No241 宗像大社の周辺の古墳 その4 [日本大好き]
【2】 三雲小路遺跡について書きます。
岡村秀典著 「三角縁神獣鏡の時代」より
糸島平野の真ん中の前原市に存する。1822年に発見される。
大量に出土したが、現存するものは、聖福寺にある銅剣1本と銅鏡1面だけである。
福岡藩の国学者、の調査・記録がある。
『三雲古器図考』(18822年『柳園古器略考』所収)
『筑前国怡土郡三雲村古器図説』(1823年)
1974年・1975年福岡県教育委員会が破壊された一号甕棺墓の破片から出土品を復元、
青柳種信の記録との照合の上、出土品を下記の如く報告する。
このとき、隣接地に、ニ号甕棺墓を発見する。
一号甕棺墓 (棺外) 有柄中細銅剣 1
中細銅矛 1
朱入小壺 1
(棺内) 細形銅矛 1
中細銅矛 1
前漢鏡 31以上
金銅四葉座金具 8
ガラス璧 8
ガラス勾玉 3
ガラス管玉 60以上
二号甕棺墓 (棺内) 前漢鏡 22以上
硬玉勾玉 12
ガラス垂飾 1
この地は、「伊都国」ではないかと言われていて、鏡の多さから、この地を統治した首長墓と見られている。
須玖岡本遺跡の銅鏡と同じように、完全に残っている鏡は内容です。残された鏡からの研究(柳田氏)から、合計53面の鏡は、前漢鏡とされています。その種類も掲載しておきます。
一号甕棺 前漢鏡 31以上の内訳は、
重圏彩画鏡 1 27.3cm
四乳羽状地文(雷文) 1 19.3cm
重圏銘帯鏡 3
連弧文銘帯鏡 26
二号甕棺
草葉文鏡 1
連弧文銘帯鏡 3
単圏銘帯鏡 18
岡村秀典氏は、古墳から鏡と同時に出土した土器から年代を定めないで、中国にある似た銅鏡の名前を挙げて、これは、漢鏡2期(前二世紀後半)というような考えをしておられます。
例えば、重圏彩画鏡は、次のように説明しておられます。
「同心円状の凹帯で区画した鏡背面に朱、青、白色顔料で絵を描いた鏡で、青柳種信が径九寸
(27.センチ)と記した大型鏡である。
類例に陜西省西安範南村「陳請士」墓出土があり、匕面縁の特徴からも、漢鏡2期(前二世紀後半)に位置づけられる。
このような調子で、四乳羽状地文(雷文)も漢鏡2期とされています。
岡村秀典氏は、耳慣れませんが、漢鏡を1期から8期までにほぼ、50年ごとになるように分類されています。これは、理解し易いのですが、その後ろに書かれている(前二世紀後半)が何のことだか分りません。前二世紀とは、紀元前2世紀ですから、紀元前100年から199年までですね。こんなことでも、素人には解りません。その間の後半とは何時のことでしょうか? 歴史は、紀元前199年からあり、その後に紀元100年がやってきますから、後半と言いますと。紀元150年から紀元100年の間となります。それならば、紀元前125年前後と書いて頂きますと、すぐに判るのですが、漢鏡2期も前二世紀後半も解りませんから、結局飛ばして読みますと、チンプンカンプンです。
お前は何を言っているのだと言われそうですが、素人向けの本にしたら、不親切だと書いているのです。紀元前125年前後と書いて頂きますと、私は「アマテラスとスサノオ」の時代と考えます。
岡村秀典氏は、『筑前国怡土郡三雲村古器図説』(1823年)と書かれましたように、この地は、怡土郡(イトグン)です。この後にも述べられていますように、魏志倭人伝に書かれている伊都国であると考えておられます。魏志倭人伝には、卑弥呼のことが書かれていまして、238年という数字を知ることになります。紀元前125年前後に作られた鏡を、中国に貰いに行って、紀元後200年ごろまで、誰かが持っていて、墓に入れたと考えることになります。伝世鏡という考え方の導入です。
中国に貰いに行ったという根拠は、前漢時代のことを記録した『漢書』地理志・燕地に「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たり献見すと云う」という原文では、僅か、19字の記事を掲げておられます。楽浪郡は、中国が、紀元前108年に朝鮮を滅ぼして4つの郡を設置したところの一つです。
楽浪郡は、4000戸ほどの規模です。
三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 弁辰三
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/benkan.htm
をごらんください。沢山書かれている国にある戸数が、總四五萬戸とあります。これは、45000戸でしょうか。4,50000戸でしょうか? 朝鮮の一部であった楽浪郡が4000戸ですから、全部で50000戸でしょう。これですと、邪馬台国だけで、70000戸ですから、弁辰だけで50000は少ないでしょうか? 原文を読めない素人の悲しさです。僅か、4000戸の僻地の管理の人に、王に与えるような漢鏡を与える権限があったのでしょうか? いろんな疑問がわきます。
このように、いろいろ難しく考えなくても、漢人が、紀元2世紀に九州にやってきていたのだと考える方が、すっきりするように思うのですが・・・。
こんなことを考えていますと、三雲小路遺跡のことを考えるのが、嫌になります。乗り掛った舟ですから、続けますが、紙面が多くなりましたので、次回に続きます。 H19.12.06
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