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No140銅鏡製作技術力は呉の方が魏より上であった [日本の歴史]

一番の根拠は、三角縁神獣鏡は、現在の時点では中国産のものは無いということ。これは日本製であり、作った人は呉の人であったことです。では、魏には銅鏡を作る技術は無かったのかといいと思いますとそれは断定できません。丹後に進出した魏の人たちには、単に、原料の銅と錫を手に入れることが出来なかっただけのことかもしれません。
 技術力が上だということは、銅鏡を作るには技術がいると考えたからです。銅鏡と同じような製品に銅鐸、銅矛、銅剣があります。この製品には、作る基になった鋳型が、あちこちで見つかっています。しかし、銅鏡の方は、私が今確認しているものは、奈良県の唐古・鍵遺跡と福岡市 飯倉遺跡、井尻B遺跡、春日市 須玖坂本、須玖永田遺跡、夜須町 ヒルハタ遺跡です。これらの遺跡は、大掛かりな銅鏡製造所だったのではと考えます。
これらの所は、魏の人が住んではいなかったのではないかと想像しています。となれば、商売として作っていたとも考えられます。
 外に、新沢一遺跡(奈良県橿原市) 、玉津田中遺跡(兵庫県神戸市)内面刺突
平方遺跡(兵庫県三田市)、服部遺跡(滋賀県守山市)内面斜格子 、下々塚遺跡(滋賀県野洲町)内面斜格子 、石田遺跡(滋賀県能登川町)内面斜格子 、吉崎次場遺跡(石川県羽昨市) 、一針B遺跡(石川県小松市)内面斜格子 、池島・福満寺遺跡(大阪府東大阪市)内面斜格子があります。
 すべて、調べたわけではありませんが、鋳型は石ではなく、土製のようです。土の鋳型で、あのような細かい模様を作ることは無理でしょう。それも欠片が残っているだけです。石ですと表面がつるつるに出来ますが、土製の鋳型では、つるつるにすることは不可能に思います。そこで、水銀を使って磨いたと言われていますが、鏡の面は水銀で磨いたかも知れませんが、どんどん蒸発する水銀で磨いたとしますと、完成するたびに、職人は水銀中毒で死んでしまうと思います。
鋳型は上に書きましたように、あることはありますが、銅鐸に比べますと、殆どないと言って良いと思います。
無いと言うことは、鋳型を使わなかったのではないでしょうか? 現実に、鋳型は存在しますから、一枚出来ますと、それを元にして鋳型を作ることは簡単ですから、製造所では、そのようにしたのではないでしょうか?
 唐古・鍵遺跡と春日市須玖永田遺跡では、銅鐸と銅鏡、両方の鋳型が出土しています。銅鐸と銅鏡は使う人は違ったと思われます。自分のために作ったのであるならば、銅鐸と銅鏡の鋳型が、同時に出土するのはおかしいです。
 技術的なことを一つも書いていません。なぜなら、銅鐸をどのようにして作るのか知らないからです。普通に考えたら、鋳型を作っておいて、そこへ溶かした銅を流し込み、出来上がった製品を磨いたりして形を整えるとなります。そのような作り方では、不可能な製品が、中国の中山王国の遺跡から出土したものにあります。この人たちの子孫がイザナギであると云っている人がいます。田村誠一氏と私です。
この話は、拒絶反応を起こされでしょうから、横に置くとしまして、その出土品は、燭台です。

15本のローソクを立てることが出来るようになっています。下の円盤の部分を三匹の動物が支えており、二人の人が両手を広げて上を見上げています。その顔は、アップしたものでは、喜びに溢れています。上の支柱には7匹の猿が、それぞれの仕草で生き生きと遊んでいます。また、上のほうには、二羽の小鳥がさえずりながら止まっています。真ん中の柱の上の部分には、蛇とおもえる動物が、尾を絡ませながらしがみついています。後ろの方には、足がついていますから、架空の動物かもしれませんし、このような動物が本当にいたのかも知れません。
 このような銅製品は、鋳型では作ることができません。どうして作ったと思われますか?
銅鐸をつくることが出来ても、これを作ることはできません。これほど複雑でなくても、銅鏡は同じくらいの技術力がないと作ることができないと思います。
呉の人は、作ることができたのだと思います。


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