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No275 多岐原神社 その3 [日本大好き]

No264からNo274で書きましたように、これらのことから、考えますと、伊雑宮と瀧原宮は、藤原氏にとっては、自分たちが天皇家の封じ込めるために、どうしても必要であった拠点であるような結論になりそうです。
それだけではなく、20年に一度の遷宮も、天皇家に財産上の負担を強いるものではなかったかと、意地の悪い想像しています。
しかし、時間というものは、素晴らしいものだと思います。そのようなことが、例え、あったとしても、藤原氏がいなかったら、現在の日本の繁栄はなかったと思えますし、そのような見難い戦いなど、無かったかのように、伊勢神宮の人たちは、日本の平和を願って毎日、祈りを続けておられます。

伊雑宮と瀧原宮も、一度訪れてください。どうして、仕事だと言っても、このような寂しいところで、毎日、昔から行われていることを、ただ、ひたすら守って生活しておられるのだろうと思ってはいけないのだろうか? と思ってしまいました。 
 神社では、ひたすら、神に対して感謝と祈りを続けてこられました。 神社にお参りしていた日本人も、そうだったように思うのですが、神にはお願いをして、感謝はしなかったのではないでしょうか?
現在の社会を眺めていますと、何事に対しても、感謝と祈りが大切なのに、忘れられようとしてい.気がしています。

No274までだけですと、あまりにも、伊勢神宮がかわいそうですので、他に、なにか役割があったのではないかと考えました。

お聞きしたことで、他に、二つあります。
多岐原神社の鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったことです。私が神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったそうです。河原からどれぐらいの高さの所にあるのか調べませんでしたが、相当高いところにあると思います。このような洪水が頻繁に起こったから、すぐ上流にダムが治水目的で造られたとおもいま
す。それでも、これほどの浸水があったことになります。
 それだけ、多岐原神社の周囲というか、上流は広大な面積であり、降雨量が多いのだと思います。その水は、大きい川で言います、宮川と大内山川に流れ込み、多岐原神社で合流しています。
 この厖大な降水量で育った杉やヒノキが、大木になって育っています。確か、江戸時代まで、多岐原神社のところは、貯木場があったとお聞きしました。全国に、貯木場は、木場・木代・木部などの地名で残っています。

 話は飛びますが、奈良の吉野に、下市と上市というところがあります。今でこそ、吉野は吉野山の桜で有名ですが、元は吉野の貯蓄場があって栄えたところだと思います。現在も現役です。この吉野山へ行く電車は、下市で右に90度カーブして吉野川を渡りますが、川沿いの国道を東へ進みますと、円錐形の妹山という山が見えてきます。(重要な地点で
は、目印になるように、円錐形にしたと思っています) この山の麓に、大名持神社があります。祭神は、大名持命・須勢理比咩命・少彦名命です。創祀不明の小さな神社ですが、貞観元年(859)に正一位を奉られていましたが、その値打ちはどれほどのものか知りません。当時としては、大和でこの位は、春日大社と二社のみという格式ですから、その力は相
当であったと思われます。
この祭神の大名持命は、延長五年(927に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に貞観元年1月27日、大和国従一位大己貴神正一位とあります。この大己貴神という名前は、大国主神の別名です。しかし、日本書紀では、大己貴神と書き、古事記では、大穴牟遅神と書かれています。

創紀の年代は詳らかではありません。 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 とも云われています。
この由来は、神社の前の吉野川の潮生渕に、毎年、6月30日に潮水が湧出するという伝承があり、吉野川の清水を汲みに、磯城・桜井地方の宮座の当屋がここに来て、六根清浄の禊をし、吉野川の清水を汲み、河原の白石を拾って帰り、地元で祭祀を行う。これを「大汝詣で」と言います。

どうして、どうでもいいことを長々と書いたかと言いますと、延喜式内社は、朝廷から授かった神社ではありません。朝廷が作ったことになってはいますが、藤原氏が構築した法律書(延喜式)に掲載された神社です。
式内社は、藤原氏の言うことを聞く神社のみに与えられた称号と言っていいと思います。
ところが、祭神の大穴牟遅神を大己貴神に書き換えることは、断ることが出来なかったのだと思います。そこで、祭神の名前は譲って、神社の名前には、「大穴牟遅神社」ではなく、「大名持神社」と書いて許して貰ったのだと思います。この大名持も藤原氏からは、嫌われたらしく、中世には『妹背神社』と名乗ったり、古くから行われていた行事も、「大汝詣で」と言って、苦しい変え字でごまかしていたのだと思います。
神社をもう少し進みますと、「清滝」という地名があります。持統天皇が、30数回も訪れたという行宮のあったところです。
この「清滝」も重要な拠点であったと考えています。このまま、進みますと、東吉野を通って、伊勢と和歌山へ街道になります。「清滝」は天皇が、奈良から逃げるときの大切なところであっただけではなく、逆に明日香が攻められるときに最初に防御し易いところでもあったことになります。

大名持神社に戻ります。ここで、道は二手に分かれます。左に道を取りますと、旧伊勢街道になり、宇陀を通って、多岐原神社に行くことができます。右を取りますと、清滝です。清滝に一度行ってください。ここは流れの激しい瀬になっています。多岐原神社のところも、三つの瀬がありましたから、三瀬の地名が残っています。瀧原の地名は、滝が多いからではなく、大きな滝がある所は、攻防に都合の良いところであったことが判ります。
伯耆の国では、6ヶ所しか、式内社が獲得できなかった藤原氏ですが、天武天皇・持統天皇の大切なところも、藤原氏に取られたことが判りますが、

 
須勢理比咩命は大国主神の后です。
大名持神社 http://kamnavi.jp/as/yosino/oonamuti.htm

瀧原宮は、伊勢を守るための拠点であっただけでなく、ここに貯木場があったということは、伊勢国の材木の多くは、ここで調整されていたのではないでしょうか?
次回は、しばらく、別宮のことを離れて、内宮がどうして、現在の所に造
られた書いてみます。


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