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歴史番外編No30 片岡神社・放光寺 [歴史番外編]

片岡神社:式内名神大社。祭神--天照大神・豊受大神・住吉大神・品陀別命・清滝大神(以上五社大明神)。当初は建角身命を祭神とし、裏山の西側の大峰が旧社地で通称モトミヤという。当地への遷座時期は不明であるが、近世は放光寺の鎮守であったという。現在は王寺全体の総鎮守とされている。
所在地は達磨寺の前です。
王寺町の案内地図 http://www.town.oji.nara.jp/seeing/seeing.htm
参考ホームページ http://kamnavi.jp/as/katuragi/kataoka.htm

放光寺: 「片岡神社」の裏に所在。黄檗宗。本尊の「十一面観音坐像」。古くは「片岡王寺」と称し、聖徳太子、または、百済王から帰化した大原博士の建立とも云われる?
永承元年1046)落雷で堂宇の多くが焼失し、弘和4年1384)金堂の再建落慶供養が行われたけれど、元亀3年(1572)松永久秀の乱により再度炎上し、現在の王寺小学校の敷地はその遺跡と言われる。その一隅に、鉄牛(明から渡来して万福寺二代目住持、木牛の弟子)が延宝八年(1680)に中興して黄檗宗の禅寺となった。本堂は安永七年(1778)明治三年(1870)に大改修され、平城宮と同じ軒瓦や鬼瓦が出土。山門に掲げられている額「片岡山」は、当寺二世瑞鳳の書、本堂の額「放光寺」は、隠元の書。本堂後方に室町時代とみられる花崗岩の不動明王立像がある。
王寺歴史資料室-- http://www.town.oji.nara.jp/history/hismid.html
放光寺の由来  http://www.geocities.jp/houkouji3710/page005.html


歴史番外編 No29 達磨寺境内古墳群 [歴史番外編]

1. 一号墳 本堂の東北隅に所在。円墳。高さ3m。径約10m。横穴式石室(全長5.8m)が東向きに開口。昭和40年に調査。玄室長さ2.8m。幅1.7m、羨道現状長さ3m。幅1.1m。玄室内に凝灰岩組合せ式石棺の一部残存。6世紀末ごろに築造。石棺の付近からガラス小玉」ガラス管玉、鉄銀片のほか、杯、台付長頚壷、同蓋、長頚壷、堤瓶、短頚壷、坩の須恵器が出土。
2. 二号墳 一号墳のすぐ南に所在。未調査。径10mぐらい。一号墳より古い。古墳の上に松のが生えており、横穴式石室の一部は、懐中電灯で照らせば見えます。
3. 三号墳。平成14年の本堂建て替えにあたり、調査されたものが、WEBに公開されています。http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/daruma.html

三号墳の石室を利用して造られたらしい小石室がありました。中に石塔があり、その中から舎利容器出土。小石室は一辺約50cm、深さ約80cm。石塔は五輪塔風の宝篋印塔で綛高約73.5cm、幅約31.5cm。塔身部の中に土製合子があり、その中に水晶製ハート形の舎利(幅約28mm、厚さ約1.3mm、重さ0.02g) 粒を検出。遺構の年代は14世紀前半か? レプリカが王寺町役場に展示されています。


歴史番外編 No28 達磨寺 [歴史番外編]

臨済宗南禅寺派。本尊・達磨坐像。『日本書紀』推古天皇二十一年(613)十二月の条に
片岡尸解仙(しかいせん)説話により、聖徳太子が達磨大師に出会って、助けたが飢人は亡くなり、埋葬した。その場所が達磨寺3号墳であるという伝承が生れ、古墳の上に土塔が造られるなどした。13世紀初め、勝月房慶政によって達磨像や聖徳太子像を安置して寺院として達磨寺の開基となったという。
 禅宗は南都旧仏教・特に大和一国支配の興福寺から敵視され、嘉元三年(1305)、焼き討ちに遭い荒廃する。室町幕府は寺院を保護し、足利義満が復興させたが、永享元年(1429)、興福寺・東大寺僧に再び破壊された。翌年足利義教の命で現本尊達磨坐像が造られ再興した。しかし、再び松永久秀の兵火に罹って荒廃したとされる。
慶長十年(1605)豊臣秀吉が復興に尽力し、江戸時代には金地院崇伝の助力を得て、現方丈は寛文七年(1667)の建築。本堂・拝堂は明治十一年に立替えられたが、破損が激しくて平成十四年から建て替え工事が行われ完成。
 本堂内陣の中尊は千手観音像、像高76.8cm寄木造り。室町時代。裏庭にある達磨寺中興記石幢は文安5年〔1448〕頃の作か?
 
1. 達磨坐像(重文) 永享二年(1430)本堂に安置されていますが、ガラス越しのため、拝顔することは出ません。申し出ますと、拝観は可能かも。
寄木造り。着色彫眼。坐像高さ88cm。日本三達磨の一という。(京・円福寺、松島・瑞巌寺)
<像底銘> 「永享二秊庚戌四月奉 征夷大将軍源相公鈎命雕造至 十月終功 左辺眉眼鼻    口并両手旧像不壊者也 仙工椿井法眼集慶綵粧僧周文 勧縁遠孫比丘祖能謹志」 2.聖徳太子坐像(重文)  太子の坐像は明日香村の橘寺(最古?)にあります。又、法隆寺聖霊院の坐像は国宝(1121年)。当寺の坐像は、1277年の作で、それより150年ほど新しいものです。寄木造り。像高93.2cm。 <膝裏銘> 「大仏師法印院恵 作者法橋院道 建治三年十一月日」 3達磨寺中興記石幢(重文) 達磨寺の中興記を文安五年(1448)に八角形の石碑の各面に彫り、建てた。安山岩製、高さ181cm。風化激しく読みづらくなっている。 永享七年(1435)南禅寺の惟肖和和尚が、当時の住持南峰和尚に乞われて撰述したことが記されています。http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page584.html 片岡山飢人伝説 http://www.town.oji.nara.jp/legend/kijin.htm http://www.town.oji.nara.jp/legend/kijin.htm 達磨寺石塔埋納遺構(王寺町教育委員会) これは現地説明会の内容です。 http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/daruma.html


歴史番外編 No27 舟戸神社(太子道を歩く) [歴史番外編]

舟戸神社(西安寺跡)
祭神は久那戸大神・天児屋根命。由緒不明。 現在の社殿は昭和63年の再建。
境内周辺から白鳳・天平~鎌倉期へのかけての瓦が出土。拝殿東側の林のなかに、明治の初めまで径2尺ほどの円形孔のある塔心礎と見られる石があったと伝え、社殿背後あたりに礎石の破砕片も見られ食堂跡と考えられている。斑鳩から河内飛鳥へのいわゆる太子道にあたり、聖徳太子建立46寺院の一つで西向き法隆寺式伽藍配置の西安寺があったと思われるが、発掘調査が行われていないので、詳細は不明。なお、東側の通称舟戸山で平成5年に弥生土器が見つかり、発掘調査の結果、径11~12mの大型の竪穴式住居跡を検出。部分調査なので全容は不明ながら、高地性集落があったと見られている。

以下、私のたわごと
① 舟戸神社は、古い記録に「舟度神社」と書かれたものもありますから、「舟渡神社」であったかも知れません。徳島県一宮の近くに舟戸神社の名前の祠があります。また、京都の加佐郡大江町蓼原261にもあります。陸耳御笠(くがみみのみかさ)苦戦に陥った日子坐王を助けた舟戸神をまつるとあります。舟戸という地名は、いっぱいありますが、舟戸神社は、他に富山県砺波市にもありますが、少ないです。
「舟戸」は、和歌山県の紀ノ川にもありますが、「船戸」となっています。ここは、渡し場で、戸(家)がいっぱいあったからと説明したものがありました。私は「船戸」は、川が狭くなった部分に付けられたところではと考えています。王寺町の舟戸は、川が大きくカーブはしていますが、狭くはなっていません。
② 西安寺は、出土の瓦から、7世紀からあったと思われますし、16世紀初めまでは存続していたことが史料からわかっていますから、舟戸神社はその後に、作られた可能性が大きいですが、祭神の久那戸大神は、イザナギが、イザナミが居た黄泉の国から逃げて帰り、禊をするために、阿波岐原にやってきて投げた杖から生まれた神が、衝立船戸神と書かれています。日本書紀では、岐神と書かれていて、こちらの場合は、イザナミが出した追手を追い払うために投げつけたものの一つとして岐神が書かれています。翻訳者は岐神にフナトノカミとふりがなを付け、(塞えの神)としています。塞えの神は、境界線に祀られる神です。このように、日本書紀の編集者も、翻訳者も理解できない衝立船戸神を、西安寺が潰れたからといって、いくらでも隣に建てる敷地があったのに、祀ったというのも不自然です。舟戸神社は、西安寺が建てられる前から、あったのではないでしょうか?
③ もう一人の祭神の天児屋根命(記紀とも天児屋命と書かれています)も古い神です。天岩戸に天照大神が籠もられた時、その前で祝詞を読み、天孫降臨の際に邇邇芸命に付き従って高千穂の峰に降臨しました神です。古事記では、ただ、天児屋命の名前が出てきますが、日本書紀では、藤原氏(中臣氏)の祖先神であると書かれています。このことが、根拠になっているのでしょうか? 天児屋命は藤原氏の先祖を祀る春日神社の祭神の一人として名を連ねています。
  舟戸神社と西安寺は、何時のころからか分かりませんが、藤原氏の支配下に置かれるようになったのではないでしょうか?
④  王寺駅北側を少し西に行きますと、「久度神社」があります。この神社には行っていませんが、祭神に、品陀和氣命 が祀られ、配祀に、 天兒屋命、底筒男命、久度神が祀られ、延喜式内社の久度神社に当てられています。
(参考WEBhttp://kamnavi.jp/as/ikoma/kudo.htm)この辺りは、奈良の川が、川合ですべて集まってくるところです。大和川が大きく曲がっているところですから、岩盤は固く、水害も合わなかったところだと思います。この神は、後に平安時代に、京都の平野神社に移されています。まだまだ、関係を調べる必要のある神さんです。
「近年の亡失心礎(塔心礎石) ・ 流出心礎」

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sinso_sositu.htm
少しスクロールしますと、大和西安寺があります。

「王寺町歴史資料室」 舟戸・西岡遺跡
http://www.town.oji.nara.jp/history/index.html


歴史番外編 No26 太子道を歩く [歴史番外編]

H19.03.18  目覚めますと、ご近所の屋根が真っ白です。毎月、奈良を案内していただく日です。6時起床。家を出た時は、すこし雪がちらついていましたが、集合場所の王寺駅に着いたときは、太陽が射していました。
この日のコースは、奈良の太子道です。遠方の方は興味をお持ちでないと思いますが、一日、歩きながら、私がなにを考えたかを書いてみようと思います。できれば一泊されれば、同じコースを歩くことは可能ですので歩いて、歴史とはどのようなものかを感じていただければと思います。歴史番外編、しばらくは、太子道のことを書こうと思います。
 まず、どこを歩いたのかを知って頂くために、立ち寄った所を記します。
昔、国鉄と呼ばれたころに、名古屋から大阪の湊町駅(現在難波駅)までを関西本線と呼んでいました。現在は、JR東海とJR西日本の二つの会社に跨って営業しています。加茂~JR難波間には1988年3月から大和路線(やまとじせん)という愛称がつけられて、この愛称が定着しつつあります。大和路線は、加茂~JR難波間ですが、大阪から奈良へ行くときは、JR大阪駅から、加茂行きの大和路快速が出ています。
 この大和路快速に大阪駅から乗車しまして、20分ほどでしょうか? 「王寺」駅に着きます。次の駅は、すぐ近くにある、どなたでも知っておられます「法隆寺」です。法隆寺におられた聖徳太子が、飛鳥まで行かれるときに通られたであろう道を太子道と呼んでいますが、今回歩きしたのは、別の太子道です。聖徳太子の死後、その亡骸を叡福寺(大阪府太子町)の御廟まで運んだとされる「太子葬送の道」も太子道と言います。大阪まで歩いたのではなく、途中までです。
さて、コースです。「王寺」駅—舟戸神社—達磨寺—片岡神社—片岡王寺跡--放光寺—孝霊天皇陵—親殿神社—火幡神社—畠田古墳—永福寺—尼寺廃寺跡--尼寺廃寺南遺跡—平野古墳—武烈天皇陵—志津美神社--JR和歌山線「志津美」駅。 ほぼ、20000歩の道のりでした。
                               
全く、話は変わりますが、3月16日に読売新聞で、「古代出雲 独自信仰でリード」とのタイトルで、この度、島根県でオープンした、古代出雲歴史博物館の紹介記事が掲載されました。普通に読まれたら、すごいな、自分も行ってみようと思われた方は、大勢おられたと思います。
 私は現在、銅鐸のことを知りたくて、銅鐸の資料を集めながら、いろいろ考えていますが、ここに書かれているようなことには、きつとならないのではないかと思っています。ここに書かれていることは、新聞記者がプロに取材したことから書いておられますので、正しいのかも知れませんが、私は疑問に感じています。
 では、お前はどのように思うのかと聞かれると返事が出来ないのですが、それだけ、出雲はなにも分かっていないところの印象を持っています。
 しかし、先日、太子道を歩きながら、次々と現れる遺跡や神社、寺を巡っていますと、読売新聞に書いておられる日本史は、太子道が教えてくれる歴史とかけ離れているように思います。歴史は、連続しているものです。これが、「No26 太子道を歩く」を書く気になった理由ですが、どれだけ私の気持ちをお伝えできるか自信ありません。
読売新聞をお読みの方は、すでに、読まれたと思いますが、もう一度、目を通しておいて、私の紹介する太子道を眺めて頂ければと思います。 


歴史番外編 No25 縣についてのまとめ [歴史番外編]

正月2日に、宇治に初詣に行ったことを書こうと思っていましたが、最初に縣神社に参ったので、縣神社について調べているうちに、方々の県主神社、奈良の御縣神社と脱線したのまま走ってきました。宇治の縣神社は、縣主神社でもないし、奈良の御縣神社でもありませんから、又、別の働きをしていたのだと思われます。
No13において書きましたので、読んでいただけますと良いのですが、復習の意味でもう一度記しますと、祭神の木花開耶姫命は、大山祗神の娘といわれ、瓊々杵尊(ににぎのみこと・アマテラス大神の孫)の妃となり、その貞操を疑われて産屋に火をかけてその中で火闌降命(ほすそりのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)らの神々を安産したと古事記に書かれています。
木花咲夜姫を祀るのが全国1300社ほどある浅間神社で、その中心は富士山の南側が富士宮市の富士山本宮浅間神社です。北側が山梨県一宮町の山梨浅間神社です。
 ついでに書いておきますと、福岡県田川郡添田町大字英彦山1に 英彦山神社があります。天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社です。アマテラス大神は、先ず、子供の天忍骨尊を九州に派遣し、西に高天原を築きました。ヒルゼン高原の高天原は住みづらかったので、倉吉に瓊々杵尊を降臨させます。そして、瓊々杵尊は妃の木花咲夜姫と、その姉を富士山周辺に派遣し、全国制覇を進めていきます。
 制覇するといいましても、制覇するだけの値打ちがないとするだけ無駄ということになります。お米が有り余るほど取れたとか、金銀銅鉄が取れたとかが考えられますが、宇治にも「志津・しず」の名前が川で残っています。一方浅間神社は、静岡県一帯に1300社ほどです。静岡県の静も「しず」です。しず地名は、すべて絹の生産に関係があります。
宇治の縣神社のところは、絹に関する重要な拠点であったことになります。
 御縣神社は、奈良に限られ、縣神社は、天孫族のものが直接治めていたのではないでしょうか? 縣主神社は、勿論縣を治めていた首長が祭られているのですが、天孫族とは限らないようです。宇治の縣神社は、このように元々、木花開耶姫命の一族に支配されていましたが、その内に藤原氏の支配を受けるようになり、その地に、中尊寺が建立されたのではと推察しています。
 縣神社は、良く判りませんので、簡単に書いて、宇治神社と宇治神社と中尊寺のことを書くつもりでしたが、又の機会に書くこととして、一応打ち切りにしたいと思います。
 
平行して、大好き日本シリーズを書いていますが、銅鐸に入り込んでしまうことになりました。すこし、援護射撃で熊野三山、そして、熊野神社のことについて書こうかなと思っています。これも何か手持ちの資料があるのかといいますと、何もありません。ということは、大したことは書けないと思いますが、書きながら考えようと思っています。


歴史番外編 No24 奈良県の御県神社考察-3 [歴史番外編]

各県神社における祭神だけに注目して考えてみようと思います。
もう一度、祭神を書き出します。
① 山辺御縣坐神社    
② 添御県坐神社     祭神 速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命
    武乳速命は津速玉命の御子で、添の御県地の祖神と言う
  添御縣坐神社(三碓) 奈良市三碓三丁目5ー8 
祭神 建速須佐之男命 武乳速之命 櫛稻田姫之命
③ 志貴坐御県神社   大己貴神
④ 葛城御県神社    劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命  
           劔根命は『新撰姓氏録』には、高御魂命の五世孫の劔根命の名が登場し、劔根命之後也として大和国神別に葛木忌寸、河内国神別に葛木直、和泉国神別の荒田直が出てくる。
⑤ 高市御県神社   天津彦根命,高皇産霊神
⑥ 十市御縣坐神社   豐受大神 配 市杵嶋姫命社伝では十市県主の祖大目を祭神
⑦ 久米御県神社  
祭神 高皇産霊命、大來目命、天櫛根命 
天櫛根命は、久米氏の祖神・遠祖? 大来目命は、古事記に出ている。
  
気の付いたことを書き記します。
① すべてしきない大社ですので、延喜式が完成した900年頃には、すべて、藤原氏の支配下にあり、祭神は、すべて、日本書紀に書かれている名前に変えられたはずですが、添御県坐神社の祭神は、古事記に書かれている速須佐之男命のままです。変えることが出来なかったとすれば、支配下にあっても、天皇の勢力が強かったと思われます。
② 大己貴神は大国主神の別名とされています。日本書紀に書かれている名前ですから、ここは、藤原氏の勢力が強くなりました。稲葉の白兎のことは、日本書紀にはかかれていません。古事記では、白兎を助けた後に、兄弟から苛められる話がのっており、その兄弟を追い払って、大国主になったことが、古事記に記されています。因幡白兎以前の名前が、大穴牟遅神であり、日本書紀における表記が大己貴神となります。
③ 出雲国造神賀詞http://www.remus.dti.ne.jp/~n-makoto/izushinto/shingashi1.html
に「・・・高天の神王高御魂命の皇御孫命に、天下大八嶋國を・・・」と云う文があります。どのような人なのかは、じっくり検討していませんが、高天原の住民であったようです。高皇産霊神と仲間であったようです。高皇産霊神は日本書紀に書かれている神ですが、古事記では、高御産巣日神と書かれています。天孫降臨のときにも、登場する神で、古事記では別名高木神と書かれています。
④ 古事記では天津日子根命、日本書紀では天津彦根命と書かれている神です。よく理解できませんが、アマテラスとスサノオが誓約をするというわけのわからない部分があります。この部分は、太安万侶が苦心をしたところであると思っています。天照大神の八尺勾玉の五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神のうちの一人です。生んだのは、スサノオですが、天照大神の子供という表現が使われています。そして、古事記では、小さな字であたかも付け足しのように書かれていますが、河内国造・額田部湯坐連・茨城国造・大和田中直・山城国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周防国造・大和淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造らの祖神でありますよと念を押しています。
⑤ 豐受大神は、伊勢神宮の外宮の神さんです。この神は、伊勢神宮において、アマテラス神の食事の係りとして、呼び寄せられたとされていますが、豐受大神を祭る神社が、丹後半島に50ほどありますから、丹後と関係があることは確かですが、どのように関係あるのか、又の機会にしたく思います。

全部検討したわけではありませんが、古事記に登場する神が祭神になっています。日本書紀に書かれていることが、正しいとして歴史を解明しようとしますと、地名・神社などの謎は解明できないと思われます。勿論、日本書紀には正しい部分も沢山あるのですが、藤原氏にとって都合の悪いと思われる部分は、書き改めたと考えるのが無理がないように思えます。
結論、奈良県の県神社は、当初は天孫族の神社であり、しかも、その地域を治める人が先祖を祭ったと思われます。例えば、高御産巣日神の子孫に当る人たちが住んでいたのでしょう。古い神社であることも特徴だと思われます。


歴史番外編 No23 奈良県の御県神社考察-2 [歴史番外編]

No22 に書きました意味は、ご理解いただけましたでしょうか? 御県神社の考察-をする前に、No21の資料を眺めていましたら、いくつか気になることがありました。
一つは、山辺御縣坐神社という名前の神社が二つあることです。 天理市別所町県谷 と天理市西井戸堂町にあります。 又、添御県坐神社が、やはり、奈良市歌姫町と奈良市三碓三丁目にあります。別に、同名の神社が二つあっても不思議なことはありません。熊野神社や春日神社は、3000以上全国にありますから。これらの多い神社の由緒を眺めていますと、和歌山の熊野神社から勧請たと書いてあります。私は勧請の意味が判らないのですが、皆さんはわかっておられるのでしょう。普通に考えるとおかしいと思います。和歌山で熊野大社を信仰中心とのしていた人が、青森や宮城県に行かれて、そこで和歌山から熊野神社を勧請したと考えますと、和歌山の近くほど、熊野神社が多いはずです。この点は調べてみようと思っていますが、自信ありません。少しだけ調べましたから、「イザナギ・イザナミを祀った神社」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page155.html をご覧ください。まだまだ、調べ出したところですが、イザナギは全国的に、同時進行で日本制覇を目指したのではないかと推察しています。御県神社は、それこそ、まだ、始まったばかりですが、今のところ、奈良だけにあるのではないかと考えています。県という行政が考え出された以後にできたものですから、6~7世紀でしょうか? 
 またもや、脱線しましたが、朝廷が作った可能性が大きいです。となりますと、やはり、一つの県に一つで良いと思われます。
なにかヒントはないかと考えたのが、添御県坐神社です。この神社には、「坐」が付いています。考える前に、どう読むのか記しておきます。「そうのみあがたにいますじんじゃ」です。「坐」と言う字は、「います」とか「おわす」と読みます。大阪府茨木市に新屋坐天照御魂神社が三座あります。どのように読むのか判りませんが、私は「にいやにいますあまてるみたまじんじゃ」と読んでいます。この表記ですと、天照御魂がおられるところの地名が新屋ということになります。神社のある地名を表しています。同じように考えますと、山辺御縣にいます神社となります。山辺県にいます神社。「御」はこうなりますと、尊敬を表すことになります。もし、御県神社の鎮座地が山辺であるのであれば、山辺坐御縣神社という社名になるはずです。志貴坐御県神社は、新屋坐天照御魂神社と同じ表記になっています。「坐」のない高市御県神社や久米御県神社もありますから、じっくり眺めてください。
 添御県坐神社ですと、添(御)県にいます神社となりますと、神社はどのような神社であるかが判りませんから、本当は添坐御県神社であったように思われます。このように考えますと、添御県坐神社が二つある理由の説明がつきます。歌姫町は、奈良県の大和と京都府の山城との国境です。奈良市三碓三丁目は、鳥見と添上の境界にあります。鳥見か添上のどちらかが、天皇家の勢力が弱かったので、郡境に作ることになったと思われます。
 どの神社でも、25000分の1ぐらいの地図を見てもらいますと、集落がありますと、その真ん中に神社があります。特に、村の鎮守の役割をする神社ですと、当然そのようなります。寺院はだれも住んでいないところに存在しますが、神社は近くに必ず集落があります。No22に書きました7つの御県神社は、全て、平地にあります。
 山辺御縣坐神社と添御県坐神社は、必要があって、国・郡境に作られたと考えれば、
同名の神社が二つあっても不思議なことにならないと思われます。

このように見ますと、7つの御県神社は、朝廷の考えで作られたと思われますが、すべて、延喜式内社となっています。しかも大社ですから、天皇家の支配力は長く続かず、延喜式が完成したころには、すべて、藤原氏の支配を受けていたことになります。
 今度は、祭神を眺めようと思います。この件は次回にします。


歴史番外編 No22 奈良県の御県神社考察 [歴史番外編]

歴史番外編 No21 を三人の方に、お見せしました。三人三様の違った反応を示されました。共通することは、三人とも、チラッと見られて読まれませんでした。三人目の方は、「あなたの文章は難し過ぎる」でした。文章がむずかしいのではなく、漢字が難しいから読めないということです。
 「御県神社」はなんと読むのか? 私も初めの内は、読めなくて頭が、拒否反応を起こしました。ふりがなを打ってくれれば良いのに、勿体ぶって打たなくて などと読むのを辞めた記憶があります。ところが最近は、振り仮名がある文章を見ると頭が、瞬間ですが、漢字を見てどのような漢字か、なんと読むのか、いろいろのことを判断しているのが分かります。ところが、振りかなが書いてあると、頭は一瞬、そのカナを読んでいます。ということは、漢字には意味があるのに、その意味を考えることは中止してしまいます。次々にふりがなを読むことによって、頭が考えることを中止してしまいます。そこで、私は出来るだけ振りガナをつけないことにしています。
 ここまで、読まれて気がつかれましたか? 
フリガナという表記の方法を 「振り仮名」「ふりがな」「振りガナ」と変えてみました。どれが読みやすかったですか? 同じ文章の中ですと、同じ表記を使うのが普通らしいです。普通とは、読みやすい、理解し易いということです。しかし、私は違うと思います。前後に漢字が多い場合は、「ふりがな」を使った方が読みやすいです。かなが続いているときは、「振り仮名」が読み易いです。でも、小学生向けに書いているのであれば、「振り仮名で」は読めないかもしれません。
 話を元に戻します。では、御県神社はなんと読むのか? この漢字は古い文献に書かれている漢字表記ですから、当時の人は、読んでいたはずです。「おんけん」「ぎょけん」「みけん」「おんあがた」「みあがた」「みあかた」こんなものでしょうか! 読まれた方が分からない時は、「県」と言う漢字を辞書でひかれたら解かります。「けん」の外に、「あがた」があるのが解ります。驚いたことに「さかさづり」「かける」があります。奈良の西井戸堂町の山辺御縣坐神社の近くには、「アカタ」というカタカナ表記の小字があります。ということは、「アガタ」と濁らないで、「アカタ」と読んでいた可能性があることが分かります。このように書きますと、「小字」とはなんだということになります。では、自分で辞書をひいて、「小字」を調べることになります。小字は「こあざ」と読みます。このように一つ一つ説明すれば良いのですが、この部分も頭が考えることを寸断されてしまいます。
一応、「みあがた」が正解ということになっていますが、絶対かといいますと、誰にも云いきれないと思います。
 いよいよ、御県神社について考えてみます。「県」が未だに、よく理解できません。誰でも知っているのが、現在の宮崎県などについている県(縣)です。行政区画の読み名です。この外に、道、府があります。中国の秦の時代から、使われている行政区画です。そうなってきますと、例えば、十市県、添上県、高市県はいつからあったのか調べていませんが、神社ができたときは、すでに、有った事になります。誰がこれを考えたのかとなりますと、直ぐに、中国から学んだのだろうと推察する人が殆どだと思います。学んだということは、学ぶ人が大勢いて、教える人が少ないときに成り立ちます。このような国の仕組みを考えるグループがあるとします。メンバー全員が日本人の場合、メンバーが中国まで行って学んでくることもありますが、メンバーの半分が中国人であれば、学ぶ必要などありません。彼らの提案を採用するかしないかの問題になるだけです。私は、半分以上中国人・朝鮮人・その他であったと推察しています。
「県」の前に「御」が付いています。御の漢字を調べてください。私は、御は尊敬を表す字と思っていました。天照大御神は古事記における表記です。日本書紀では、天照大神です。日本書紀の編集者は、どうして「御」をはずしたのでしょうか? 大神だけでも、大に偉大なという意味が含まれますから、尊敬の意味もあるのでしょう。古事記では、その上に「御」の尊敬の意味が付いていることになります。詳しく調べたわけではありませんが、「御」は、制御とか、御者の熟語があり、元々は、馬に関連する漢字のようです。暴れ馬を制するところからきたのでしょうか? 調べてみるものです。辞書は①より⑦まで書いてありますが、①には「おさめる」とあります。尊敬は6番目です。
御が尊敬の意味ですと、天照大御神は、天照御大神と書かれているはずです。天照大御神は、他の人のリーダーになる人として名付けられたと思われます。
これで御県神社の御県の御の意味が判ります。県を監督する立場の働きがある神社ということになります。県主神社と性格が違うことが分かりました。
御県神社の考察に至りませんでした。次回にします。


歴史番外編 No21 奈良県の御県神社 [歴史番外編]

奈良には6つの御縣神社が在ります。久米御県神社を入れて7つと呼ぶこともあります。

① 山辺御縣坐神社 天理市別所町県谷726 と天理市西井戸堂町339 
   西井戸堂町の神社の周辺に小字「アカタ」「ミクリ」「三宅」等の地名が存在する。
   別所町の神社は尾崎山の南麓に鎮座する。
② 添御県坐神社  奈良市歌姫町999
   祭神 速須佐之男命 配祀 櫛稻田姫命、武乳速命
    武乳速命は津速玉命の御子で、添の御県地の祖神と言う
  添御縣坐神社(三碓) 奈良市三碓三丁目5ー8 
祭神 建速須佐之男命 武乳速之命 櫛稻田姫之命
この地は鳥見と添上の境界
③ 志貴坐御県神社   桜井市金屋
第十代、崇神天皇の皇居跡(磯城瑞籬宮跡)と伝えられています。
神山・三輪山を背後に背負い東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。北へは、山辺の道、奈良、今日を経て北陸、日本海方面へ。西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。
古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です。 案内板より
④ 葛城御県神社  北葛城郡 新庄町 葛木68
  祭神 劔根命 (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命
  【由緒】創立年代不詳  貞観元年正月27日從五位上
     大同元年(806)「葛木御縣神二戸備前」『新抄格勅符抄』
     正平15年(1360)兵火
     正平24年〈1369〉再建
     明治6年(1874)村社
  【鎮座地】延宝8年(1680)八月埴口陵(飯豊天皇ノ山陵)に合祀される
     元治元年(1864)9月分離、独立して旧地に鎭座
     旧社地の西100mの現在地に境内地を定め鎮座された
    旧桑海村の鎮守として現地より東100mにあった。延宝8年(1680)領主が三才山
に諸鍬神社を移した祭当社も同所へ合祀される。元治元年(1864)三才山を飯豊青皇
女の墓として修理することとなり、明治2年(1869)当社も式内社として復祀され、旧地に遷すことになったが、旧地には西光寺があったため現地に遷す。
⑤ 高市御県神社  奈良県橿原市四条町宮坪761    

   祭神 天津彦根命,高皇産霊神
 四条町の北部、今井町との境に鎮座。祭神は高市県主の祖天津彦根命と高皇産霊神。近世に苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称したことから、「延喜式」神名帳高市郡の「高市御県神社名神大、月次新嘗」に治定。高市御県神社は大和六処御県神社の一で(「延喜式」月次祭祝詞)、御県は朝廷直轄領にあたる。大同元年(八〇六)に神封二戸があてられ(新抄格勅符抄)、天安三年(八五九)一月二七日、従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)、「延喜式」神名帳によると御県の神のなかで唯一名神祭にもあずかった。高市県については「古事記」神代巻に「天津日子根命者高市県主等之祖也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(六七二)七月条に「高市県主許梅(こめ)」の名がみえる。所在は明確ではないが、現曾我町字宮毛説が有力で、現橿原市の西部地域に推定されたいる。「延喜式」神名帳高市郡には高市御県坐鴨事代主神社(現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名がみえる。文政二年(一八二九)津田長道の著した「卯花日記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人にして、今は今井に家居す。此家にむかしより此社の事つかさどる事になりて、別に神主もなければ、此家より神供灯明のことを物しける。高木の宮と云也といへり」という記述がある。 -『大和・紀伊 寺院神社事典』-

⑥十市御縣坐神社  橿原市十市町1
 豐受大神 配 市杵嶋姫命   社伝では十市県主の祖大目を祭神としている。

 延喜式大社である。十市県主は孝安妃を出している。 十市県主の五十坂彦の女の五十坂 
媛を妃にしている。別名は押媛、忍坂媛である。

⑦ 久米御県神社  橿原市久米町786 
祭神 高皇産霊命、大來目命、天櫛根命 
御県神社は皇室御料に鎮座、延喜式祈年祝詞には大和六御県社が記載されているが、当社は含まれていない。『日本書紀』垂仁天皇紀二七年に来目邑に屯倉を興すとある。
天櫛根命は、久米氏の祖神・遠祖? 大来目命は、古事記に出ている。
 
以上が奈良県の御県神社のデーターです。 皆さんはこれらのデーターからなにを考えられましたですか? 私が考えたことを次回に書いて見ます。WEBで、このページを始めて読まれた方は、「カテゴリー」の欄から、「歴史番外」をクリックして、数回前から読んでください。


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