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No274 多岐原神社 その2 [日本大好き]

多岐原神社の境内で、教えて貰ったことの中で、心に残ったものは、
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。 
と、④3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったこと。私
神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったことです。

瀧原宮と多岐原神社は、6キロぐらいの距離でしょうか? それにしても、毎日とは大変なことです。ただ、仕事だからでは説明がつかないなと思いました。

 瀧原宮から多岐原神社へ来るときに、42号線から、ある交差点を右折しましたが、この交差点を左折しますと、橋を渡ります。この橋から一瞬見た景色は、両側とも深い渓谷でした。渓谷になっているということは、両岸は岩であるということです。(もう一度確認に行くつもりです) その岩がどうして、深く削られて渓谷になっているかということです。考え方は、二つです。一つは、その部分だけ、軟弱な層があった。もう一つは、水量が多かったです。たとえば、四国や和歌山の吉野川や紀の川は、断層が生じた所に水が集中したのでしょうか?  
宮川のところに断層が走っているのかどうかは、調べていません。地図でこの部分をみますと、カーブしていますから、断層ではなさそうです。
 42号線からある交差点を右折と書きましたが、その交差点から、しばらくの集落の名前が、「船木」です。この地名は、10年前から気になっているところです。重要な地名ではないかと思っています。ここは、川が流れていますが、川がなくて船に関係ないようなところでもあります。(どなたか調べてください)交差点を曲がる西には、「川合」の地名があります。このように眺めて行きますと、川が合流するところに付けられた川合のように、そ
の土地の様子から付けられた地名があることが判ります。
「瀧原」はインターネットを見ていますと、この辺りは、滝が多いから名前がついたと書いておられますが、本当でしょうか? 私は、「多岐原」は道が、沢山分かれている所、分岐するところではなかったかと想像しています。
 古事記で、「高志之八俣遠呂智」と記述があります。スサノオが大蛇を退治に行ったところです。「高志」は地名ですが、「八俣」は、八つの俣になったところです。現在の横田というところだと思います。地図でみますと、八つあるようには見えませんが、「八」は多いという意味かも知れません。そのすぐ後ろに「谿八谷峡八尾」があります。これは実際に八あるのではなく、沢山あるの八だと思います。大蛇の身が、八頭八尾をもっていると書いてありますが、こちらは、お酒の樽を用意しましたから、数字の八だと思います。
太安万侶は、「谿八谷峡八尾」全体が製鉄所になっている山の人々をや
っつけた話を古老から聞いて、このような話にしたと思います。
「須佐之男の大蛇退治」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.
html 
数字が多い意味では、このように「八」が使われます。「多」が使われた例を見つけていませんが、間違いいのではないかと推察しています。というのは、伊勢からみますと、宮川の左岸を西へ行きますと、奈良盆地へ通じます。「三瀬川」で、宮川の右岸に渡り、三瀬坂峠を超えますと、瀧原宮です。この道は、熊野街道だと思います。

ここは、天皇家にとって重要な地点でしたから、多岐原神社が作られましたが、8世紀になってから、藤原氏にとって、重要な所になったので、三瀬川よりも広いところに滝原宮を建て、その地を瀧原とよぶようになったのではないかと推理しています。

伊雑宮は、海から侵入する者を監視し、滝原宮は奈良と和歌山からの侵入をチェックしたのではないかと推理しています。 
このような見方で、この辺りの地名を地図で眺めてください。多岐原という地名が、古くからあったのではないでしょうか?

 次回、もう一度、多岐原神社について書こうと思います。


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