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小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(131) 壬申の乱(82) [古墳から探る歴史]

ここから此処までが、大津京と云う遺蹟は見付かっていません。
 しかし、錦織二丁目一帯に、大きな建物の門の一部やその門の東に延びる廻廊の一部が見つかりました。
 ここを第1地点検出遺構と呼びます。
 この近くでは、全部で8ヶ所の遺構が見つかっています。

image1.JPG
 
次の所に、その一部の写真や記事を見ることが出来ます。
 大津宮
http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm

この地図の真ん中辺りに、第1地点があります。その北に、第7地点、その北に第6地点、第3地点、そのやや西北に第4地点の遺構が発掘されています。

 第1地点のやや、西南に第2地点遺構が見つかっています。

 それぞれの遺構ははなれて発掘が行われましたから、広い範囲に大津宮の建造物跡が見つかったことになります。

それぞれの遺構についての詳細が、林博通著 『大津京』に記されています。
 
ここで注目する記事が書いてあります。
①どの遺構からも焼土や炭・灰などは検出されず、建物の消失を示す痕跡はまったく認められなかった。

②柱の埋め土はいわゆる版築工法で付き方めた状況が縞状の層となって現われていた。いずれも柱は抜き取られているが、2本の柱を一連の抜き取り穴を設けて抜き取るという方法が多く取られている。 柱は円柱で直径30cm前後と推測。  『大津京』89頁


上の資料から、私が考察したこと。
①の事から、壬申の乱の時は、戦は、大津宮には波及しなかったことが判ります。

②のことは、どの様に判断すれば良いのでしょうか。大津の宮を去る時には、住民たちは、前もって、柱を抜き取って、どこかで利用したことになります。

 普通は、いくら大きい柱でも、腐って無くなってしまいます。柱のあった所を、この例のように、注意深く観察しますと、抜き取った跡が判ったと云うのですから、プロは凄いですね。

瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、戦は終わりましたから、其の後、柱を抜き取って運んだ人がいたことになります。
 燃やしたのではなくて、再利用するために抜いたのだしょう。どこへ運んだのでしょうか。

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