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No242 宗像大社の周辺の古墳 その5 [日本大好き]

No241からの続きです。
一号甕棺   前漢鏡 31以上の内訳は、
重圏彩画鏡         1      27.3cm
  四乳羽状地文(雷文)   1      19.3cm
  重圏銘帯鏡         3      
  連弧文銘帯鏡       26
 二号甕棺
             草葉文鏡          1
             連弧文銘帯鏡       3
             単圏銘帯鏡        18

同様の観点から、 四乳羽状地文(雷文)も、漢鏡2期と思われ、須玖岡本遺跡と同時期に手に入れたと思われます。
その他、二号甕棺をふくめて、漢鏡3期、即ち、埋葬年代は一世紀中ごろと推定できます。

その他に考えられることは、一号甕棺の漢鏡3期の鏡の大きさは、16~18.2cmの中型鏡であるのに対して、 二号甕棺の漢鏡3期の鏡大きさは、6~11.4cmの小型鏡で構成され、二号甕棺では、権威の象徴のガラス璧がなく、武器もないことから、女性墓と推察され、鏡の大きさが身分的な上下関係を表している可能性があると書いておられます。
ガラス璧が権威の象徴であると書きましたが、岡村秀典著 「三角縁神獣鏡の時代」で確かめて頂ければと思います。

タイトルは、「宗像大社の周辺の古墳 その5」です。私は、宗像大社と近辺の遺跡がどのような関係にあるかを見ようと思っています。伊都国や奴国の人たちが、中国へ行くときの航海の安全を祈願するために、宗像大社があったのではないようです。時代がまったく違います。
三雲南小路遺跡や須玖岡本遺跡の住民は、宗像大社より800年も昔の人たちのようです。
私は、魏志倭人伝の頃にも到達しないと考えますが、そのようなことはないと、『日本の古代遺跡 福岡県』の著者である渡辺正気氏は、次の文を書いておられます。

【伊都国王が、上記のように紀元前一世紀から明らかであるが、『魏志』倭人伝の伊都国の条にも、「東南陸行五百里、到伊都国、官曰爾支、福曰泄謨觚。柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統属女王国、郡使往来常所駐」とあって、世々、王がいたことが明記されている。ずっと、三世紀の卑弥呼の時代まで王家は続いていた。それは、ずっと、女王国に従順に服属していたからであろう】 

いかがでしたか? 別に、どちらの方がすばらしいとか、間違っているとか書くつもりで並べた訳ではありません。
岡村秀典氏の論法は、素晴らしいですね。完璧の感じがするのですが、この近くには、立岩遺跡もあります。唐津市には、桜馬場遺跡があります。同じ佐賀県には、吉野ヶ里遺跡、三津永田遺跡、二塚山遺跡があります。プロの方は、面白いほどわかるかも知れませんが、私のような素人になりますと、もうお手上げです。
その点、渡辺正気氏のは、このまま、読めば解り易いです。しかし、前のページには、井原鑓溝遺跡のことがかかれています。また、飯塚市の立岩掘田遺跡のことが三行ほど書かれあり、これらのことから、井原鑓溝遺跡の甕棺は、伊都国の王制が、紀元前から紀元後にも継続していることを示しているという文章があります。ページ63に書かれています。
私には、読んでいても、そのようには思えませんが、先ほどの【伊都国王が、・・・・・・・・・・女王国に従順に服属していたからであろう】 という文章の後ろに、【その関係もあって・邪馬台国は一大率をここにおいたのであり、魏の帯方郡の使者がわが国に来るときも、いつもこの伊都国を滞在地とした。しかし、三雲・井原鑓溝の三王墓のころまでは、邪馬台国の勢力は粉の地によばず、・・・・】と文章は、具体的に進められ、読む者に興奮を与えると思います。
 井原鑓溝も王墓として捉えられています。倭人伝に「世有王」と書いてあったのに、「世々、王がいた」と、続いてあったと書いておられます。
 このぶぶんだけでは、面白いのですが、佐賀県の佐賀県には、吉野ヶ里遺跡、三津永田遺跡、二塚山遺跡は、無関係なのでしょうか? 
 神武東征は、この地域では関係なかったのでしょうか? 景行天皇、仲哀天皇の遠征のときはなどと考えますと、この一部だけ辻褄が合っても、歴史とは言えません。

No326において、宗像大社のまわりの三角縁神獣鏡の出土地のことを書きました。これらの村とは、仲良くしていたのでしょうか? 

このようにいろいろ考えていましたら、岡村秀典氏の言われることも、渡辺正気氏の言われることも、おかしいなと思えますし、私の漢人がはじめからやってきていたというのも、あやしくなってきます。
岡村秀典氏の『三角縁神獣鏡の時代』の117ページと130と131ページの図は、眺めているだけで、いろいろのことを教えてくれます。
須玖岡本遺跡は奴国、三雲南小路遺跡を伊都国の王墓とするには、少しむりがあるように思えるのですが、ではお前説明しろと言われますと、お二人の論法では無理のような気がします。

次に、117ページの図21を転載しますので、ご自分で観察してください。


着眼するところは、急激に減ったところであり、急に増えたところでもあります。

唐津市の桜馬場遺跡は、末蘆国の王墓と言われていますので、眺めてみるつもりでしたが、益々、混乱しますので、止めにします。次回から、別の角度から、北九州は、魏志倭人伝にかかれた、国々ではないのではないかという話を書いてみようと思います。


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前立腺隊じっちゃマン

初めまして。今朝方、近所の砦跡を散策していて発見したこと、ご報告します。

実は今回古代ではなく、徳善の墳墓に隣接する村の、河津氏の砦跡とされる亀山城の詳細を調べようと思ったのでした。砦から300メートル足らず離れて、円墳をツブしたとおぼしき亀山神社。その裏手麓に、河津氏が代々奉じたという禁裏屋敷跡の墓石群を発見。宅地造成により北東300メートルからの移築、と記されていました。

九州王朝を想定しないと、すべてを合理的に説明できないと感じている私は、「きんり」と読んですぐに、徳善の一族が居住した光景を夢想したことは言うまでもありません。ええ、吐き気がするほど驚きました。あらまほしき希望、素人推量について、口角泡を飛ばして論ずる気など毛頭ありませんが、世界に類を見ない弱体皇室の推戴部族を論ずるなら、風呂敷を広げて語るセンスのほうがやっぱり変ダヨ・・・とボヤいたのでした。

さらに近くで、あたし飯塚の大分(だいぶ)から嫁に来たの、旧姓末永、と語る御婦人に遭遇。大分は、皇太子を扶育した太傅府の痕跡でありましょう。大分八幡の禰宜が末永家。ヘタしたら飯塚王家の子孫じゃないですか!かつて、兄貴が古物を処分したから、と語った御老人と、兄さんが処分しちゃった、と言った今朝の御婦人とは、兄妹ですよね。これも驚きのあまり、聞くのを失念しました。かつて御老人が、ここは宇佐八幡と筥崎さんとの元宮なんだヨ、と教えてくれたのでした。八幡様の鬼門の方角に廃寺跡。地方レベルでない塔礎は、久留大善寺から移築された法隆寺の五重塔を彷彿とさせます。どこかで現存していてほしいと願っているじっちゃマンです。
by 前立腺隊じっちゃマン (2008-04-06 12:11) 

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