SSブログ

日本大好きNo115隠岐島には神社が多い [日本大好き]

隠岐島には、大正時代に出版されたものと思われる「隠岐島総説」があります。ここに、「隠岐島総説」を発行した時点に存在した神社の名前が書かれており、合計107社が書かれています。延喜式神名帳に掲げられた神社だけでも、十六座あります。

「隠岐島総説」の一節の一文です。
「隠岐島民は、敬愛愛国の思想に富み、神社を崇敬するの風あり。古来、有名な神社多く、延喜式神名帳に掲載せられたるもの、十六座に及び、就中、「名神大」と註せられしもの、知夫郡由良比女神社(ユラヒメ)、海士郡宇受加命神社(ウズカノノミコト)、同郡伊勢命神社の四座を有し、出雲国百八十七座中、大社二座、因幡国の五十座中、大社一座、伯耆家石見の大社無きに比し、隠岐の孤島にして、十六座中、大社四座を有するは、実に畏敬と謂わざるべからず。殊に、上古は、朝鮮半島交通の要路に当り、平安朝以来は、新羅来寇の衝に当たれるを以て、屡、勅を下して、異国調伏の祈願あり。神階授与の事、亦屡、国史に見えたり。朝廷に於いては、当国の辺要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし。」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page211.html
と書かれ、伯耆や石見に比べても、多いことが記されています。重要な島であったことが判ります。重要であるということは、多くの人が住んでいたことになります。

*********面積(km2) **** 人 口*******世帯数

海士町------33.50-----------2,581----------1,160
西ノ島町----55.98-----------3,485-----------1,566
知夫村-----13.70------------725------------  364
------------------------------------------------------
島前計------103.18---------6,791 -----------3,090

隠岐の島町 242.97---------16,902----------6,783
隠岐郡計  346.15----------23,693----------9,873

上の表は、島根県のホームページより転載しました。 面積は(H17.4.1)、人 口と世帯数は(H17.10.1)です。(すみません。----をいれませんと、数字が、全部左に寄ります。辛抱してみてください)
せめて、江戸時代の世帯数を知りたいのですが、不明です。

日本大好き No113 隠岐の地形で見ましたように、地形的には、住むのに適したところとは思えませんのに、神社が多いことを説明するには、人はたくさん住んでいたと考えるしかありません。
 そんな神社は、江戸時代になって出来たのが殆どであるとホームページに書いてあるのを見たことがありますが、それは、事実ではありません。3000以上の式内社と称する神社があったことは、動かし難いからです。
 では、隠岐島の神社が、紀元前からあったのかと言われますと、判りませんの一言です。

この問題は重要ですので、次回に書くとしまして、隠岐島には神社が多いのかどうかを考察してみようと思います。残念ながら、多いのかすくないのかを知るために、全国の町や村の人口と、そこにある神社を調べる必要があります。残念ながら、データーはゼロです。

学問的ではありませんが、別のところから考えてみようと思います。

椋橋総社(椋橋神社)があります。所在地は、大阪府豊中市です。神戸市の本住吉神社と敏馬神社との関連でもどのようなところか知りたくて、訪れました。平成15年27日のことです。ホームページに書いていますので、興味ありましたら、ご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page429.html

その時に、読んだ由緒に書かれていたことに驚いた記憶がありました。「当杜は古来より東西椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で・椋橋総杜又は椋橋荘神崎松原の社とも称する。・・・・略・・・・椋橘荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその曲民の住む土地であった。(東寺古文 新撰姓氏録)この荘の区域は猪名川を境にして東西に別
れ、東椋橘荘が石連寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、州到止、荘本(庄本)、島江、以上十四カ村と西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴田、富田,額田、高畑、善法寺、法界寺、以上十ヵ村と東西合わせて二十四力村からなっていた。(地理志料)」とあります。
 驚いただけで、二十四力村の範囲は調べませんでした。神社の名前が、椋橋総社とありますから、二十四力村でお祭りしていたのは確かでしょう。従いまして、各村には、別に神社があったと思いますが、調べていません。
この村の近くに武庫川が流れています。この川を遡りますと、神戸市北区の有馬温泉に到達します。
この有馬温泉の歴史を調べたことがあります。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page423.html
孝徳天皇は、難波長柄豊崎宮から有馬へ、舒明天皇は大和から有馬へ行幸されています。道中危険がいっぱいであるのに、有馬まで、湯治に出かけたということは、警備に余ほど、自信があったのではないか? 有馬までは、武庫川を利用されたのではないか?  と推理しながら、そうであるならば、武庫川の両岸は、天皇家の祭神が祀られているはずであると河口から、有馬までの両岸の神社をすべて、行ってきました。
 どんどん、脇にそれますので、元に戻します。
 大きな神社を支えるには、このように多くの人の支えがあったことが判ります。

では、小さい方の例をあげます。
No368 邑久郡の古墳 において書きましたように、、岡山県の邑久郡のことを書こうと牛窓を訪れました。あるペンションに宿泊しましたときに、ご一緒でしたご夫婦とお喋りしながら、朝食をしました。その方は、岐阜県揖斐郡の方でした。長良川の鵜飼が行われる近くだそうです。その方は、最近、大きな仕事を終えて、気分が楽になり、二人で奥さんの実家である広島へ行くところだと言われました。
 大きな仕事とは、自分の家の仏壇を作り変えたことと、村のお寺の修理にお金を出したことでした。私が驚くから大した金額ではないかも知れませんが、やはり、驚かされる金額でした。村は、40世帯です。お寺と神社があり、皆さんで守っておられるそうですが、この人数では、お祭りも出来ないそうです。数か村が助けあいながら、運営しておられるそうです。
 神社と言っても、小さな祠だけの場合もありますから、一概に論ずることはできませんが、長い歴史のうちには、祀る人もいなくなった神社は、合祀とかの名のもとに、併合されて末社として祀られています。

二つの例を挙げましたが、隠岐島の人口と神社を比較しますと、神社は多いように思います。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。