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記紀(8) - 日留山人 - [日本の歴史]

日本書紀には、一書に云わくの、独特の書き方がある。しかも、この書き方は、桓武天皇以降にはないと申し上げる位しか、発生しない。
 神武東征で、古事記には筑紫の岡田宮に1年、安芸のタケリ宮に7年、吉備高島に8年も天皇は滞在された。
 この滞在された付近には、沢山の神武天皇を祭る神社が密集している。沢山の屯田兵を集めたためだろう。
 この東征は、近江中心の銅たく圏の征伐だと述べて来た。銅鐸圏は瀬戸内海にまで、拡がっていたので、征伐に長年月かかって、当然である。
 しかるに日本書紀は、天皇は筑紫の岡水門に1月、安芸の埃宮に1月、吉備の高島に3年滞在されたと書かれている。
 なぜこの様に全く異っているのに、一書に云わくと書かなかったのか。一書もなかったのではないか。
 これに反して、神代には、一つの出来事に一書に云わが、10位も登場するのである。
神話の本は沢山あったと信用出来ないのだ。



第13話 建国の日は正しかった  92ページ より 引用



私からの一言
 日本書紀は、安芸における宮城の名前を「埃宮」と記し、古事記とことなる名前にしました。しかも、滞在は、「1月」と記しました。 これでは、宮城を建てるだけでも、1ヶ月を要すると思われます。

「埃宮」とは
「埃」
「漢字 ム 矢」にて検索
「つちへんに、「ム」、「矢」です。
https://kakijun.jp/page/hokori10200.html

「埃」
「塵埃(ジンアイ)」、「涓埃(ケンアイ)」、「煤埃(すすぼこり)」、「埃及(エジプト)」」

 埃と云う漢字は、どうやら、「ほこり」という意味があるようです。

日本書紀は、どうして、宮城の名前を「埃宮」としたのでしょう。古事記では、多祁理宮(たけりみや)と記されています。

神武天皇が東征のときに、立ち寄った地
https://nihonshinwa.com/archives/4375#i

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