る を表していますから、近江京は 京域を表してはいません。
 と云う事で、京域を表す 大津近江京という言葉、資料の上では、一例もない事になります。

 このように見てきますと、大津京は無かったのに、研究者は、研究成果を本の形に発行されました。そして、どの方も、大津宮は、大津市の錦織2丁目に見つけたと発表され、現在で、確定したことになっています。

大津宮 http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
 このブログの写真は、天智天皇が住まわれた建物があったことに確定されました。
 広さが書いてありませんが、我が家の敷地100坪ぐらいかなと思いました。
 勿論、建物は有りませんが、柱の有った位置と太さを表す柱が模型で作られていました。 天皇はこんな狭い所に住んで居られたのかと思いました。我が家の柱は、10センチもありません。遺蹟の柱の太さは、30センチは有ったでしょうか。
 いくつか写真が添付されていますが、第2地点とか、第9地点の写真が有ります。
 これは、各々が離れた地点に存在します。

 次の所に、第4地点説明図が有ります。  ここに、分れたある地図が表示されています。きっと、これまでに、発掘された所の位置だと思います。
http://ryobo.fromnara.com/palace/p038-4.html

 この地図全体が、大津京なのか、発掘された所では、家が建っていた事は分りますが、発掘されていない所は、発掘すれば、住居が見付かるのでしょうか。
 いえは、飛びとびに建てられていたのかは判りません。

 この辺りが、大津宮は見付かったが、大津京はあったとは言えない点でしょうか。

次回は、紹介しました大津京に関する書物から、疑問点を書いてみます。

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