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神話ではなかった古事記・古事記の神話(3) [日本の歴史]

前回に続いて、田村誠一氏が、見られた古事記の神話を紹介します。

古事記神話の誕生(3)
 天孫すなはち天照大神の孫のニニギの命が高天原から高千穂に降りた話も神話である。
筑紫の日向の高千穂がさすがの本居宣長にも理解出来なかった。
 日向の国の高千穂に降りたので、高天原はこれよりも高い所と考えられ、空想の天国を考える外なかった。
 高天原は大山・蒜山国立公園の蒜山高原(正確には中蒜山の海抜679米の台地)にあった。
 高千穂は倉吉平野の大栄町の現在も、高千穂の地名があった。ここからの大山の山容は文字通り高千穂である。古事記に書かれた通り、韓国に面して居り、海岸は北条砂丘であった。古事記に「カササの浜」と書かれたのは砂丘が笠の砂で、笠砂と呼ばれたのだ。
 筑紫の日向とは「ツクシのヒムカ」で、蒜山を降りたにすぎない。
 原生林に覆われた時代には、人の住める所は木の生えてない、「木尽し」の場所が欲しい。
「木尽し」が「ツクシ」と呼ばれた。



私よりの一言---木の生えてない=「木尽し」は、少し、強引な所が有るように思えますが、地名を付けた人の時代に遡って、筑紫は、どうして名付けられたのだろうと考える時、まんざら、強引ではないようにも思えます。
 
 田村氏は、古事記に登場する地名は、現地を訪れますと、殆ど、当時の情景が残っていますと書いて居られます。

倉吉平野の大栄町に「高千穂」という地名が現在も有りますが、「ここからの大山の山容は文字通り高千穂である」と書いて居られましたので、私も体験しようと「高千穂」を訪れました。
 一泊し、二日にわたって、その山の様子を見ようと思いましたが、山派見ることが出来ませんでした。
 田村氏は、高千穂を眺められただけではなくて、北条砂丘(カササの浜)迄続く、広いなだらかな地帯から、見える家は取り払って、太安万侶と稗田阿礼が眺めた風景に浸られた事でしょう。

 太安万侶は、神武天皇はこの辺り一帯を支配していましたと述べたことになります。
 
 そして、この地に、「宮内」という地名が残っています。 天皇が住まわれた御所の在った所ではないか。

追記---ナイスを頂きましたが、 このように考えますと、地名から歴史を考えることは重要だなと思っています。 
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