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古事放談  4-6  日留山人 [日本の歴史]

崇神天皇は東北までの中国の基地を相当して「初国治らしし天皇」と呼ばれた。しかし九州、四国は天皇勢が船を失ったので景行天皇の御世に討伐が行われた。
 しかしこの時全国に中国人、北鮮人の敗残兵が残ったのである。
 応神天皇、仁徳天皇は一時的に侵略された摂津河内に都を移して、巨大な前方後円墳を築いて敵に天皇の勢力を誇示した。
 この御陵に従事したのは敗残兵だったと考えてよいだろう。しかし天皇には軍隊がなかったのである。
 敗残兵を収拾したのが倭の五王である。河内だけを考えても主権者はこの様に何代も変ったと考えるべきである。
 従って古墳や遺跡の年代が絶対値でないことには古墳時代と云われても漢の将軍、雲南系天皇、倭の五王 ? と入り乱れて歴史は謎につつまれることになる。
 漢の勢力が最も強かった時代の造山古墳等が最もデラックスでよかったのである。


古事放談  4-6   100頁より引用


私からの一言
  崇神天皇は第10代と云われています。
 参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

崩御 崇神天皇68年 120歳

一般に、初代天皇から崇神天皇までは、実在しなかった天皇と云われています。
しかし、日留山人の捉え方では、激動の時代でありました。


①このページで一番素晴らしいのは、
「 応神天皇、仁徳天皇は一時的に侵略された摂津河内に都を移して、巨大な前方後円墳を築いて敵に天皇の勢力を誇示した」です。


日本に存在する古墳の大きさは、実際に歩いてみないと理解出来ないと思います。

遠方の方は、三日は費やして、歩いて下さい。

②このページには、あまり、歴史には登場しませんでしたが、吉備の巨大古墳が気になりました。
 ここは、あまり歴史には登場しません。どうして、吉備で巨大古墳が多かったかは、歩いて見学しては解かりません。解かりませんと云うよりは、範囲がひろすぎて、歩いて見学は、大変です。私は車で十分だと思いました。
 カーナビが優秀でした。
地図が表示されるのですが、同じ名前の山の名前なども表示されて、頭は混乱させられました。

③多くの歴史書を読んでいましても、この様な中国人や朝鮮人に、ほぼ、占領されたようなれ歴史はありません。


④崇神天皇の参考資料を記しておきましたので、クリックしてご覧ください。
産まれた日と崩御された日も記されています。
 こんな昔に、詳しすぎると思われますが、記事を丁寧に見ますと、資料は日本書紀が一杯目に付きます。

日本書紀は正史で、古事記は、偽書という資料が一杯あります。
私は逆だと思っています。
 崇神天皇の120歳は、態と日本書紀を作った人がしたことだろうと推察します。 しかし、100歳ぐらいは、生存されたのではと考えています。

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