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No244 邪馬台国は、北九州ニあったか その2 [日本大好き]

後漢の辺りのことは、日本には、字としては残っていませんから、外国の文献しか参考にする物がありません。今回は、魏志倭人伝から考えてみます。

魏志倭人伝に、次のような文章があります。何人かの人が、解読に挑戦しておられます。「有裸國 黒齒國」をキーワードにして、ファイルを出して、解読されたものを全部読んでください。この部分の解読を試みておられる方は、多くありませんから、全部読んでも大したことはありません。
すべての人に共通することは、自分が知っている知識を使って考えておられることです。当たり前ですね。知らない知識は使うことができないからです。ある程度、邪馬台国が九州であるとか、四国にあるとかの目安が付くのですが、一部まずいところが出ますと、作者の陳寿が勘違いしているとか、方向を書き間違えたのだとか、一里を70mにすると末蘆国は、唐津のところだとか無理に設定されておられます。
 ひどいのになりますと、魏志倭人伝は当てにならないとなります。
 問題の文章は、次の通りです。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

①「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。
②また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。
③ 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり」
 上に書きました翻訳は、わたしには、一番納得できるものでしたので、利用させて貰います。
女王國が問題です。九州の宇佐だと言う人、佐賀県だと言う人、そこでも良いのですが、そこから、東へ海を渡って、千余里行くと、名前は書いてありませんが、ある国があると書いてあります。一里が70mという人ですと、千余里は70kmです。宇佐を主張されている方は確かに、東へ海を渡って行くことができますが、たった、70kmですと、四国になってしまいます。そこに有る国があり、その南に侏儒國があり、そこまでは、去女王を去ってから四千餘里と書いてあります。この辺りでおかしいから、一里は400mの説を採用します。1600kmになり、海に出てしまいます。
 この辺りは、いろいろ考えることが可能です。次に、「また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。」侏儒國は、小人の国と書いておられる方がおられました。大国主と一緒に国造りをしたという少名毘古那神が、古事記に書かれています。この少名毘古那神が、四国でも活躍していたという話は、私もどこかで読みましたから、いい線を行きますが、その次の「また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし」がいけません。それで、果敢に挑戦して、南方の島とされていますが、この当時ですと、水が腐って5日しかもたないだろうと書いておられる方がありました。現在のように、細菌に汚染された水では、持たないでしょうが、最近、流行りの六甲の水や富士山の伏流水ですと、2ヶ月でも、もっと、腐らないでしょう。 水分の多い食べ物もあります。船に張った帆など、荒海を航海していますと、ボロボロになってしまいます。それでも大丈夫だったのです。あらゆる知識を使って、今から5000年前から、中国から、台湾へ、台湾から、ミクロネシアの島々へ航海をしています。

歴史番外編No47『オセアニア大航海展』
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2007-11-25
をご覧ください。二本の帆が張られています。二本マットの船が描かれた土器をいつか見たことがあります。近海を走っていた船と思っていましたが、ここにある写真の船は、15mぐらいでしょうか? 太平洋を航海することができるのです。
-星や星座は航海術の中核を成すものでしたが、星以外に、波、海流、海鳥、魚、クジラ、風、嵐、雲などのさまざまな現象から航海術を生みだしていました。
僅か、数分見ただけのビデオと購入した展覧会用の冊子の知識から判ったことは、ハワイからタヒチまでは往復していたようですし、ハワイからサタワル、パラオを経由して、日本に公開したホクレア号は航海の可能性を実証しています。
 また、別のチェチェメニ号がミクロネシアのサタワルから沖縄まで航海したことも知りました。チェチェメニ号はその後、日本まで来て、現在、常設展示場にあります。このことは、帰宅してから知りましたので、よく観察してきませんでしたので、展示の船を、また、見に行こうと思っています。
 冊子の題名は、『オセアニア』海の人類大移動 国立民族学博物館(編)です。
アマゾンで購入するときは
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AA%E3%82%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E2%80%95%E6%B5%B7%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95-%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/dp/4812207525
1995円です。
この本を読んでいますと、理屈抜きに、「また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。」は、陳寿は知っていたことになります。

最後は、「倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり」です。
五千余里は、400倍しますと、2000kmとなります。私は、邪馬台国は、岡山と思っています。女王の住む岡山から、倭を一周すると2000kmぐらいでしょうか?  直線距離で、地図上で図りますと、九州と北海道を除きますと、2000km以上はありそうですが、実際に、海を一周しておられる方が、ホームページに書いておられますが、誰ひとりとして、一周
何km掛ったと書いておられる方はありません。私も測量を試みましたが、3000km
はありそうですが、紀元3世紀とすれば、正確な数字を書いていると思われます。陳寿は、「倭の地を参問するに」と書いていますから、自分で確かめたり、直接、まわった人ではなく、風聞を聞いたと思いますが、私は紀元前から、中国人が日本に来て、しかも、群馬から絹を九州まで、運んでいましたと推理していますから、軍事上、一周する必要は十分あったと思います。それ以上に、アマテラスは、東北でもいっぱい神社に祀られていますから、稲作を直接伝搬させたと考えています。大国主も祀られています。アマテラスは、大国主に瑞穂の国の明け渡しを迫る時に、最後まで従うことに反対した建御名方神をやっつけます。建御名方神は、辛うじて、諏訪湖の所まで逃げますが、追いつかれます。しかし、その後、どこへも行きませんからと約束して命を助けてもらいます。何処へも行かないということは、あちこち、絹の商売で歩きまわっていました。その後、諏訪から北の方で、活躍したと見え、新潟などに諏訪神社がいっぱいあります。そして、今では、全国に8000あると言われる諏訪神社の祭神になっています。
 日本を一周していたのは、漢人だけではなく、アマテラスなども、紀元3世紀から行ってました。
 随分、話がいろいろに飛びましたが、絹が群馬の方から、中国へ、そして、ローマへも運ばれていたとしますと、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」の部分は、容易に理解可能です。
逆に、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」の部分が、陳寿がいい加減なことを書いたとなど、言わないで、正しいと考えますと、この部分が、魏志倭人伝の記述がただしいことを証明していることになります。
 このように、倭の国について詳しく書いたということは、魏の国が、日本に関しては、これだけ、嫌、それ以上の軍事資料を持っているのだと、公表したようなものです。魏志倭人伝も正史ですから、中国にとって、不利なことは書かなかったと思います。
 このような観点からながめて、魏志倭人伝を読みますと、正しい情報を得ることができると考えます。
 わたしが、一番、強く思ったことは、朝鮮より詳しく書いていることです。それだけ、知っているということは、中国人にとって、日本は、重要な国であったことの証拠だと考えます。
次回は、このことを踏まえて、邪馬台国は、北九州ニなかったことを書いてみるつもりです。

ただ、この話は以前に書きましたが、誰一人として、賛同する人はおられませんでした。

その時は、朝鮮の史書『三国史記』の新羅本記には、第四代解脱王は、「倭の東北一千里」にある多婆那国の生れだとある。と書かれてあるものを元にして、邪馬台国は、岡山にあることを説明しました。その時に、いつか、真正面から切り込んで書いてみるつもりですと書いています。
H17.12.15のことです。
「邪馬台国と多婆那国」 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page731.html 
「多婆那国から邪馬台国への道」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page732.html


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降龍十八章

岡山県説、がんばってください。期待しております。いろんな研究を切磋琢磨することで、真実が明るみ出るのだと思います。

最近は、ペルーでも縄文人の土器や遺跡が発見されており、何よりDNA鑑定で、完全に立証されましたから、南米までいけたことは間違いありません。
by 降龍十八章 (2007-12-13 13:50) 

vetty

岡山県説、応援ありがとうございます。すこし、バテ気味ですから、元気が出ます。南米までいっていることは、うっすら知っていました。北のアリューシャン列島を通って行ったと教えられていましたが、先日、
吹田市のオセアニア展を見ていましたら、
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2007-11-25

そのまま、海を越えた可能性の方が大きいように思いました。
 邪馬台国 どこまで迫れるか がんばりますので、読んでください。

こちら「楽しい人生」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/ に伊勢のことを追及しています。これと、邪馬台国とドッキングするのではないかと、並行して考えています。
こちらも覗いいただけますと、うれしいです。
by vetty (2007-12-14 09:51) 

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