SSブログ

No243 邪馬台国は、北九州ニあったか [日本大好き]

No225 辺りに、「少し、疲れましたので、切り口を変えて楽しもうかと思っています」と書き出しました。あんなに本土から遠いところにある沖ノ島に、宗像大社の神社があったのだろうかと書き出しました。調べるうち、やはり、少しおかしいことを書きました。しかし、おかしいどころか、宗像神社は、どんどん大きくなり、そこを取り仕切る宗像氏は、天武天皇の后になり、第一皇子である高市皇子が誕生しています。
 宗像氏は、此の地ではどうしても重要人物であったはずです。
それを探っていますと、宗像神社は、鳥取の米子市にある宗形神社を無理やりに持っていったのではないかという想像に突当ります。
 まだ、仮説の域を出ませんが、藤原不比等は、日本の歴史から、伯耆に居た天皇家の人を抹殺することを考えた疑いがあります。一番は、神武天皇です。次は大物主神も気になったようです。
 その証拠は、近辺に残されている地名や神社のデーターから推察できます。神武天皇の存在まで、否定するところまではいきませんでしたが、自分たちの存在に都合の良い人たちの復興をもくろみました。藤原氏は、天智天皇以前から、天皇家のを抹殺するように仕組んだ可能性があります。
このような情勢の所に、出現したのが、天皇家は、どれほど、昔から続いている正統な家柄であるかということを書いた古事記が出現しました。712年のことです。
 藤原不比等は、あわてたと思います。すぐに、没収して自分たちの日本史を作成します。これが、日本書紀です。
天智天皇以前に、多くの天皇家の人が、内紛のように書かれています。しかし、日本書記と古事記をよく読みますと、ついつい、自慢話を日本書紀に挿入したために、天智天皇も天武天皇も暗殺された姿が浮かびあがってきます。
「楽しい人生のNo25 H2006.09.27の 天武天皇は暗殺された」に書いています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/09/index.html
 
藤原不比等は、没収した古事記を、参考にして日本書記の作成を急ぎます。神武天皇の足跡を消す作業は大変でした。伯耆に存在する神社にかかれている祭神の名前を日本書紀に書きこみました。読み方は同じですが、漢字は全く変えましたので、誰も読むことができません。地名の表記も変えました。偶には、全く異なる名前を付けました。日本書紀では、大己貴神、古事記では、大穴牟遅神の表記が異なります。

 ところが、伯耆の国は、天皇家の力が強かったので、変なところから、ばれてしまいました。式内社という言葉を聞かれたことがあると思います。どこで調べられても、朝廷から保護されていた、最も信頼おける神社ということになっています。 朝廷直轄のような神社ですのに、アマテラスは、殆ど祀られていません。式内社は、延喜式という法律書に掲載されている神社ですから、そのようなことになるかと思いますが、決定したのは、藤原家の者たちだと推察しています。全部ではありませんが、その一部を集めたものがありますから、各神社の祭神を眺めてください。
【式内社と祭神】 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

伊勢はなぜ多いかは、現在調べています。
【楽しい人生】のH2007.09.28のNo66~No80に、別宮の伊雑宮と瀧原宮のことを書いています。いかに、特殊な神社であったかが判ると思います。

宗像大社を解明と思いましたが、無理でした。そこて゛、宗像大社が存在していた以前の、北九州を調べ始めたのですが、伊都国、奴国と呼ばれている所は、紀元前2世紀の前漢で作られた鏡をお墓に埋葬していた人たちのお墓であることが判りました。その人たちは、卑弥呼が生きていた240年頃でも、伊都国、奴国で生活をしていたと書かれています。
 しかし、その頃(3世紀半ば)には、前漢の鏡は、北九州では、見つかっていません。勿論、誰も住まなくなったのではなく、住んでいる人は居たでしょうが、華やかな文化を残す人たちはいなかったことになります。
前置きが長くなりましたが、見つかった考古学的遺物の実から、歴史をみますと、伊都国、奴国、末蘆国は北九州になりますが、あとの20以上の国や、邪馬台国は、九州では見つからないと思います。
 結論を先に書きますと、邪馬台国は、岡山、鳥取、島根、兵庫にまたがる、広大な土地にあったことになります。

その証拠は、残念ながら、日本の文字に書かれた資料では見つけることができません。

倭についてはじめて書かれた正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志です。「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」 とたったこれだけのものてす。意味は、
楽浪海中に倭人あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。
解った気にならないで、徹底的に理解することが大切と思います。
「歳時をもって来たりて献見すと云う。」ここに、知らない言葉が二つあります。歳時は、「一年中のおりおり」です。献見は辞書には掲載されていません。「献」は奉るであり、「見」は会見することですから、日本語で言いますと、「朝見」となるでしょうか? 本来なら、皇帝に接見することになりますが、「樂浪海中有倭人」とありますから、樂浪の役人に会いに行ったのかも知れません。しかし、献見の言葉が、中国では、皇帝に会う意味ならば、皇帝に会いに行ったことになります。どちらにしても、接見は、楽浪郡を介して行われたと思われます。

 楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した四郡の一つです。その役所は、今日の朝鮮民主主義人民共和国の平壌付近にありました。四郡とは、真番郡・玄菟郡・楽浪郡・臨屯郡をいいます。
 重要なのは、「分爲百餘國 以歳時來獻見云」の部分の最後の「云」です。作者の班固、班昭は、誰かから、聞いた事になります。聞いただけで、僅か、19字とは言え、日本のことを書いたということは、重要視したと考えるべきです。どこが重要かと言えば、「以歳時來獻見云」でしょう。100ヶ国が来たわけでもないでしょうが、きっと、頼みごとにやってきたのだというのが、今の歴史のプロが考えられていることだと思います。
 私は、この頃、すでに日本に居た中国人に連れられていった日本人のことを「獻見」にやってきたと書いたのだと思います。
 このことは、前回までに、須玖岡本遺跡は奴国、三雲南小路遺跡を伊都国の王墓とする歴史家の考えを見て頂きました。歴史家は、紀元前2世紀から、此の地に居て、魏志倭人伝に書かれている230年頃にも、奴国、伊都国が北九州にあったとされています。

今度は、『後漢書』「東夷傳」を見て頂きます。記事が二つあります。
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
「奉貢朝賀す」とありますから、倭の奴国の人は、それ以前から中国の存在を知っていて、挨拶にいったことになります。
 どうして皇帝に会いに行ったのでしょうか? 用事もないのに、貢物を持っていくはずがありません。「光武、賜うに印綬を以てす」とありますから、印綬をもらったことは判りますが、印綬の値打ちを日本の皆が知っておればいいですが知らなければ貰っても意味がありません。ドラマでよく用いられます水戸黄門の印籠のようなものでしょうか?
倭人は光武帝など知りません。知っているのは漢人でしょう。となりますと、奴国の周りには、すでに、漢人がいっぱいいたことになります。奴国の人は、印綬を漢人に見せて物事を有利にしたのでしょう。
授けられた金印は、江戸時代に博多湾・志賀島で掘り出されたものとされ、少し、話が出来過ぎのように思われます。私の考えている奴国は、出雲から少し鳥取に行ったところだと考えています。そうなりますと、中国から帰ってきた船は、対馬から直接出雲のほうへ帰って来たと考えたいのに、志賀島へ寄道をして、そこから帰る途中に船が難破して、金印だけが、金だから残っていたことになります。奴国が春日市のところとしますと、直接、奴国に帰って来て、もう一歩のところで難破したことにります。難破しなかったら、奴国の王さんに手渡されたはずですが、どうして、畑から出てきたのでしょう。納得できませんが、プロの方の認定されて本物とされています。

H17.06.05に「新しい日本の歴史」のタイトルで、日本史を書き始めました。その時のNo9に、「印綬 【漢倭奴国王】」と題して書いています。 「自稱大夫」と言ったと書かれています。ということは、後漢書を書いた范曄は、使いの者が、大夫でないことは、知っていたのだと思います。 

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関の楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していたことになります。
中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてとなります。
『後漢書』の中に、「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」 と文があります。
会稽の海外に東ていの人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見するという。
会稽郡、今の蘇州・上海あたりの海の彼方に、東ていの人がいて、二十余国に分かれて、倭人と同様に朝献していたという記事から、この”東ていの人”が中国から日本を指していると解釈すれば、前漢時代にすでに会稽と関係ある倭があったことになります。
  次回につづきます。 


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

降龍十八章

>倭国の極南界なり。

については、九州王朝説の本家の古田先生が

倭国、南界を極める

と読むべきだ、といっておられます。つまり、南九州をも征服した。だから、印綬を与えるのだ、という理由になっているのだということです。

従来の倭国の南界なり、では意味が不明で、日本の形がおかしくなってしまいますからね。
by 降龍十八章 (2007-12-13 13:36) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。