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日本大好き No96 アジスキ高日子根神 [日本大好き]

「大国主神は、胸形の奥津宮に坐す神である多紀理毘売命と結婚して、阿遅鉏高日子根神と妹高比売を生みました。今、迦毛大御神といいます」と古事記に書かれています。「胸形の奥津宮」とは、どこにあると思われますか?  このことは重要ですが、そのまま置くとしまして、アジスキ高日子根神を祭る神社の一つとして、鳥取県西伯郡手間村宮前(現在は鳥取県西伯郡西伯町倭?)に賀茂神社があります。こちらは、阿遅鉏高日子根神ではなく、阿遅鉏高日子根命となっていますから、気になります。
「今、迦毛大御神といいます」とは、京都の賀茂大社に祀られている迦毛大御神ですよと断っています。京都のことは書きたくないのです。なぜかといいますと、ややこしくて手に負えません。覚える尻から頭から抜けていくからです。まあ、頑張って書くことにします。
京都の賀茂大社とは、上賀茂神社と下賀茂神社を合わせた神社です。なぜ、分かれているのか理解できません。上賀茂神社の祭神は、祭神は賀茂別雷大神です。古事記とどうして違うのでしょう。下賀茂神社の祭神は、玉依媛命と賀茂建角身命です。下賀茂神社は正式には「賀茂御祖神社」といいます。古事記に書かれている賀茂神社の祭神・アジスキ高日子根神がどうして、京都に行きますと、賀茂別雷大神となるのでしょう? これは追及しなければなりませんが、お預けにします。

 大国主の兄弟は、元々、西伯郡西伯町倭の辺りに住んでいたのだと思われます。アジスキ高日子根は、ここの賀茂神社の近くに住んでいたのだと思われます。ところが、大国主神がスサノオの娘の須勢理毘売を好きになったときに、結婚が反対だったスサノオからいろいろの嫌がらせ受けますが、 大国主神は最後に、須勢理毘売を背負って逃げ出します。
とうとう、追いかけることを諦めたスサノオは、結婚を許します。その時に、大国主に向かって、大国村の主となれ言います。ただし、うるさい八十神は、全部追い出しなさいと忠告します。それは、アジスキ高日子根であり、スサノオの子供のうかの御魂(宇迦之御魂)であり、スサノオの子供の大年神の子の大山咋神(スサノオの孫)です。アジスキ高日子根は特別に、迦毛大御神だと書きました。
 注意してくださいということです。宇迦之御魂は、京都の伏見稲荷の祭神です。大山咋神は、比叡の日枝神社と嵐山の松尾神社の祭神です。
 
 このように書いていきますと、広がり過ぎますので、阿遅鉏高日子根神に戻します。
鳥取県西伯郡手間村宮前の賀茂神社の近くに、同じ名前の賀茂神社があります。ここは、大国主が宮殿を建てたところではないかと思います。所在地は、西伯郡大国村倭です。行ってみましたが、「倭」と書かれたバス停があり、数件のお家がありました。バス停から少し上った所に神社がありました。祭神は、別雷神、大己貴命、神武天皇、倉稲魂命 他。
この神社の由緒に大国村倭字神田に鎮座していた田辺神社・祭神、倉稲魂命を合祀したとあります。ということは、田辺神社があった大国村倭字神田にある山が、宇迦の山であることになります。
 この神社の祭神に書かれている大己貴命は大国主神のことです。日本書紀では、神の名前は、古事記と殆ど同じですが、漢字の表記が異なるだけです。スサノオは須佐之男命(古事記)と素戔鳴尊(日本書紀)。イザナギは伊邪那岐(古事記)と伊奘冉諾(日本書紀)。古事記の方は、どうにか読むことは可能です。日本書紀の方は、古事記と対比させますと辛うじて読むことができます。日本書紀は、相当無理をして音は同じ漢字をあてています。古事記と違う神なのだということを強調しています。これは、地名であっても同じです。このことが、却って、日本書記は、古事記を参考にして書いたことの証明にもなっています。
 ところが、大国主神は、読み方も同じにしたくないほど、日本書紀の作者は抹殺したかったようで、大己貴命(おおあなむちのかみ)(大己貴神の表記もあります)と書いています。

どういうことか お分かりですか? 西伯郡大国村倭にある賀茂神社は、祭神は大国主神と書かれていたのに、日本書紀と同じ表記の大己貴神が使われています。ということは、日本書紀の作者である藤原不比等の一族の者が、祭神を書き換えさせたことになります。

大己貴命だけではなく、アジスキ高日子根神は別雷神と宇迦之御魂は倉稲魂命 と書き換えるように要求したはずです。
 すぐ近くにある 賀茂神社ですのに、どうして、祭神の表記の仕方が違うのかと言いますと、鳥取県西伯郡手間村宮前(のほうは、やはり、書き換えさせられたかも知れませんが、大国主神の系統の人が、もとの表記に戻したのではないでしょうか?   西伯郡大国村倭の方の賀茂神社を祀られている方は、スサノオの子孫だと思います。
 こんな私の推理と関係なしに、現在は仲良くやっておられるのではないでしょうか?
訪れましたときは、誰一人として歩いておられませんでしたから、お聞きすることはできませんでした。

同じ、スサノオの一族ですのに、大国主は、他の兄弟をスサノオに言われるままに、実行しました。追い出しました。追い出された一族は、出雲と山城に新しい住処を作りました。

スサノオは漢人ではありませんが、天皇の敵であったと思われます。
初めは、イザナギを中心にして高天原で、新天地を作った三貴人(アマテラス、スサノオ、ツキヨミ)でしたが、スサノオは追放されることになりました。その末裔は、これだけですよと、古事記の作者は、一族、全員をかき、行先まで書いて、これから書く人は注意しなさいよと忠告しましたが、時は遅かったようで、都は京都に移り、藤原氏の時代に入りました。
 この調子で、スサノオの他の子供も、どのように全国に散っていったか、皆さんで調べ

てほしいと思います。
例えば、日枝神社(日吉神社)
は、日本にいっぱいあります。日枝神社を入力しますと、全国の日枝神社の一覧表がでて、伝承まで含めて、全てのデーターが見ることができるようにできればと思います。
鳥取県西伯町にある二つの賀茂神社を眺めることによって、この村に、スサノオの子供や孫が一緒に住んでいましたが、大国主によって、追い出されたことが判ります。
古事記には、スサノオの命令があったと書いてありますが、大国主が追い出したとの悪口は古事記では書けなかったのだと思います。
 一方、日本書紀の人たちから見ますと、自分たちの兄弟を追い出しながら、天照御大神に従って、伯耆の国を明け渡した大国主神は、日本書記から抹殺し、オオクニヌシという言葉すら聞きたくなかったのだと思います。そして、どうしても書かなければならないときは、違う人物のように、大己貴命を使いました。ただ、それだけではなく、その頃にあった神社の祭神もすべて、書き換えさせました。

この辺りへ旅行したときの旅行記を次のホームページに書いています。少しですが、写真も掲載していますから、ご覧ください。
  伯耆・因幡の国 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html
  
同じときに、大国主が兄弟と旅行をしたであろう道を走ってきました。
いなばの白うさぎ http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page507.html
書きさしですが、覗いてください。

初めに書きました「胸形の奥津宮」は、鳥取県西伯郡の近くにあります。地図で探してください。見つかったときは、嬉しいものです。
「胸形の奥津宮」が、九州の宗像神社の近くですと、古事記に書かれていることは、全部デタラメということなります。

何度も書いたと思います。「胸形の奥津宮」は九州にあってもいいのですが、そうであれば、大国主はどこで生活していたのか? 九州にいたのに、どうして出雲にやってきたのか?
どうして、日本書紀に書かれていないのか、すべて、説明できなければなりません。


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