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大好き日本No97 島根半島は島だった [日本大好き]

出雲はどのような国だったかを知りたくて、考えてきました。少し、お分かりになられたでしょうか? 分っていたのに、つまらない文を読んだために、よけい解らないようになられたかも知れません。
私は、チンプンカンプンです。書いたことは正しいのではないかと思っています。中でも、57 出雲国の太夫、漢と共謀銅剣358本を地中に隠す
   出雲国の太夫.「漢委奴国王印」を受領し帰国中難破す
107 漢、苗族160人を拉致す、倭漢戦争始まる
    漢軍、瀬戸内海全域を占領す
 この二つの事項は、年代がはっきりしています。これだけのことから、出雲国に漢人がいたというのは無理だろうと言われそうですが、古事記を読むことによって、出雲は漢人の国であると警告しているのは、間違いないでしょう。
問題は、57年以前は、どのような状態であったのかです。

神武天皇はいなかったと思っておられる方には、いくら説明しても無駄ですが、神武東征に出発した天皇は、伯耆の国に住んでいました。その事実は、みごとに、日本書紀によって消されてしまいました。それゆえ、現在の歴史の常識から言いますと、天皇は九州の日向を出発したことになっています。
私は、境港市の対岸にある日向が、出発地点ではないかと考えています。この時は、島根半島は島ではなく、弓ヶ浜のところも、辛うじて半島になりつつあり、多くの軍船を停泊させるには、良いところであったであろうと推察しています。彦名という地名のところは、古事記にでてくる少名毘古那を祭る神社がありますから、稗田阿礼は、ここへも訪れて、この神の名前を知ったのではないでしょうか? それは、700年頃のことです。

イザナギとイザナミが国造りをした事が、古事記に書かれています。
初めに、水蛭子と淡島を生んだ。しかし、この子は例に入れずとあります。
次に、淡道の穂の狭別島を生んだと書いています。
初めの「水蛭子と淡島」は、イザナギとイザナミが、二人で開発した島である。しかし、その後に書かれた島は、部下に開発(侵略と言ってもいいかも知れません)させた島だと思います。淡道の穂の狭別島には名前が書いてありませんが、名前が書かれている島賀あります。その名前は、開発したか、統治を任せた人の名前ではないでしょうか?
「水蛭子と淡島」の水蛭子は、ヒルゼン高原のことだと思います。淡島は淡路島のことだと思います。私が参考にしている岩波文庫の翻訳者は、淡道の穂の狭別島を淡路島と書いておられます。そのために、前述の淡島は、所在不明と書いておられます。

淡道の 穂の 狭別島は、このように三つに分けないのだと思います。この大きな島は、名前がなかったのでしょう。稗田阿礼は、この島にもやってきて、山の一番高いところに登って、東西に延びる真ん中の山が、狭い島を二つに別けているのを知ったと思われます。朝夕の波によって、現れたり、消えたりする弓ヶ浜の半島を「淡道の穂のようだ」と表現し、淡道穂狭別島という名前をつけたのではないでしょうか? 長いですが、これで一つの島の名前だと思います。

どうして、このような結論に至ったかは、古事記の「大八島の生成」に書かれていることを以前に検討しました。(http://homepage1.nifty.com/o-mino/page166.html )

この私の屁理屈が通るとすれば、紀元前180年~200年ころに、イザナギが、島根半島を支配していたことになります。その後、神武天皇が、この辺りを掌握していたことになります。

問題は、107年 漢、苗族160人を拉致す、倭漢戦争始まる 以降から、古事記ができた時には、古事記に、出雲の国造は漢人であると書いていますから、漢人が支配していたと思われます。
古事記のできる712年まで、立証不可能の年代になります。


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