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歴史番外編 No20 鐸比古鐸比売神社 [歴史番外編]

所在地 大阪府柏原市大県4-6-1  近鉄大阪線堅下駅東へ600m。
祭神:鐸比古命・ぬでひこ、鐸比売・ぬでひめ。
その他のデーター
① 神社の裏山の高尾山の山頂に鐸比古神社が、そして、その東山腹に鐸比売神社がありましたが、両社とも延宝,元禄の頃、現在の地に遷座と伝えられています。両神は高尾大明神と比売御前と呼ばれていたとWEBにありました。
② 古くこの地は大縣郡に属し大里郷大縣村といわれていました。
③ 姓氏録河内諸藩に「大里史、太秦公宿禰同祖、蓁始皇五世孫融通王之後也」とある。
④ 祭神鐸比古は和気清麻呂の祖、垂仁11の皇子鐸石別命(沼帯別命)の末裔といわれる。
⑤ 岡山の和気神社は、この社の御分霊を祀る。清麿公は12世孫である。
⑥ 本殿の中央:鐸比古、左:鐸比売、右:猿田比古。
⑦ 式内社である。

これだけの資料から、考えることにします。
No19で書きましたように、鐸比古鐸比売神社の裏山は高尾山です。この山は、他の高尾山では、目印にされたらしく、二等辺三角形の形をしているのが多いです。それだけではなく、ある重要な地点から東西南北に測量したように思える山に名前が付けられています。
http://www.hcn.zaq.ne.jp/caarc303/page360.html その高尾山が裏山だけではなく、山の頂上に鐸比古神社が造られていました。祀られている両神は高尾大明神と比売御前と呼ばれていたという伝えが正しいとすれば、鐸比古と鐸比売は後の世になってから変えられた可能性があります。11代の祟神天皇には、多くの妃がおられ、当然、子供も沢山おられます。丹波から来られた氷羽州比売命の妹である沼羽田入毘売命と結婚して産まれたのが、沼帯別命、伊賀帯日子命の二人です。沼帯別命は、どのように呼ばれていたか解りませんが、「ぬたらしわけ」と呼ばれていたのではないでしょうか?
古事記には、沼帯別命と書かれていますが、日本書紀では、妃の渟葉田瓊入媛は、鐸石別命と胆香足姫命を生んだと記されていますから、鐸石別命と沼帯別命は同じ人物のようです。鐸石別命はどのように呼ばれたかと云いますと、「鐸」という字は、「タク」「カネ」「オオスズ」「フウリン」です。右の部分はエキとタクの音です。『字通』に「ヌテリ」がありますから、日本書紀の編集者は、難儀して同じ人物の漢字表記を書き換えたと思われます。「沼羽田入毘売命」を「渟葉田瓊入媛」は、両方とも「ヌハタイリヒメ」と読むことが出来ます。そのよな馬鹿なことは無いと思われる方は、古事記と日本書紀にかかれている地名と人名は、同じ名前のものは皆無であることを確かめてください。いろいろの伝承があるから、違うと言えば、それまでですが、これほど、見事に一致しないということは、日本書紀の編集者が、古事記を参考にして日本書紀を作ったからだと思われます。そんな場かなことはありません。逆です。古事記の作者が日本書紀を真似て作ったのだといわれるでしょう。別に、其れでも構わないと思います。太陽は地球の周りを廻っている。だれでも、そう思います。地球が太陽の周りを廻っているなどは、信じられません。しかし、他の星と太陽の動き、地球と太陽の動きを観察するだけで、すべて、説明がつくのは、地球が太陽の周りを回っているとした方が、全て説明がつきます。この理屈は、信じられていたものの、説明は大変なものでしたが、月へロケットがいくようになりましたら、簡単に勝負が付きました。コンピューターが計算する通りにロケットは行って帰ってきます。
古事記の作者が日本書紀を真似て作ったのだといわれる人は、先ず、古事記が完成したのは、712年であり、日本書紀が完成したのは、720年であるという記録は間違いであるということを説明しなければなりません。相当苦労して日本書紀の方が、古事記より先に作られたことを説明しておられる方がおられます。
いくらでも理屈はつけることが出来ます。古事記の垂仁天皇と日本書紀の垂仁天皇の記事の量と内容を比べ見てください。日本書紀のほうが断然多いです。(本当かなと思われた方は、ご自分で記紀の訳本を買い求めて確認してください) これでは、古事記をみて日本書紀は作ることは出来ません。逆は簡単です。日本書紀はいっぱい書かれていますから、適当に割愛して、古事記を作ったと考えればいい事になります。ところが、神話の「いなばの白兎」部分は、古事記にはありますが、日本書紀にはありません。この部分は、古事記の著者である太安万侶が、稗田阿礼が古事記を作るに当って、資料集めの旅行中に聞いてきた、昔話を、「いなばの白兎」の話として書き留めました。その文を後世の人が勝手に、丸裸にされた神話に仕立てました。日本書紀の作者は、訳が判りませんから、書きませんでした。このような調子で、記紀を読み比べてみますと、全体から日本書紀の編集者が、古事記を参考にして日本書紀を作ったことが判ります。自分で調べるのが苦手な方は、途中まで、記紀を比較した文を書いていますから、読んでください。
「楽しい人生」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/の中のカテゴリーで「古事記と日本書紀」をクリックしてください。

次は⑥に猿田比古の名前が見えます。この人は、ニニギ命が、高天原から、降臨してくるときに、道案内をした人ということになっています。猿とありますから、猿のような顔をしていたのでしょうか? 赤い顔が印象的だったのでしょうか? 猿田比古は重要な人物ですから、調べる気になりました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page627.html 猿田比古を祀る神社は高知や広島だけで一杯です。驚いて中止にしました。猿田比古は、道案内が出来るはずですから、あちこち、全国をくまなく歩いていた人だと思われます。
鐸比古鐸比売神社の祭神は、漢字を書き換えられましたが、天孫族の人が、初めは住み付いた考えています。そして、720年以降900年ぐらいまでの間に、藤原氏の支配を受けることになり、式内社となったと思われます。
この辺りのことを以前に書いていました(忘れていました)。 No201~207まで。
No201 柏原市の高尾山 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page853.html
No203 柏原市の古墳http://homepage1.nifty.com/o-mino/page853.html
No204 柏原市の式内社 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page856.html


歴史番外編 No19 天湯川田神社 [歴史番外編]

 No19 天湯川田神社  所在地 柏原市大字高井田89  場所は近鉄安堂駅とJR高井田駅との中間。柏原市役所の方からみて、左手、踏切を渡って直ぐ。山の上にあります。
祭神: 天湯河板拳命・あまゆかわたな(天湯川桁)
相殿:天児屋根命・あまのこやね、大日霊貴命・おおひるひめむち、
天児屋根命は中臣連の祖といわれ、中臣鎌足、藤原氏の祖となります。
大日霊貴命は『日本書紀』においては天照大神と記されますが、天照大神の別名になります。
この神社も、No18の御野県主神社と同様、式内社です。御野県主神社と天湯川田神社の間に、鐸比古鐸比売神社があります。この神社も式内社です。この神社のことは次回に書きますが、金属に関係ある神社です。東北700mには高井田横穴古墳があります。その東北に金属に関連する神社の金山孫神社金山女孫神社があります。
 話は飛躍しますが、令制国でいうところの河内国中部にあた現在の東大阪市付近は、古代には河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であったが、次第に海から分離して湖となった。その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化しました。そのときの土砂の多くは、高井田における製鉄による土砂でなかったかと想像しています。
 式内社は、藤原氏が支配した所です。全国にある3000以上の式内社が一斉に決められたのではなく、少しずつ支配下に入り延喜式に式内社として記録されたと考えています。
天湯川田神社は、名前の初めに、「天」が付いていますから、藤原氏の支配下になる前は、天孫系の神社であったと思われます。祭神は、天照御大神でありましたが、鳥取氏の祖である天湯河板拳命を祭神に変り、藤原氏の支配下になってからは、藤原氏の祖である鳥取氏の祖である天児屋根命と天照御大神(古事記の表示)を相殿に祀ったのではないでしょうか? 天照御大神の名前は、大日霊貴命に書き換えられました。誰が書き換えたかと云いますと、日本書紀を編纂した人たちが、書き換えたことになります。
 このように推理をしてきたのですが、なぜ、大日霊貴命の名前を残したのかが理解できません。
初めに祀られていたのは、天照御大神と書きました。その理由は、鐸比古鐸比売神社の裏にある「高尾山」にあります。
http://www3.kcn.ne.jp/~jinlime/takaoyama.htm 
② http://kamnavi.jp/en/kawati/nudehiko.htm

高尾山は全国に沢山ありますが、イザナギ一族が全国に支配地を増やしていくときに、目印とした重要な山と考えています。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html
現在は大阪湾の方から生駒の方を眺めますと、建物があってよく見えませんが、2000年前は、全部見えたと思います。そのときに、高尾山を目指してきますと、奈良へ行くことができます。それだけではなく、頂上に登りますと、大阪平野が見渡せます。当時の人は、10km先の人間でも見えましたから、見張るのに都合の良い場所となります。
所謂、高地性集落が重要な監視所であったと考えます。大阪にある高地性集落はhttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page301.html ここに掲載しています。

あまり書きたくないのですが、この一帯はイザナギ系の人が住んでいたのですが、物部氏の人たちに取って代わられたのではないかと推察しています。物部氏はどうやら、歴史から消そうとした人がいたようで、神社や地名には残っているのに、訳がわかりません。この部分は、最後に挑戦するところと思っています。最も、八尾市よりもう少し北の方と思っているのですが、これだけにします。
このファイルは、元々、宇治市の神社のことを書こうと思って、「縣神社」について書いていましたら、「縣」とはと気になり、「縣」字がつく神社、「縣主神社」。このように脱線したままです。「縣主神社」は奈良に6つもあります。では、「県」はどのようなものかと考えていますと、切がありません。
最後に、天湯川田神社の「湯」は、金属の精錬に関係あることは、いろいろの方が云っておられます。興味のある方は、調べてください。   


歴史番外編 No18 御野県主神社 [歴史番外編]

昨日、御野県主神社に行ってきました。日本の歴史を調べるときに、残された資料を重要視される方が、殆どですが、私は間違っていると思います。特に、日本書紀が正しくて、古事記が間違っていると思われる方が、多いですが、私は両方とも編集した人に都合の良いように書いてあると思っています。日本書紀は特にひどいように考えています。証拠は、今調べている最中ですが、ほぼ間違いないと思われます。
(興味のある方は、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/ の古事記を読むを先に読んで、次に古事記と日本書紀を読んでください)
 では、これらのものは、利用しないのかと云いますと、勿論、利用しますが、これに、神社と地名をプラスすることが重要だと考えています。地名を調べるには、地図は欠かせません。最低、各都道府県は、揃える必要があります。大阪府の地図を用意してください。
 
御野県主神社の所在地は、八尾市上之島町南です。 近鉄大阪線山本の北に位置します。 この神社は、名前が示すとおり、御野県主(三野氏)の先祖である角凝魂命、天湯川田奈命を祀っています。実際に行ってみますとお分かりになると思いますが、カーナビで近くまで行っているのに、町名が見当たりません。電柱に、節分会の広報のビラが貼ってあるのに、見当たりません。仕方がないのでお聞きしました。車がやっと、すれ違えるほどの道を300mほど入ったところにありました。神社の前の道が旧の街道だと思います。上之島町北という地名もありますが、上之島町南一帯が昔からあった集落ではないかと想像しています。
 御野県主神社は、三野県の中心だったのではないかと思いますが、三野氏が支配していた県だしょう。神社の前に建てられている由緒によりますと、三野県は、旧英田村(アカタ)、三野郷村(ミノゴウ)の一帯をのことで、現在の地名で云いますと、東大阪市の水走、松原、吉田、花園(ラグビー場のあるところ)、玉串、そして、八尾市の福万寺、上之島になりますとありました。車で走っても、広大な範囲であることが判ります。それだけ、実力があったことになります。
調べてはいませんが、岡山県にも、三野県があり、最近まで英田郡英田町がありましたが、現在は美作市に組み込まれています。関係があるのでしょう。県(アガタ)は、朝廷が定めたものと云われていますが、朝廷が定めたのであれば、二ヶ所にあるのはおかしいようにも思います。大阪府の英田村と三野郷村は、昭和55年1月15日に河内市になっています。しかし、現在は東大阪市になっています。
 このように、地名はどんどん消えていきますから、地元で、どのように変遷していったか記録することが大切です。
御野県主神社に直接行って、分かったことは、直ぐ東に生駒山系が見えることです。奥は信貴山ですが、手前の山は、高尾山(277m)です。神社の裏に、旧大和川の堤防がありました。地図をごらんください。大和川は、奈良から大阪に出たところの安堂という所で、石川と合流し、西へ方向を変えます。御野県主神社は、安堂よりずっと、北にあります。旧大和川の堤防は、南北に残っていますから、大和川は、安堂で曲がらないで、まっすぐ流れていたことが判ります。残っている堤防は立派なものですから、随分、後の世につくられたものです。それでも、毎年洪水に悩まされて、300年前に付け替えられました。
http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae.html
御野県主神社を中心に、頑張っていた人たちは、頑張る理由があったはずです。
続きは、次回にします。 


歴史番外編 No17 天の湯川田奈命はだれだ [歴史番外編]

もう一度逆戻りです。『新撰姓氏録』(平安時代初期、815年に編纂された古代氏族名鑑)河内神別には、「美努連 角凝魂命四世孫天湯河桁命之後也」「鳥取。角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也」とあります。天湯河桁命(天の湯川田奈命)は字が異なりますが、日本書紀の垂仁天皇のところに、天湯河板挙(あめのゆかわたな)の表記で掲載されています。
垂仁天皇の皇子である誉津別命は30歳になっても声を出して物を言うことができませんでした。23年10月8日に、天皇が大殿の前に立って、誉津別命が側につき従っているときに、白鳥のくぐいが、大空を飛んでいった。皇子はそれを見て「あれは何か」と云われた。天皇は喜ばれて誰か、この鳥を捕らえて来いと言われました。その時、鳥取造の祖である天湯河板挙が捕まえてきましょうと云って、出雲まで追っていって、捕まえてきて献上。誉津別命は、このくぐいをもて遊ぶうちに完全に喋れるようになりました。
 これとよく似た話が古事記の垂仁天皇のところに書かれています。垂仁天皇の第一皇子である本牟智和気王(品牟都和気命)は言葉を喋る事が出来ませんでした。ある時、倭の市師池、軽池に舟を浮かべて遊んでいました。高いところを飛んで往くぐいの声を聞いて、あごを動かそうとされた。そこで、くぐいを捕まえるように、山辺の大たかを遣わして捕まえさしました。
日本書紀では、鳥を捕まえたのは鳥取造の祖である「天湯河板挙」で、古事記では山辺の「大たか」となっています。古事記には、鳥取造の祖である角凝魂命も出てきません。

天湯河板挙は(あめのゆかわたな)とは読む事はできないと思われますが、日本書紀の翻訳者である宇治谷孟氏は、(あめのゆかわたな)と読みがなを付けておられます。『新撰姓氏録』にあるであれば、天湯河桁命(あめのゆかわたな)と読むことは可能です。
という事は、宇治谷孟氏は、日本書紀も新撰姓氏録も正しいと考えておられることになります。
 私は、古事記の記述が正しくて、日本書紀も新撰姓氏録も間違っているのではないかと思っています。間違っていると書きますと、誤解されるかもしれませんが、日本書紀の編集者は、天湯河板挙は、「天」を付けて、天孫であるようにしたかったのではないでしょうか? 角凝魂命や天湯川田奈命は、鳥取造の始祖であり、三野氏の始祖であることを述べ、藤原氏と皇族が関係あるように系譜を作り上げたのではないでしょうか?
ただ、角凝魂命や天の湯川田奈命を祀る神社があちこちに見つかります。結論は、これらが何故、沢山祀られているのか調べてからでも遅くないと思われます。
一つだけ例をあげますと、柏原市大字高井田89番地に天湯川田神社(あまゆかわた)があります。 infoseek
近鉄大阪線安堂駅 南へ500M JRと近鉄線路の間 にあります。祭神は天湯河棚命です。
式内社であることが重要です。式内社は、藤原氏の勢力下に入った神社です。鳥取氏の祖天湯川田奈命は前記のように鳥取氏の祖です。 この地は、古代の鳥坂郷で東に隣接して鳥取郷があります。鳥取氏の居住地であったと思われます。角凝魂命の三世の孫が祭神の天湯河棚命で鳥取連はこの命の後裔ということになります。 始祖の天湯川田奈命の本拠は大阪・和泉の日根郡鳥取郷だと思われます。それは、角凝魂命を祀る 波太神社 が鎮座するからです。従いまして、鳥取郷に住んでいた子孫が、河内国大県郡であった現在の柏原市に移り住んだのではないでしょうか?


歴史番外編 No16 大阪の県主神社 その2 [歴史番外編]

大阪には、八尾市にもう一つ県主神社があります。神社の名前は、御野県主神社といいます。鎮座地は八尾市上ノ島南町1丁目 (河内国若江郡)  mapion
祭神は、角凝魂命、天湯川田奈命です。
 御野県主神社は、みのあがたぬし神社と読むらしいです。何故かと言いますと、鎮座地一帯は、八尾市北東部から東大阪市南東部にかけての地域になりますが、ここは三野氏の本拠地で三野氏を祀ったと思われます。では、祭神の角凝魂命、天湯川田奈命はどのような関係があるかということになります。
『新撰姓氏録』河内神別には、美努連は角凝魂命の四世の孫・天の湯川田奈命から起こるとあります。美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は、三野縣主の後裔氏族であるようです。「らしい」とか「ようである」という言葉は、私が美努連に関してよく理解していないという事です。
天武天皇13年1月17日のところに、三野県主・内蔵衣縫造の二氏に姓を賜って連といったとあります。西暦でいいますと、684年ころと推定されます。三野氏が連を賜ったのは、随分後のように思えます。
雄略天皇崩御後、吉備の上道国造の謀反事件に、この地の三野県主小楯が加担したことが、日本書紀の清寧天皇ところに書かれています。謀反は失敗に終わり、この時県主を免ぜられた可能性があります。そのように考えますと、天武天皇のときに、復活したことになります。
 三野県主小楯が吉備の上道国造の謀反事件に加担したということは、事件が成功しますと、二人で共通の利益があったから加担したか、仲間・同族であった可能性が高いです。

御野県主神社は延喜式内社ですから、天武天皇から684年ころに、三野氏は連を賜りましたが、日本書紀が完成した720年ころには、藤原氏の勢力下にはいり延喜式には掲載されたと思われます。
祭神の角凝魂命、天湯川田奈命のことを書くつもりでしたのに、どんどん離れていきます。
三野縣主は、大和朝廷と密接な関係があったようなことになってきました。予想としては、天皇家と反対勢力のように考えていましたが、そうでもなさそうで頭が混乱です。
次回に,もう一度考えてみようと思います。


歴史番外編 No15 大阪の県主神社  [歴史番外編]

県主神社と呼ばれる神社があちこちにあります。すべては調べていませんが、宇治の縣神社を考えるときの役に立つかもしれません。先ず、大阪府の県主神社を二つあげます。
志貴県主神社 所在地は藤井寺市惣社1-6-23 です。地名の「惣社」に注目してください。境内案内板によると由緒は、「この神社は、河内古市から国府に至る南北約五キロに亘って連なる洪積層の国府古市台地の北端に鎮座する、延喜式内社(延喜式に記されている古社)である。
祭神は神武天皇の長子と伝えられる、神八井耳命。(綏靖天皇の兄) 主神として天照大神。春日大神の武甕槌命・天児屋根命・比咩大神・経津主命。表筒男命・中筒男命・底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后の各神を合祀されている。河内では最も由緒ある神社である。
三代実録の、清和天皇の貞観四年(西暦862年)二月の記録によると、「河内国志紀郡人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原基経)家令支配人、志貴県主福依ら三人、姓として 宿祢を賜い、即ち本居(本籍地)を改め左京職(平安京の左京)に隷す。志貴県主は神八井耳命の後(子孫)多朝臣と同じ祖なり。」
 その後、村上天皇の天暦年間(950年ごろ)諸国の所経費を節減するために設けられた惣社の制により、各国々の国府(国を治める役所)から最寄の有名社を「惣社」に充当して、そのの国内の有名祭神を一ヶ所に集めて祭祀されることになった為、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称されることになり、近隣の集落を惣社と称するようになった」(WEBより)
       
 大和川・石川の合流点から西方を志貴県と称したようです。No14において、志畿の県主は柏原市にいたのではないかと推察していますと書きましたが、すぐ隣で、大和川を挟んで神八井耳命の一族が支配をしていたのではないかと思っています。師木津日子玉手見命が生まれたと書かれていますが、師木津は出身地の名前です。紀元後100年頃の事です。ところが、雄略天皇のところで、雄略天皇が生駒山日下越えの道から「志畿の大県主」の大邸宅の屋根上の飾り木を見て焼き払えと命令したと伝えられていることをNo14で書きましたが、この時は、県主は神八井耳命の末裔ではなかった可能性があります。だから、焼いてしまったと思われます。450年頃の事です。
 神八井耳命以外の祀られている神である天照大神。春日大神の武甕槌命・天児屋根命・比咩大神・経津主命。表筒男命・中筒男命・底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后は、村上天皇の天暦年間(950年ごろ)以降に、合祀されたことになります。
もう一つ、本当かどうか判りませんが、「志貴県主は神八井耳命の後(子孫)多朝臣と同じ祖なり」と書いてあるという事は、三代実録ができた901年には、多氏の一族が支配者だったのでしょう。
もう一つ大切な事は、延喜式内社であるということです。何時、延喜式内社に指定されたか不明ですが、延喜式は905年から作りはじめて、927年に完成したことになっていますから、この頃には、藤原氏の勢力範囲になっていたことが判ります。

以上のことから、志貴県主神社は、祭神が、神八井耳命と書かれていて、宇治の縣神社と同様に、天皇家が治めていた重要な所であったことが判ります。


歴史番外編 No14 縣神社と絹 [歴史番外編]

縣神社を東に100m行きますと、平等院の南門があります。門を過ぎて左に道を取りますと、堤防の上を歩いているのが判ります。右が宇治川で、左に松林越に平等院が望めます。堤防が何時造られたか分かりませんが、この堤防をもう少し北へ行きますと、宇治橋に出ます。信号が付いていて、道は五叉路になっており、北への道路は、堤防になっています。この堤防の上は、狭いながらも車は双方向に進行できます。従って、堤防は近代式の堤防です。
 仮に、この堤防を取り除きますと、宇治川の水は、平等院の前の池に流れ込むと思われます。正確な事は判りませんが、宇治川は天井川になっているのだと思います。
平等院の鳳凰堂を左に見て過ぎますと、左へ降る道があります。降りたところが平等院の北の正門です。もう一度、堤防に上がって、対岸を眺めてもらいますと、対岸に宇治神社が見えます。宇治神社の西の参道は、宇治川に繋がりますが、ここに現在、橋が架けられています。いつのことか判りませんが、ここに橋が架かっていたと思われます。少し、下流に行きますと、宇治橋です。
縣には、県主がいて、その辺り一帯を治めていたことは事実でしょう。又、その後、その場所に国司が大和朝廷から派遣されたと思われますが、この辺りの文献は確かめていません。
話は飛びますが、大和川のもっとも、流れの急な亀の瀬を通過しますと、大阪平野となりそこに柏原市があります。ここに志畿の県主がいたのではないかと推察しています。師木縣主のことと志畿の県主のことは、古事記の綏靖天皇(2代)と雄略天皇(21代)のところに書かれています。綏靖天皇の部分は、師木縣主の祖である河俣毘売と結婚して師木津日子玉手見命を生んだことが書かれています。師木津日子玉手見命は安寧天皇(3代)になります。
古事記の雄略天皇のところに次の文章があります。
「初め大后、日下に坐しし時、日下の直越の道より、河内に幸行でましき。ここに山の上に登りて国の内望けたまへば、堅魚を上げて舎屋を作れる家ありき。天皇その家を問わしてめて云りたまひしく、「その堅魚を上げて舎を作れるは誰が家ぞ」とのりたまえへば、答へて白ししく、「志幾の大縣主の家ぞ」
このように見てきますと、縣は単に行政区の名前ではなく、相当の権力があったことが推察できます。権力とはなにかと言いますと、経済力ではないかと思われます。志畿の県主は鉄を支配していたのではないかと想像し、「新しい日本の歴史」のNo167辺りで、柏原市を探りました。No211に於いて、師木県主のことも考えて見ました。
 さて、宇治の縣神社は、鉄ではなく、「絹」ではないかと推察し、「縣神社と絹」のタイトルなりました。このような観点で資料を見るのですが、縣神社の祭神である木花開耶姫命はニニギ命(天照御大神の孫)の妃です。ニニギ命のひ孫が神武天皇ですから、一代を20年と仮にしますと、紀元元年(神武天皇が奈良で即位したとき)より80年前の人ということになります。
そのような馬鹿なと思われる方が殆どだと思います。このことは横に置くとしまして、紀元前のことは確かだと思います。その頃の資料は皆無ですから、地名に注目しようと思います。
神武天皇はいつ頃の人かは、「新しい日本の歴史」のNo114~116に書いています。

縣神社より宇治川を上流に遡りますと、天ヶ瀬ダムがあります。ダムの少し下流に「白虹橋」が地図に見えます。ここに、志津川が合流しています。志津は全国に分布します。絹に関係ある地名と思っています。字は違いますが、静岡、静神社、賤ヶ岳もそうです。これ以上のことは調べていませんが、志津川流域で絹が作られていたことは、先ず間違いないと思っています。
「白虹橋」の名前がどうして付けられたか調べていませんが、この地では、七色の虹ではなく、一色の白い虹がよく見られたからだろうと想像しました。白い虹が見えるから、名付けたとすれば、日本のあちこちに「白虹」という地名があるはずです。調べてみましたが、ほかにはありません。という事は、白い虹が見えるから、「白虹」とは名付けないと思われます。「白」の字がつく地名は、イザナギと関連あることが多いように思っています。
 「天ヶ瀬」もどうして名付けられたか判りませんが、「天」の方は、アマテラスに関係することが多いように思っています。
 現在のところ、無理やりに縣神社と絹を関連付けようとすれば、これぐらいのものでしょうか? 木花開耶姫命が宇治にいたとは、断定できませんが、木花開耶姫命と関係ある一族がいた事は、推定しても良いのではと思います。その後、この一族の一部は、静岡県に移動し、浅間神社を造ることになります。  


歴史番外編 No13 縣神社 [歴史番外編]

縣神社について書こうと思いましたが、書く事がありません。頭の中では一杯あると思っていたのですが、いざ、調べてみると資料になるようなものがありません。
縣神社の「縣」という字は、県の古い書体です。(と思っていましたが違いました)字音は漢がケン、呉はゲン。意味は中央政府と郷村との中間にぶらさがっている行政区(カシオex-word)。
昔の中国では、県は郡の下、区の上にあって、いずれも行政区の単位としては日本より小さい。秦の始皇帝が従来の封建制(一族や家臣に領地を与える制度)をやめ、郡と県を置いて官僚による支配を行ったのにはじまる。
と書かれています。
「中間にぶらさがっている行政区」とわけの解らないことが書いてあります。県の字は、首をさかさまにした形で、首を切ってみせしめのため、高い所からぶら下げることを意味しているそうです。縣の字は、その県の横に糸がついています。糸はひもを意味し、ひもでつないだことを現しています。したがって、縣と県は、全く意味は違うのですが、現在は、縣の略字が県として使われています。このような意味を含ませて「中間にぶらさがっている行政区」と書かれているのだと思われます。
縣の読み方は、別に「あがた」があります。あがたは昔の豪族の地方にある領地。「御縣(みあがた)は朝廷の領地」大化の改新以前の、国の下におかれた行政区。後の国司の任国のことなどと、カシオex-wordには書かれています。本当にそうかと素人の私がいうのもおかしいですが、なぜ、そのように云えるのか疑問に思っています。
 
さて、縣神社は、平等院の西100mほどのところに鎮座しています。平等院は宇治川の堤防のすぐ西左岸にあります。縣神社は狭い領域ですが、元々は、宇治川に接して、この地域を治めていた縣の長である県主を祭った神社ではなかったかと推察しています。としますと、祭神は宇治大神とか、宇治大明神とか付けられていてもいいと思うのですが、祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)とあります。愛知県犬山市の南部、本宮山の麓に鎮座する尾張国二宮・大縣神社の祭神は、大県大神となっています。詳細が不明の時は、このように分かったような分からないような神の名前になりますが、木花開耶姫命と伝えられているということは、正しいと判断して良いのではないかと思います。
 木花開耶姫命は、大山祗神の娘といわれ、瓊々杵尊(ににぎのみこと・アマテラス大神の孫)の妃となり、その貞操を疑われて産屋に火をかけてその中で火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)らの神々を安産したと古事記に書かれています。
木花咲夜姫を祀るのが全国1300社ほどある浅間神社で、その中心は富士山の南側が富士宮市の富士山本宮浅間神社です。北側が山梨県一宮町の山梨浅間神社です。
 ついでに書いておきますと、福岡県田川郡添田町大字英彦山1に 英彦山神社があります。天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社です。アマテラス大神は、先ず、子供の天忍骨尊を九州に派遣し、西に高天原を築きました。ヒルゼン高原の高天原は住みづらかったので、倉吉に瓊々杵尊を降臨させます。そして、瓊々杵尊は妃の木花咲夜姫と、その姉を富士山周辺に派遣し、全国制覇を進めていきます。
 えらい話が縣神社とかけ離れてしまいました。縣神社の祭神が木花咲夜姫である以上、この地となんらかの関係があったはずです。
はじめに書きましたように、資料がありませんから、次回は、私の想像力を膨らませて、縣神社に迫ってみようと思います。


No12 宇治の三社参り [歴史番外編]

毎年、正月3ヶ日の間に、友人と三社参りというものをしています。三つの神社に初詣に行きます。違う神さんにお願いにいくことは、良くないとの忠告を受けたことがありますが、確か今年で4回目になります。メンバーはご夫妻のこともあり、他の友人も加わることもありますが、車の定員が5名ですから、大勢では行くことができません。
 今年は、京都の宇治ヘ行きました。三社は、縣神社、宇治神社、宇治上神社です。それに加えて、平等院と西国十番 三室戸寺にも参拝しました。
 神社や寺院が好きな者は、私一人ですので、コースを設定するのが大変です。余ほど、見たこともない神社に連れて行きませんと、感激は、直ぐに無くなってしまいます。数日しますと、折角、説明したことは忘れられてしまいます。そのような事をできるだけ、少なくなるように、美味しいものが食べれるところとショピングが楽しめるところが含まれるように行き先を決めます。本当は無理なのです。神社も寺院も高いところにあることが多いから、ショピングなどする所はありません。
 今年のメインは、宇治上神社と平等院です。宇治上神社は現存する神社では、もっとも古い建造であると言う事です。行くまでは知りませんでしたが、宇治上神社は世界遺産に指定されたと書いてありました。平等院は、10円銅貨に描かれている建築物ですから、実物は見なくても、誰でも知っています。そして、年中拝観することができますが、現在、阿弥陀如来像の上にありました天蓋と光背を外し、修理中です。修理を終えた部分は、間近で鑑賞することができます。鳳凰堂の周囲に飾られている雲中供養菩薩像52体のうち、一部とレプリカも鳳翔館で見学できます。菩薩が持っている持ち物も確認できますから、いろいろ考えさせてくれます。
 宇治は道路が狭いですから、車で行かれますと、余程詳しくありませんと、お正月は大変です。そこで、旅行案内を書いておきます。大阪からですと名神に乗ります。大山崎の出口と京滋バイパスが一緒になっている所へ入ります。(この手前で、名神は、大きく右のトンネルと左のトンネルにわかれることになっています。この時点で、左の方へ行っておきませんと、京滋バイパスに入ることはできません。京滋バイパスに入ったことの無い人は、気をつけませんと、京都市内に行ってしまいます。私は間違って大山崎のインターで降りたことがあります) 上手く、京滋バイパスに入ることができましたら、次は降り口です。宇治西で降ります。
 降りますと同じ方向に走りますと、平等院の指示があり、右折する所があります。宇治川の左岸の土手を走ることになります。まもなく、左手に大きな宇治橋が見えます。確か、5差路だったと思います。大きな鳥居のある道を潜ります。突き当たりの左角が縣神社です。左折、100mで、平等院の南門。ここに駐車場があります。どうして、こんなに丁寧に書いたかといいますと、ここに到達するのに、難儀したからです。電車で行きますと、このようなことに気を遣うことはありません。京阪電車とJRは、共に「宇治駅」下車です。
 次回は、縣神社について書いてみようと思います。 


歴史番外編 No11 青海チベット鉄道に学ぶ [歴史番外編]

1月2日にNHKテレビで「青海チベット鉄道~世界の屋根2000キロをゆく」が放映されました。青海チベット鉄道は中国・青海省の西寧よりチベット自治区のラサまでの(1,956km)の鉄道の名前です。2006年3月から貨物輸送で試運転が始まり7月から客車運行の全線試運転が行われ、全線完成祝賀会が、10月15日ラサで行われました。地図でどの辺りか確かめてください。
http://www1.vecceed.ne.jp/~watagi/page013.html

一番の驚きは、世界で海抜最高の汽車駅―タングラ駅、海拔5068mを越えてラサまで列車はいきます。この鉄道を建設するに当たって、多くの技術が取り入れられています。当たり前の事ですが、海拔5068mとなりますと、空気が薄くなりますから、高山病になった人は、酸素を吸うことが出来るようになっています。この高度になりますと、地面は凍土となります。凍土は、溶けて軟らかくなりますから、基礎は凍土の下まで打ち込まれています。画像からはよく判りませんでしたが、使われている技術は日本のものは見当たりません。中国は日本の力などあてにしていないことが判ります。
 映像の多くは、列車の乗客にカメラを多く使いました。NHKのディレクターは人間模様に興味がいったようです。新しい商売のチヤンスを求めて、果敢に新天地へ向かう人。台湾から一人旅を楽しむ女性。ヨーロッパの旅行者。何時間はしってもなにもないチベットの平原をひた走る映像をみていますと、中国は、内地にむけて爆発するように発展を続けていることが分かりました。列車がラサ(ひょっとすると手前の駅かもしれません)に到着したときに、一人の少年が下車しました。16歳です。何をしに来たのかとの質問に、商売をするために来たと。学校はどうしたと聞かれたら、辞めてきたと答えました。この少年は、政府の保護や親の保護など当てにしないで、生きていくことになります。中国のエネルギーを感じました。

これは中国の未来を見せてもらった一例です。もう一つは、歴史とはどのようにして作られたかを現在に見た思いをしました。映像は、平原の中を列車が走る姿を次々に見せてくれます。と同時に、平行して走る国道にカメラを向けています。ディレクターとしては、
鉄道に付き添うように走る国道が気になったのでしょうが、国道は昔からあったはずです。
鉄道をつくるときに、誰もいないところに鉄道をつくっても仕方がありません。また、鉄道は自動的につくることは出来ません。この国道を使って資材は運ばれたでしょうし、運んだり敷設の工事に従事した人は、国道の近くに住んでいる人を使ったに相違ありません。鉄道はこのようにして、どんどん内陸へ距離を延ばしていくことになります。
 私は鳥取県の海岸線よりの明治時代の地図を古書店で購入しました。山陰本線が掲載されていないことに喜びを感じたことを覚えています。その後、現在の国道9号線に沿って、山陰本線が建設されたことは、すぐに判ります。海岸線に沿った鉄道は道に沿っているのが判りますが、南北に日本を横切る鉄道は、河に沿って造られています。ところが良く見ますと、道路も河に沿っています。鉄道は最近の事ですが、道は海岸線(国道9号線、2号線)にそっています。その他は、河に沿って人が移動したことが判ります。従いまして、日本の歴史を考える時は、河を中心にして、人々はどのように生活し移動したかを見なければなりませんが、このような観点で歴史を解明しようとした人はおられません。どこに遺跡があるか、何処にどのような古墳があるかばかりです。

「青海チベット鉄道~世界の屋根2000キロをゆく」と同じタイトルで、10年後にも放映してほしいなとおもいました。その後の10年後も勿論、してほしいですが、その頃は、きっと生きていないでしょう。
ディレクターが意図したのと違う目で、番組を楽しみました。再放送の依頼のハガキをだせば、叉、放映して頂けるのではないでしょうか? その時は、私は10年後に備えて、録画をしておこうと思います。 

【青海チベット鉄道~世界の屋根2000キロをゆく】の再放送は、1月8日 8時30分からあります。


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